4話_書にない者は災いを呼ぶ
列は、ゆっくりと進んだ。
前に並ぶ人たちは、自分の灯を読むと、隣の人とひそひそと言葉を交わした。
「『古き鍋を手放せ』……とな。さて、新しいのを買えということかの。それとも、嫁いだ娘に譲れということか」
「鍋の灯で、ずいぶん悩むのう」
「悩むのも楽しみのうちよ」
男たちが笑い合う。
けれど、その笑い声は、台の脇に立つ若い記録官が顔を上げると、すっと消えた。
「〈古き鍋を手放せ〉は、売れという意味だ」
記録官は、帳面から目を離さずに言った。
「七日のうちに市で売り、その旨を報告せよ。記しておく」
「……はっ。かしこまりました」
男は深々と頭を下げて、去っていった。
莉々愛は、記録官を観察した。
二十歳くらいだろうか。白い衣の胸元には、銀の徽章が光っている。翼を広げた鳥が、一冊の本を抱えている形だった。
前に並ぶ中年の女に、小声で尋ねる。
「あの人の胸のバッジ……あの紋章、何ですか」
「ばっじ? ああ、あれは大神殿の紋じゃよ。大預言官さまにお仕えする方の印じゃ」
女はそれだけ言うと、前に向き直ってしまった。
ピコン。
≪ほら、やっぱ決まりなんじゃん≫
≪あの神官のおじいちゃん、甘いこと言ってたけど≫
≪ほんとはこっちが正解なんだよ≫
前の女が台に手を置いた。光の文字が二行、ふわりと浮かぶ。
一つ、隣家に喜びの知らせあり
一つ、家の者に、声をかけよ
女は少しだけ嬉しそうに笑った。
「隣のサラの婚礼の話じゃろうか。ようやくか」
二つ目の灯を読んで、女はふと黙った。それから、小さく呟いた。
「……息子と、話してみるかの」
記録官は、それには何も言わず、帳面に印をつけた。
次は、莉々愛の番だった。
「旅の者か」
記録官が顔を上げた。灰色がかった青い目が、莉々愛のパーカーとスニーカーを見て、わずかに細められる。
「珍しい装束だな。どこの地方の者だ」
「えっと……横浜、です」
「ヨコハマ。聞かぬ名だな」
記録官は首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。
「まあよい。手を置きなさい。書は、すべての者の名を知っている」
莉々愛は、白い石の台を見下ろした。
つるつるの表面に、自分の顔がぼんやりと映っている。不安そうで、少し泣き腫らした顔。
──お母さん、今ごろ何してるかな。
ふと、そんなことを思った。
返事をしなかったLINE。ラップのかかったカレー。
莉々愛は、右手のひらを、そっと石の上に置いた。
ひんやりとした感触。
三秒。五秒。十秒。
何も、起こらなかった。
光の文字は、一行も浮かばない。石は、ただの冷たい石のまま、莉々愛の手のひらの下で黙っていた。
「……あれ?」
莉々愛は手を離し、もう一度置いてみた。
やはり、何も浮かばない。
記録官の顔色が変わった。
「もう一度だ。両手で置け」
言われたとおりにする。何も起こらない。
記録官は帳面を放り出し、莉々愛の手首を掴んで、無理やり石に押しつけた。
「痛っ……!」
そのとき、石が反応した。
光ではなかった。
台の表面に、じわりと黒い染みが広がった。墨を一滴垂らしたように。染みはみるみるうちに広がり、白い石の台全体を、真っ黒に塗りつぶしていく。
広場にいた人々が、一斉にざわめいた。
「黒い……」
「写しの台が、黒く……」
「七の日に、なんと不吉な」
記録官は莉々愛の手首を離し、後ずさった。羽根のペンが、石畳に落ちる。
けれど、その顔に浮かんでいたのは恐怖だけではなかった。驚きと、それから、何かを確信したような光だった。
「名が……ない」
記録官の唇が、震えながら言葉を紡いだ。
「この者の名が、書にない。……まさか。まことに、大預言官さまの予言のとおりに」
広場が、しんと静まり返った。
「〈書にない者〉じゃ!」
誰かが叫んだ。それを合図に、悲鳴が上がった。
「災いを呼ぶ者が来た!」
「西の丘からの風とは、このことか!」
「子どもを家に入れろ!」
人々が蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。戸が叩きつけるように閉められ、窓の木戸が次々に下ろされていく。
