1話_「それな」しか言えない夜
画面の中で、海が光っていた。
エメラルドグリーンの波打ち際で、美空がくるりと回る。白いワンピースの裾がふわりと広がり、軽快な音楽に合わせて「家族旅行さいこー」の文字が弾けた。
ホテルのプール。夕焼けのテラス。大きなお皿に盛られたトロピカルフルーツ。最後に、美空と母親が顔を寄せ合って笑うツーショット。
いいね、四百三十七。
莉々愛は親指でハートを押した。押した瞬間、胸の奥が小さくきしんだ。
ピコン。
通知音が鳴る。アプリの通知ではない。頭の中で、ときどき鳴る音だ。
音のあとに、コメント欄のような短い声が流れてくる。
≪いいなー≫
≪で、あんたは?≫
≪沖縄どころか、隣の駅のファミレスも行ってなくない?≫
莉々愛はスマホを伏せた。
団地の四階、2DK。六畳の和室は、真ん中に吊るした水色のカーテンで二つに分けられている。窓側が莉々愛、廊下側が弟の颯太。カーテンの向こうから、ゲームの効果音と、ときどき乾いた咳が聞こえてくる。
台所からは、朝のうちに母が作っていったカレーの匂い。肉よりじゃがいもの多い、星野家のいつものカレーだ。
玄関に、父の作業靴はもうなかった。今週も夜勤らしい。いつ出ていったのかも知らない。そういえば、最後に父とちゃんと話したのはいつだっただろう。
壁の時計が七時四十分を指したとき、鍵の回る音がした。
「ただいま……ごめんね、遅くなって」
母の恵が、スーパーの制服の上にパーカーを羽織ったまま入ってきた。昼は弁当工場、夕方からはスーパーのレジ。両手のレジ袋には、値引きシールの貼られた惣菜が透けて見える。
「颯太、咳は? 吸入した?」
「したー」
「ほんとに? ちゃんと吸った?」
母はまっすぐ颯太のところへ行き、額に手を当てた。
莉々愛は、その背中を見ていた。
「お母さん」
「ん?」
「三者面談の紙、冷蔵庫に貼っといたんだけど。見た?」
「ああ……あとでね。先にごはんにしよ」
あとでね。
その「あと」が来たことは、一度もない。
食卓に三人分のカレーが並ぶ。テレビでは、知らない芸人が知らない店のパンケーキを食べていた。
莉々愛はカレーをひと口食べた。いつもの甘口。颯太に合わせた、子どもの味だ。
颯太がスプーンを置いて、ランドセルから一枚の紙を引っぱり出した。
「おねえちゃん、見て!」
画用紙いっぱいに、クレヨンで描かれた女の子。長い髪に大きな剣。背中にはなぜか翼まで生えている。
上のほうに、よれよれの字でこう書いてあった。
おねえちゃんは ゆうしゃ
「学校でね、『かぞくのすごいところ』を描いたの。ぼく、おねえちゃんにした」
「……ふーん」
「ね、すごいでしょ? この剣ね、まものを──」
「あとで見る。ごはん中でしょ」
自分の口から、母と同じ言葉が出た。莉々愛はそれに気づかないふりをした。
「お母さん。面談の話なんだけど」
母がカレーをよそう手を止めずに答える。
「うん、聞いてるよ」
「私、桜ヶ丘の私立行きたい。デザイン科あるとこ。前も言ったけど」
「……莉々愛。それはね、前にも言ったでしょう。公立でもデザインの勉強はできるし」
「できないよ。設備とか全然違うし。美空も、あと二組の子も、みんな塾行って私立受けるんだよ。私だけ塾も行ってないし」
「塾は……今はちょっと。颯太の病院代もあるし」
「また颯太じゃん」
テーブルの空気が、ぴんと張った。
颯太がスプーンを握ったまま、二人の顔を交互に見る。
母は小さく息を吐いて、静かに言った。
「颯太のせいにしないの」
「してないよ。事実を言ってるだけ」
