5話_颯太に似た少年
颯太、と呼びそうになった。
八歳くらいの男の子だった。少し癖のある茶色い髪。丸い頬。目は大きく、まつげが長い。
髪の色も、よそいきの白い麻の服も違う。顔立ちだって、よく見れば日本人のそれではない。
それなのに、似ていた。
人を見上げるときの、首のかしげ方。少し口を開けて、こちらの言葉を待っている顔。
ゲームの画面から振り返るときの颯太と、そっくりだった。
「だいじょうぶ?」
少年が、莉々愛の膝を指さした。擦りむいたところから、血がにじんでいる。
「あ……うん。平気」
「平気じゃないよ。血、出てる」
少年はごそごそと干し草の山を探り、小さな壺を引っぱり出した。ふたを開けると、つんと青くさい匂いがした。
「ばあちゃんの薬。傷にぬると治るんだ」
莉々愛が何か言う前に、少年は指で薬をすくい、彼女の膝にぺたぺたと塗り始めた。冷たくて、少ししみた。
手のひらにも同じように塗ってくれる。その手つきが、妙に慣れていた。
「よくケガするの?」
「ううん。ぼくじゃなくて、ばあちゃん。目が悪いから、よく転ぶんだ」
少年は壺のふたを閉め、莉々愛の顔をまっすぐ見上げた。
「ぼく、トビっていうの。おねえさんは?」
「莉々愛。星野、莉々愛」
「リリア」
トビは、その名前を確かめるように繰り返した。
「へんな名前」
「失礼だな」
「でも、きれいな名前」
トビは笑った。笑うと、片方の頬にだけえくぼができた。颯太にはえくぼはない。そんなことを確かめて、少しだけほっとしている自分がいた。
「ねえ、トビ」
莉々愛は、膝を抱えた。
「なんで、助けてくれたの。私、〈書にない者〉なんでしょ。災いを呼ぶんでしょ。かくまってるのがバレたら、トビだって怒られるじゃん」
トビは、きょとんとした顔をした。
「だって、神官さまが言ってたもん」
「神官さん?」
「うん。今朝の礼拝で。羊が穴に落ちたら、七の日でも引き上げるでしょって。人は、羊よりずっと大切なんだって」
トビは、少し得意そうに胸を張った。
「ぼく、羊飼いの子だからね。羊が穴に落ちたら、七の日だろうが雨の日だろうが、ぜったい助けに行くよ。ばあちゃんもそうする。それで、人は羊よりずっと大切なんでしょ。だったら、助けるに決まってるじゃん」
莉々愛は、言葉を失った。
あまりにも、まっすぐな理屈だった。
「それにね、村の灯にもあったでしょ。弱き者を労われって」
「……あれは、私のことじゃないかもしれないじゃん」
「そうかもね」
トビはあっさり頷いた。
「でも、おねえさん、転んで、膝から血が出てて、泣きそうな顔してた。弱ってる人だったよ」
「……泣いてないし」
「泣きそうな顔」
トビは譲らなかった。
「神官さまはね、こうも言ってた。一つの命は、七日の灯よりも重いって。灯に書いてなくても、目の前で困ってる人がいたら助けなさいって」
トビは、干し草を一本つまんで、くるくると指に巻きつけた。
「ぼく、今週の灯は、まだ見てないんだ」
「え?」
「行列に並んでたの。もうすぐぼくの番だったんだけど、おねえさんが番人さまに追いかけられて、路地に走っていくのが見えて。ぼくの家の裏は行き止まりだって知ってたから、あそこに入ったら捕まっちゃうって思って……列から抜けてきちゃった」
莉々愛は、目を見開いた。
さっき記録官は、帳面に名前を書きつけていた。灯を授かったかどうか、全部記録されるのだ。
「それ、まずいんじゃないの。記録官の人、厳しそうだったし」
「うん。たぶん、怒られる」
トビは、少しだけ肩をすくめた。
「でも、灯を受けるのは来週でもできるよ。おねえさんが捕まっちゃったら、来週じゃ間に合わないでしょ」
ふわりと、風が吹いた。
閉め切った納屋の中なのに、頬をなでる、あのやわらかい風。
莉々愛は、トビの横顔を見た。
屋根の隙間から差す光が、少年のまつげの先で小さく光っていた。
「ねえ、おねえさん」
トビが、声をひそめた。
「ほんとに、書に名前がないの?」
「……うん。石、真っ黒になったし」
「すごいなあ」
「すごくないよ。みんなに逃げられたし、追いかけられたし」
「でも、書にないってことは、まだ誰にも決められてないってことでしょ」
トビの言葉は、まっすぐ胸に届いた。
「いいなあ」
トビはぽつりと言った。それから、きょろきょろと周りを見回し、干し草の奥から何かを引っぱり出した。
平たい木の板だった。表面が黒く汚れている。よく見ると、炭で、たくさんの文字が書かれては消された跡があった。
「これ、ないしょだよ」
板の上には、星空と同じ文字がたどたどしく並んでいた。何度も何度も練習したらしく、同じ文字が何十回も繰り返し書かれている。
「ぼくね、記録官になりたいの」
「記録官って……さっきの、あの人?」
莉々愛は、羽根のペンを握っていた若い男の、冷たい目を思い出した。
トビは、少し困ったように笑った。
「あの人みたいにじゃないよ。ぼくがなりたいのは、昔の記録官」
「昔の?」
「ばあちゃんが言ってた。昔の記録官さまは、聖典や運命の書を読んで、写して、守って、それから、村の人の相談にのってくれたんだって。灯の意味がわからない人に、いっしょに考えてくれたんだって」