隣にいた老婆が、怯えた目で莉々愛を見て、杖をつきながら離れていった。
「ちょ、待って、なに? なんなの?」
莉々愛はわけもわからず立ち尽くした。
ピコン。
≪ほらね≫
≪言ったじゃん≫
≪どこ行っても、あんたはハズレなんだよ≫
記録官が、塔の上に向かって叫んだ。
「鐘を鳴らせ! 〈書にない者〉だ! 白衣の番人を呼べ!」
さっきまでのやさしい鐘とは違う、重く低い音が、ゴォーン、ゴォーン、と村じゅうに響き渡る。その音は、おなかの底まで震わせた。
神殿の脇の鉄の門が開いた。
中から現れたのは、全身を白い鎧と白い外套で包んだ兵士たちだった。顔は銀色の仮面に覆われ、手には長い槍を持っている。五人、六人、七人。
鎧の胸には、記録官と同じ紋章が刻まれていた。翼を広げた鳥と、一冊の本。
「待ちなさい!」
神殿の扉から、オルドが飛び出してきた。曲がった背を精一杯に伸ばし、番人たちの前に立ちはだかる。
「その子は、まだ子どもじゃ。書に名がないからといって、槍を向けるとは何事か。今朝、何を読んだか忘れたか。弱き者を労われと──」
「神官殿」
記録官が、冷ややかに遮った。
「灯の解釈は、記録官が定める。大預言官ヴァルゼオンさまの定めをお忘れか」
オルドの顔が、こわばった。
「大預言官さまは、十年も前から予言しておられた。いずれ書の外より、名なき娘が来たる、と。その娘を見つけた者は、必ず都へ送り届けよ、と」
記録官は、番人たちに向き直った。
「行け。だが、殺すな。傷ひとつつけるな。生かして捕らえよ。それが、ヴァルゼオンさまのご命令だ」
──ヴァルゼオン。
聞いたことのない名前が、なぜか胸の奥に冷たく沈んだ。
十年も前から、私が来ることを予言していた?
生かして、捕らえて、都へ?
番人たちが、一斉にこちらを向いた。仮面の奥の目は、見えなかった。
莉々愛は、走った。
考えるより先に体が動いた。広場を横切り、石畳の路地へ飛び込む。背後で、鎧の鳴る重い足音が追ってくる。
「待てっ!」
待てるわけがない。
スニーカーが石畳を蹴る。息が上がる。体育の持久走でも、こんなに必死に走ったことはない。喉の奥が、鉄の味でひりついた。
路地を右へ。左へ。誰もいない市場の屋台のあいだを抜け、積まれた樽を飛び越える。七の日の村は、どこも戸が閉まっていて、逃げ込める場所がない。
背後の足音が、少しずつ近づいてくる。
ピコン。
≪もう無理でしょ≫
≪捕まれば? 殺されはしないんでしょ≫
≪都に行けば、ご飯くらいもらえるかもよ≫
足がもつれた。
石畳の割れ目につまずき、莉々愛は前のめりに転んだ。膝と手のひらを擦りむき、じんと熱い痛みが走る。
立ち上がろうとして、顔を上げた。
路地の先は、行き止まりだった。
高い石壁。左右も家の壁。
後ろから、鎧の音が近づいてくる。
「……詰んだ」
声が震えた。
そのとき、また風が吹いた。
行き止まりのはずの路地に、どこからか、やわらかい風が。
右を見て
胸の奥で、あの声がした。
莉々愛は、言われるままに右を見た。
家の壁の低いところに、小さな木の板が打ちつけてあった。古びて、端が少しめくれている。
その隙間から、二つの目がこちらを見ていた。
子どもの目だった。
「こっち」
小さな声。木の板が、内側からぎいっと押し開けられる。犬一匹がやっと通れるくらいの穴が、そこにあった。
「早く!」
莉々愛は迷わなかった。四つん這いになって、その穴に体をねじ込む。パーカーのフードが引っかかり、無理やり引き抜いた。
内側に転がり込むと同時に、小さな手が木の板を元に戻した。
壁一枚向こうで、鎧の足音が止まった。
「……消えた?」
「そんなはずはない。探せ!」
「この辺りの家を一軒ずつ当たれ!」
足音が、ばらばらに遠ざかっていく。
莉々愛は、暗がりの中で息を殺していた。
干し草の匂いと、むっとするような獣の匂いがした。どうやら、家畜小屋か納屋の中らしい。
すぐ隣で、小さな体が同じように息を殺している気配がした。
やがて、足音がすっかり聞こえなくなった。
「……行ったみたい」
隣の小さな影が、ほっと息をついた。
屋根の隙間から、細い朝の光が差し込んでいる。その光の中に、一人の少年が座っていた。
莉々愛は、息をのんだ。




