3話_七日の灯、もう受けた?
最初に感じたのは、草の匂いだった。
湿った土と、夜露を含んだ青い草の匂い。団地の部屋の、カレーと洗剤の混じった匂いとはまるで違う。
莉々愛はゆっくりと目を開けた。パーカーの背中が、夜露でじっとりと冷たい。
空が、近かった。
藍色の夜空いっぱいに、星がまたたいている。こんな星空、プラネタリウムでしか見たことがない。
でも、何かがおかしい。
星の並びが、まるで文字のようだった。
点と点が細い光の線でつながり、流れるような曲線を描いて、空の端から端まで連なっている。一行、また一行。夜空そのものが、巨大な本のページになっていた。
見たことのない文字だ。それなのに、なぜか意味が頭に流れ込んでくる。
はじめに、神々は言葉をもって世界を書いた。
「……は?」
莉々愛は跳ね起きた。
見渡すかぎりの草原。なだらかな丘がいくつも重なり、その向こうに、黒々とした森の影が横たわっている。
丘のふもとには、小さな村があった。石を積んだ家々と、とがった屋根の塔。まだ夜明け前なのに、いくつかの窓にはもう、橙色の灯りがともっている。
電線がない。道路もない。コンビニの看板も、車の音もない。
「え、待って。待って待って待って」
ポケットを探る。スマホはあった。画面をつけると、ロック画面の時計は「21:47」のまま止まっていた。
右上には「圏外」。バッテリーは23パーセント。
「圏外って……日本にそんなとこある?」
ピコン。
≪いやいや、夢でしょ≫
≪古本屋で寝落ちしたんだよ≫
≪はい起きて〜≫
莉々愛は自分の頬をつねった。
痛かった。普通に、ちゃんと痛かった。
「……夢じゃないじゃん」
東の空が、ほんのりと白み始めた。
星の文字が、端のほうから一つずつ、溶けるように薄れていく。
風が吹いた。
頬をなでる、あのやわらかい風。古書店で感じたのと同じだった。
……行ってみよう
胸の奥で、小さく声がした。
莉々愛は少し迷ってから、丘を下り始めた。
*
村の入り口には、木でできた門があった。門柱には、星空と同じ文字が彫り込まれている。
ハーゼルの村 神々の書の守りのもとに
塔のほうから、鐘の音が聞こえてきた。
カラーン、カラーン、と澄んだ、やさしい音。急かすというより、誰かを呼んでいるような響きだった。
その音を合図に、家々の戸口から人々が出てきた。
莉々愛は思わず、物陰に隠れた。
みんな、きちんとした身なりをしていた。洗いたての白い麻の上着。刺繍の入った帯。女の人たちは髪をきれいに結い、小さな子どもまでよそいきの服を着せられている。
農具を持っている人は、一人もいなかった。
どこかの家から、焼きたてのパンの匂いが流れてきた。おなかが小さく鳴る。そういえば、昨日の夜からほとんど何も食べていない。
「今週の灯は、どのようなものであろうな」
「先週は灯に『恵みの雨あり』とあった。まことに、三日目に降ったのう」
「ありがたいことじゃ」
口調が、時代劇みたいに古い。それなのに、言葉の意味はちゃんとわかった。
人々は皆、村の中心へ向かっていく。広場の奥に、白い石で造られた建物があった。丘の上から見えた、あの塔の建物だ。大きな扉は開け放たれ、人々が次々に吸い込まれていく。
──教会、みたいなもの?