トビの目が、きらきらと輝いた。
「でも、今の記録官さまは、みんな都の大神殿から来るの。ヴァルゼオンさまが大預言官になってから、ずっとそう。灯の読み方も、記録官さまが決める。ばあちゃんは、昔のほうがよかったって言ってる。……あ、これもないしょね」
トビは慌てて口を押さえた。
「それに、ぼくの書には、きっと記録官になるなんて書いてない。うちは羊飼いの家だから。羊飼いの子は、羊飼いになるって決まってるんだ。だから、字を練習してるのは、ばあちゃんにもないしょ」
莉々愛は、炭の文字を指先でなぞった。
一文字一文字が、ていねいだった。何度も失敗して、それでもやり直した跡があった。
──羊飼いの子は、羊飼いになるって決まってる。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
ピコン。
≪ほらね、こっちも親ガチャじゃん≫
≪どこの世界でも同じなんだよ≫
≪生まれた家で、全部決まるの≫
声は、さっきよりずっと静かだった。勝ち誇っているようにも、どこか寂しそうにも聞こえた。
「……トビは、それでいいの?」
莉々愛は、気づけば聞いていた。
「生まれた家で、全部決まっちゃうの。嫌じゃないの?」
「わかんない」
トビは、炭の板を大事そうに胸に抱えた。
「でも、オルドさまは、灯は道を照らすだけだって言ってた。どう歩くかは、自分で決めるんだって。だから、ぼく、字の練習だけは続けてるの。練習してるときはね、ちょっとだけ、わくわくする。それって、変かな」
莉々愛は、すぐには答えられなかった。
頭の中に、あの画用紙が浮かんでいた。
クレヨンで描かれた、剣を持った女の子。背中の翼。よれよれの字。
おねえちゃんは ゆうしゃ
あれを描いているとき、颯太もきっと、わくわくしていた。
それを、自分は丸めて捨てた。
「……変じゃないよ」
莉々愛は、やっとのことでそう言った。声が少しかすれた。
「全然、変じゃない。字、きれいだし」
「えへへ」
トビは照れくさそうに鼻をこすった。それから、こほん、と小さく咳をした。
こほん、こほん。乾いた、軽い咳。
莉々愛の背中が、ひやりとした。
聞き覚えのある咳だった。カーテンの向こうから、毎晩のように聞こえてくる音。
「トビ、風邪ひいてるの?」
「ううん。ちょっと喉がいがいがするだけ。この前、羊を追いかけて走りすぎたから。平気だよ」
トビは何でもないように笑った。
外で、また鐘が鳴った。さっきより遠い。番人たちは、村の反対側を探しているらしい。
「しばらくここにいて。夜になったら、ばあちゃんに相談しよう。ばあちゃんは目が悪いけど、いちばん物知りなんだ」
ふわりと、また風が吹いた。
……ありがとう、って言ってごらん
胸の奥で、声がした。
ピコン。
≪やめときなよ≫
≪どうせ、すぐ裏切られるって≫
≪期待するだけ、損だよ≫
二つの声が、胸の中で重なった。
莉々愛は、しばらく黙っていた。
それから、膝を抱えたまま、小さな声で言った。
「……ありがと、トビ」
自分の口から出たその言葉が、ずいぶん久しぶりなものに聞こえた。家で最後に「ありがとう」と言ったのは、いつだっただろう。
トビは、うん、と頷いた。
それから莉々愛の隣に、ぴたりとくっついて座った。小さな肩が触れる。温かかった。トビの髪から、日なたの干し草みたいな匂いがした。颯太の髪は、いつも子ども用シャンプーの、甘いいちごの匂いがする。
こほん、と、トビがまた小さく咳をした。
莉々愛は何も言わずに、パーカーを脱いでトビの肩にかけた。
トビは驚いたように莉々愛を見上げ、それから、えくぼを見せて笑った。
──颯太、ちゃんと吸入したかな。
遠い遠い場所にいる弟のことを、こんなふうに心配したのは、初めてかもしれなかった。
*
同じころ、神殿の奥。
若い記録官は、帳面を前に、手の震えを抑えられずにいた。
今週の灯を授かった者の名を、一人ずつ照らし合わせていく。村の者は、全員そろっているはずだった。
けれど、一つだけ、印のつかない名があった。
羊飼いの子、トビ。
記録官はその名に、小さく赤い印をつけた。それから、新しい紙を取り出した。
大預言官ヴァルゼオンさま
予言の娘、ハーゼルの村に現る。
年の頃は十五。奇妙な装束。黒い髪。写しの台は黒く染まり、名は書になし。
ご命令のとおり、傷つけず捕らえるべく、捜索中。
なお、村の神官オルド、灯を〈道しるべ〉と説き、人の心に委ねるなどと申しております。
あわせてご報告いたします。
記録官は手紙を封じ、白い鳥の足に結びつけた。鳥は音もなく窓から飛び立ち、朝の空へ消えていった。
*
はるか東。都の中心にそびえる、白亜の塔の最上階。
窓辺に降り立った白い鳥の足から、細い指が手紙をほどいた。
白い衣の袖が、風にかすかに揺れる。
手紙を読み終えた男は、しばらく、窓の外の空を見ていた。
それから、胸元の銀の首飾りを、そっと握りしめた。
開いた首飾りの中には、小さな肖像画が収められていた。
けれど、そこに描かれているはずの顔は、白く、空白のままだった。
「……ようやく、来たか」
誰に聞かせるでもない、静かな声だった。
「十年、待った」