「莉々愛」
「美空んち、今週沖縄だよ? 家族で。お父さんもお母さんも、一緒に写真撮って笑ってんの。うちなんてさ、お父さん、今どこにいるかも知らないし。お母さんは、私の話、ぜんぶ『あとでね』だし」
止まらなかった。言いながら、どこかで「やめなよ」と思っている自分もいた。でも、口が勝手に動いた。
「親ガチャ、ハズレだよ。うち」
テレビの笑い声だけが、部屋に響いた。
「私、ほんとに……この家に生まれたくなかった」
母は、何も言い返さなかった。
ゆっくり立ち上がり、自分の皿を流しへ運ぶ。蛇口をひねる音。水が皿を打つ音。
母はこちらに背を向けたまま、皿を洗い続けた。
莉々愛は、その背中を見なかった。だから知らなかった。
スポンジを持つ母の手が、ほんの少し震えていたことを。
「……もういい」
椅子を引いた拍子に、テーブルの端の画用紙が床に落ちた。莉々愛はそれを拾い上げ、くしゃりと丸めた。
「あっ……」
颯太の小さな声が聞こえた。聞こえないふりをして、丸めた紙をゴミ箱に放り込んだ。
カーテンの向こうの自分のスペースに潜り込み、布団に顔を埋める。干しそびれた布団は、少し湿っぽい匂いがした。
ピコン。
≪はい、言っちゃった〜≫
≪でもさ、事実じゃん?≫
≪あんたの人生がうまくいかないのは、親のせいだよ≫
声は優しかった。いつだって、あんたの味方だよという顔をして。
莉々愛はスマホを開き、美空とのトークを打ち込んだ。
〈親ガチャハズレすぎて無理〉
〈この家まじで出たい〉
既読はすぐについた。
〈それな〜〉
〈わかりみ〉
〈うちもガチャ外れ界隈だし クカ〉
指が止まる。
うちも? 沖縄の海で、母親とほっぺたをくっつけて笑ってたのに?
〈いや美空んち沖縄じゃん笑〉
既読。
少し間があって、返ってきたのは、ウサギが寝転がっているスタンプだけだった。
それで、終わり。
莉々愛は天井を見上げた。蛍光灯の紐が、ゆらゆら揺れている。
それな、も、わかりみ、も、自分がいつも誰かに送っている言葉だ。誰かが「しんどい」と言えば「わかる〜」、誰かが「無理」と言えば「それな」。相手の話を最後まで読む前に、指が先に動く。
──私、誰かの話、ちゃんと聞いたことあったっけ。
ピコン。
≪考えすぎ〜≫
≪ほらね、誰もあんたの話なんて聞いてない≫
≪ここにいても息苦しいだけでしょ≫
莉々愛はパーカーを掴んで立ち上がった。
カーテンの向こうで、颯太がこちらを見ている気配がした。
「おねえちゃん、どこ行くの」
「コンビニ」
嘘だった。行き先なんて、どこでもよかった。
玄関の脇の棚の上に、色あせたピンクの背表紙が一冊、ほかの本に押されるように挟まっていた。背中には、丸っこいマジックの文字が書かれている。
MEGUMI ♡ 1999
前から知っていた。母の昔のプリ帳だ。でも、一度も開いたことはない。
平成のギャルなんて、ちょっとエモいかも。そう思ったのも一瞬で、莉々愛はスニーカーのかかとを踏んだままドアを開けた。
階段の踊り場に、自分の自転車が停めてある。中学に入ったときに買ってもらった、安物の水色の自転車。
サドルに手をかけて、ふと気づく。
タイヤが、ぱんぱんに張っていた。親指で押すと、硬いゴムがしっかりと押し返してくる。
──空気、いつ入れたっけ。
入れた覚えはない。そういえば、この自転車のタイヤがへこんでいたことは、一度もない。
「……まあ、いっか」
莉々愛は自転車を押して、夜の団地を出た。
四階の窓の明かりが、背中のずっと上で、いつまでも灯っていた。