莉々愛はパーカーのフードを深くかぶり、最後に入っていく一家のうしろについて、そっと扉をくぐった。
中は、思っていたより明るかった。高い窓から朝の光が差し込み、白い壁に反射して、建物全体がほのかに光っているように見える。
木の長椅子がずらりと並び、村人たちが静かに腰を下ろしていた。古い木と、ろうそくの蝋の匂いがする。莉々愛は一番うしろの柱の陰に、身を縮めて立った。
やがて、人々が声を合わせて歌い始めた。
ゆったりとした、低い旋律。言葉の意味はわからないのに、なぜか胸の奥が静かになるような歌だった。低い歌声が、石の床を伝って、足の裏にじんと響いてくる。
歌が終わると、正面の壇に一人の老人が上がった。
白い髭をたくわえ、生成りの質素な衣をまとっている。手には、革の表紙の古い本。背は少し曲がっているが、目はおだやかで、村人を一人ひとり確かめるように見渡した。
「神官のオルドさまじゃ」
隣から、ささやく声がした。
見ると、小柄な老婆が長椅子の端に座っていた。しわだらけの顔に、小さな目がきらきら光っている。
「この村で五十年、聖典を読んでくださっておる」
オルドは古い本を開いた。礼拝堂が、しんと静まる。
「〈はじまりの書〉より、読む」
しわがれているのに、不思議とよく通る声だった。
「はじめに、何もなかった。光も、闇も、時さえもなかった。ただ、神々の言葉だけがあった。
一の日、神々は〈光〉と書かれた。すると光があった。
二の日、神々は〈空〉と〈海〉を書き分けられた。
三の日、〈大地〉と〈実のなる木〉を書かれた。
四の日、〈日〉と〈月〉と〈星〉を書かれた。星はいまも、神々の文字として夜空に残っている。
五の日、〈鳥〉と〈魚〉を書かれた。
六の日、〈獣〉と、そして〈人〉を書かれた。
七の日、神々は筆を置き、休まれた。そして、生まれくる人々の歩む道を、一冊の大いなる書に記された。これを〈運命の書〉という」
莉々愛は息をのんだ。さっき空で読んだ言葉と、同じだった。
──どこかで、聞いたことある。七日間で世界ができて、七日目に休む話。
オルドは本から顔を上げた。
「ゆえに我らは、七の日には働かぬ。ここに集い、歌い、神々の書から〈七日の灯〉を授かる」
それから、壇の脇に立てかけてあった大きな石板に手を置いた。
石板の表面に、ふわりと光の文字が浮かび上がる。村人たちが、一斉に身を乗り出した。
「今週の、ハーゼル村の灯である」
一つ、二の日より雨。麦の刈り入れを急げ
一つ、西の丘より、書の外の風が吹く
一つ、弱き者を労われ
礼拝堂に、小さなざわめきが広がった。
「刈り入れか。明日から忙しくなるぞ」
「書の外の風とは、何であろう。嵐か?」
オルドは、ざわめきが静まるのを待ってから、ゆっくりと口を開いた。
「皆、よく聞きなさい。七日の灯は、掟ではない。神々が我らの行く手を、ほんの少し照らしてくださる〈道しるべ〉じゃ」
老神官の目が、やわらかく細められた。
「雨が来ると示されても、どの畑から刈るか、誰と刈るか、誰の畑を手伝うかは、灯には書かれておらぬ。それを決めるのは、汝ら一人ひとりの心じゃ。灯は道を照らす。だが、その道に足を運ぶのは、汝ら自身である」
──天気予報、みたいなもの?
莉々愛は、ふと思った。降水確率七十パーセントでも、傘を持っていくかどうかは自分で決める。朝の情報番組でお天気キャスターが言うのは、あくまで「予報」だ。
最前列の端で、白地に銀の刺繍の衣をまとった若い男が、わずかに眉をひそめた。羽根のペンを握り、手元の帳面に何かを書きつける。
オルドはそれに気づいているのかいないのか、言葉を続けた。
「西の丘からの風が何であるかは、わしにもわからぬ。嵐かもしれぬ。客人かもしれぬ。わからぬものに出会ったとき、どうすべきか。それを示すのが、三つ目の灯じゃ。弱き者を労われ」
オルドは聖典のページを繰った。
「今日はもう一か所、〈教えの書〉を読もう。古の師が、七の日に人を癒やしたことを責められたとき、こう答えられた」
汝らのうち、ただ一匹の羊を持つ者がいて、
その羊が七の日に穴に落ちたなら、
手をかけて引き上げぬ者があろうか。
人は、羊よりはるかに尊いではないか。
ゆえに、七の日に善きことを為すのは、正しいのである。
