2話_表紙のない本
十月の夜風は、思っていたより冷たかった。
駅前の商店街は、ほとんどの店がシャッターを下ろしていた。開いているのはコンビニと、赤ちょうちんの居酒屋が一軒だけ。
莉々愛は自転車を押しながら、あてもなく歩いた。
居酒屋の換気扇から、焼き鳥のたれの焦げた匂いが流れてくる。おなかが、きゅっと鳴った。カレーを半分も食べないまま出てきたことを、今さら思い出した。
ポケットの中で、スマホが震える。
〈どこにいるの〉
〈ごはん、ラップしてある〉
母からだった。
既読をつけないように、通知だけを見て画面を消す。
ピコン。
≪返さなくていいよ≫
≪心配してるふりでしょ≫
「……わかってるし」
声に出して言ってみると、思ったより弱々しく響いた。
商店街の一番奥、街灯が途切れるあたり。そこに一軒だけ、明かりのついている店があった。
古書 栞屋
色の抜けた木の看板。ガラス戸の向こうには、天井まで届く本棚がぎっしり並んでいる。
こんな店、あったっけ。毎日の通学路の途中なのに、見た覚えがない。
時計は九時半を回っていた。古本屋が開いている時間ではない。
なのに戸の隙間から、ぼんやりとした白い光が漏れていた。
自転車を停め、戸を押す。
カラン、と小さな鈴が鳴った。
「……すみませーん」
返事はない。レジの奥には、誰も座っていない古い椅子があるだけだった。
紙とほこりの匂い。古い時間が、そのまま閉じ込められているような匂いだ。
棚と棚のあいだの細い通路を、莉々愛は奥へ進んだ。一歩ごとに、古い床板がきしりと鳴る。背表紙の文字はどれもかすれていて、読めない。
一番奥の棚の前で、足が止まった。
その棚だけ、ほこりがひとつも積もっていなかった。
まるでついさっき、誰かが丁寧に拭いていったみたいに。
棚の真ん中に、一冊だけ、真っ白な本がささっていた。
タイトルも、作者名もない。表紙も背表紙も、ただ白い。それなのに、そこから淡い光がにじんでいる。
「なにこれ……ドッキリ? インスタ映えのやつ?」
誰も答えない。
莉々愛は手を伸ばして、本を引き抜いた。思ったより軽い。羽毛を抱えているような手触りだった。
表紙をめくる。
白。
次のページも、その次も、白。どこまでめくっても、一文字も書かれていない。
「……え、白紙? 意味わかんな」
そう呟いた瞬間、ページの真ん中に、黒いインクがじわりとにじんだ。
まるで、見えない誰かが今まさにペンを走らせているように。
細く、美しい文字が、一画ずつ浮かび上がっていく。
あなたは、
自分の人生を
誰のせいにして生きるのか
心臓が、どくんと鳴った。
ピコン。
≪は? なにそれ≫
≪親のせいでしょ。決まってんじゃん≫
≪お金がないのも、塾に行けないのも、話を聞いてもらえないのも≫
≪ぜーんぶ、ハズレのガチャを引かされたせい≫
声はいつもより早口だった。何かに焦っているみたいに。
莉々愛は本を閉じようとした。でも、指が動かなかった。
そのとき、閉め切った店の中なのに、ふわりと風が吹いた。
頬をなでて、前髪をそっと揺らす、やわらかい風。
息を吸う。吐く。
その呼吸のすきまに、聞いたことのない声がした。
声というより、胸の奥で何かがほどけるような感覚だった。
……ほんとうに?
「え」
ほんとうに、それだけ?
ページの上で、文字がかすかに震えた。
問いはそこにあるまま、答えを待っている。
莉々愛の頭に、いくつもの場面がよぎった。
蛇口の水の音。母の背中。
丸めた画用紙と、「あっ」という小さな声。
ぱんぱんに張った、自転車のタイヤ。
「……知らないよ。そんなの」
莉々愛は、ほとんど泣きそうな声で言った。
「私が選んだんじゃないもん。あの家に生まれたのも、お金がないのも、颯太が病気なのも。全部、私のせいじゃないじゃん。なのに、なんで私ばっかり……」
ピコン。
≪そうそう、あんたは悪くない≫
≪悪くないんだから、何もしなくていいの≫
そうだよね、と頷きかけた。
けれど、本の文字は消えなかった。ただ静かに、そこにあった。
自分の人生を、誰のせいにして生きるのか。
莉々愛は、震える指先でページに触れた。
その瞬間、文字が光った。
黒いインクが一斉にほどけ、無数の光の粒になって、ページからあふれ出す。光は莉々愛の手を伝い、腕を伝い、渦を巻いて店じゅうに広がった。棚の本が一斉にはためき、何百ものページがめくれる音が、雨のように降り注ぐ。耳の奥で、遠い海鳴りのような音がした。
「ちょっ……なに、なにこれ……っ!」
足もとの床が消えた。
落ちていく。どこまでも白い、光の底へ。
遠のいていく意識の端で、莉々愛は見た気がした。
店のいちばん奥の暗がりで、白い布の裾が、音もなく揺れたのを。
誰かが、そこに立っていた。
ずっと前から、彼女がこの本を手に取るのを待っていたかのように。
≪やめなよ≫
≪戻りなよ、今ならまだ──≫
通知音の声が、ノイズにかき消されていく。
最後に頭に浮かんだのは、なぜか、ゴミ箱の中で丸まっている一枚の画用紙だった。
おねえちゃんは ゆうしゃ
──勇者なんかじゃないよ、私。
その言葉が声になる前に、莉々愛の意識は光の中に溶けていった。
*
カラン、と鈴が鳴った。
誰もいない古書店の床に、真っ白な本が一冊、ページを開いたまま落ちている。
そのページには、もう何も書かれていなかった。
本小説は、小説投稿サイトTALESで完結済みの『運命の書にない少女』を修正しているものです。
文章表現などを一部調整しています。