「七の日に、神々は筆を置かれた。しかし、命を救う手まで置かれたのではない」
オルドは聖典を閉じた。
「灯に書かれておらずとも、目の前で倒れている者がいれば、手を差し伸べなさい。困っている者がいれば、助けなさい。一つの命は、七日の灯よりも重い。それを、ゆめゆめ忘れぬように」
最前列の若い男が、ペンを走らせる音が、静かな礼拝堂にかすかに響いた。
*
礼拝が終わると、人々は外へ出た。けれど、誰も帰ろうとはしない。建物の正面の階段の前に、一列に並び始めた。
列の先には、腰の高さほどの白い石の台が置かれていた。表面は鏡のようにつるつるで、開いた本のような形に彫られている。
先頭の男が、その石の台にそっと手のひらを置いた。
石の表面に、光の文字が浮かび上がった。二行か、三行。ごく短い言葉だ。
男はそれを読み、うーむと首をひねり、それから頷いた。台の脇に立つ白い衣の男に一礼して、列を離れていく。礼拝で最前列にいた、あの若い男だった。
「あれは〈写しの台〉じゃ」
いつの間にか、さっきの老婆が莉々愛の隣に立っていた。
「村の灯は神官さまが読んでくださる。じゃが、自分ひとりの灯は、ああして自分の手で授かるのよ。これからの七日の、道しるべをな」
「道しるべって……何が書いてあるんですか」
「それは人それぞれじゃ。『古き友の便りあり』とか、『家の者を労われ』とかの。二つ三つ、短い言葉が灯るだけよ。それをどう受けとめ、どう生きるかは、その者しだい」
莉々愛は、列の人々をもう一度見た。
光の文字を読んで、首をかしげる人。隣の人と顔を見合わせて笑う人。真剣な顔で、何度も読み返す人。
「……なにあれ」
思わず呟いた。
「毎週おみくじ引いてんの? ってか、スピ活界隈?」
言ってから、自分で少し笑いそうになった。
スピ活というのは、スピリチュアル活動の略だ。占いやタロット、パワーストーン、神社やパワースポットめぐりで、運気を上げようとすること。
クラスにも、そういうのが大好きな子たちがいる。朝のホームルーム前に星座占いアプリを見せ合い、「今週ラッキーカラー青だって」と盛り上がる。界隈というのは、そういう同じものが好きな人たちの集まりのことだ。
目の前の光景は、村じゅうがその「界隈」になったみたいだった。
「すぴかつ、とは何じゃ」
老婆が首をかしげた。
「あ、いえ、なんでもないです。その……占い、みたいなものかなって」
「占いとは違う」
老婆は小さく首を振った。
「占いは、当たるも八卦、当たらぬも八卦じゃろう。灯は、神々の書から映されたもの。外れたことは、一度もない」
ピコン。
≪外れたこと一度もないって、えぐ≫
≪人生ネタバレ済みってこと?≫
「……でも、さっきの神官さんは、灯は掟じゃないって」
「オルドさまは、そうおっしゃる」
老婆は、少し声を落とした。最前列の男のほうを、ちらりと見る。
「じゃが近ごろは、そうでもなくなってきてのう。あの記録官さまが都から遣わされてからは」
「記録官……」
「十年ほど前、都に新しい大預言官さまが立たれた。それからじゃ。どの村にも記録官さまが置かれ、灯の読み方は記録官さまが定めるようになった。灯のとおりに生きておるか、帳面に記されるようにもなった」
老婆はため息をついた。
「昔は、灯はもっと穏やかなものであった。今は……少しばかり、窮屈じゃ」
それきり、老婆は口をつぐんだ。
ピコン。
≪でもさ、全部決まってたほうが楽じゃない?≫
≪迷わなくていいし、失敗しなくていいし≫
≪親ガチャも、最初から書いてあったってことでしょ。あんたのせいじゃないよ≫
莉々愛は、その声に少しだけほっとした。ほっとした自分に、少しだけぞっとした。
「旅の者よ。そなたも授かってくるがよい」
老婆が言った。
「旅の者でも、神々の書には必ず名がある。灯を見れば、そなたの行くべき道も照らされよう」
莉々愛は、白い石の台を見つめた。
あそこに手を置いたら、何がわかるんだろう。
帰れるのか、帰れないのか。家族と、もう一度会えるのか。
「ねえ、七日の灯、もう受けた?」
列の後ろで、若い娘が友達にそう聞いていた。
あまりにも普通の、週末の挨拶みたいな口調だった。
莉々愛は、ゆっくりと列の最後尾に並んだ。




