第三幕
歩道を幾らか歩くと、家が見えてくる。
「…君は貴族か何かなのか?」
それなりの豪邸がどーんと建っている。洋館だ。
「いや、そんなことないよ」
「嘘つけ」
「いや本当に違うって」
正面の門に着いた。
門の扉が開き、声がする。
「お帰りなさいませ、紡様」
メイドがいた。
「ただいま」
「…そちらの男性は?」
メイドはちらりと多喜二を見た。
「困ってたから拾ったの」
拾った。連れて来たではなく。
「またですか、紡様」
メイドはムスッとして言った。
「俺は猫か何かか?」
こちらの青年もムスッとした。
「猫と言うよりは犬の方が近い気がするけど」
まあ似たようなものだ。どちらも好きだし。
「…門で話すのもアレですし、中へどうぞ」
メイドが口を開き、青年と私を中へ招く。
ちょっとした大広間に着くと、メイドは青年に向き直った。
「初めまして。私は橘千鶴と申します。紡様のお世話をしております」
「ああ……小林多喜二だ」
「小林、多喜二…?」
千鶴さんの視線が、私へ移った。
「紡様」
「なに?」
「説明をお願いしても?」
「えーっと…図書館で会って、ご飯を食べて、帰る場所がないらしいから連れて来た」
「説明になっていません」
「だよね」
ですよね。
千鶴さんはこめかみを押さえた。
「……紡様。以前、猫を拾っていらしたことは覚えていますね?」
「うん」
「雨の日に、捨てられていた本を拾っていらしたことも?」
「うん」
「道端で落とし物の傘を拾い、交番へ届けたことも?」
「うん」
「では、今回の小林様は?」
「人間だね」
「そこは分かっています」
千鶴さんは深々とため息をついた。
「……本当に、紡様は拾う対象を選びませんね」
「困ってたんだもん」
「そのお優しさは美徳ですが、せめて一言ご相談くださいませ」
「はーい」
「本当に分かっていらっしゃいますか?」
「たぶんね」
「……小林様。どうか、この子のことをよろしくお願いいたします」
「いや、何で俺が頼まれているんだ?」
青年が困惑した顔で私を見る。
それは私にも分からない。
「……とりあえず、小林様のお部屋をご用意いたしますね」
千鶴さんがそう言って、廊下の奥へ歩き出した。
「あ、千鶴さん。私、先に自分の部屋に荷物置いてくるね」
「承知いたしました。小林様、こちらへどうぞ」
「ああ、分かった」
青年は千鶴さんの後に続こうとした。
──のだが。
「……ん?」
ぴたり、と足が止まった。
「…どうしたの?」
私が振り返ると、青年は廊下の壁際に並ぶ本棚を凝視していた。
そういえば、この辺りにも本棚を置いていたんだった。
まあ、廊下に本棚がある家なんて珍しくもないだろう。たぶん。
「……君」
「ん?」
「この本棚は……?」
「私の本だよ」
「……全部?」
「うん!」
青年は黙った。
そして、もう一度本棚を見た。
さらに、私を見た。
「……君、本が好きなのか?」
「大好き!」
即答だった。
「どのくらい?」
「え?」
どのくらい、と言われても。
「……世界で一番好きなもの、かな?」
「……!」
青年の目が、わずかに見開かれた。
あれ、何かまずいことを言っただろうか。
「……そうか」
青年は小さく呟いた。
先ほどまでの警戒心が、ほんの少しだけ薄れたように見えた。
「……少し、見てもいいか?」
「もちろん!」
私は満面の笑みで頷いた。
「好きなだけ見ていいよ!」
「……ありがとう」
青年は本棚へ向き直った。
そして、一冊の背表紙に目を留める。
「……志賀直哉全集」
その声が、先ほどまでとは明らかに違った。
「……え?」
「志賀直哉全集…!」
青年は、そっと本の背表紙に指先を添えた。
まるで、壊れ物に触れるように。
「……直哉先生の本が、こんなに…」
あ、この人、そういえば。
「……多喜二さん?」
「…何だ?」
「志賀直哉さんのこと、好きなの?」
「好き?」
青年は私を振り返った。
「好きなどという言葉では足りない!」
「えっ」
「直哉先生は、俺にとって文学の師だ。あの文章の無駄のなさ、あの鋭い観察眼、そして人間というものを見つめる姿勢……!」
えっ。えっ、ちょっと待って。
「……多喜二さん?」
「『城の崎にて』も『暗夜行路』も素晴らしい。特に──」
始まった。
「──いや、そもそも直哉先生の作品は、どれも一つひとつが違う魅力を持っていてな! それに、あの文章の簡潔さは一見すると容易に真似できそうに見えるが、実際にはそうではない。余計なものを削ぎ落とすというのは、ただ短く書けばいいという話ではなく──」
止まらない。
先ほどまで「君は同志か、特高のイヌか」などと物騒なことを言っていた青年は、今やどこにもいなかった。
目を輝かせ、身振りを交え、志賀直哉という作家の魅力を語り続ける青年が、そこにいた。
「……そして、直哉先生は──」
「……。」
「……君、聞いているか?」
「聞いてる聞いてる!」
半分くらいしか理解できていないけれど!
いや、だって!
さっきまでの多喜二さんと別人なんだもの!!
「……すまない。つい熱くなってしまった」
ようやく我に返ったらしい。
青年は少し気まずそうに視線を逸らした。
「いや、別にいいよ!」
私は思わず笑った。
「好きなものの話をしてるときって、楽しいもんね!」
「……そうか?」
「うん!」
そう答えると、多喜二さんは、ほんの少しだけ表情を和らげた。
その顔を見て、私は思った。
──ああ。
この人も、私と同じなんだ。
好きなものがあって。
語りたいことがあって。
その話をしていると、時間を忘れてしまう。
「……多喜二さん」
「何だ?」
「私の本棚、まだまだあるよ」
「…………何?」
「書斎にもあるし、私の部屋にもあるし、別の部屋にもあるよ!」
「……。」
多喜二さんは、ゆっくりと私を見た。
「……全部、見てもいいのか?」
「もちろん!」
その瞬間、彼の目が、きらりと輝いた。
「……本当に?」
「うん!」
「……そうか」
青年は深く息を吸い込んだ。
そして。
「……君は、なんという素晴らしい人間なんだ……!」
「えっ、そんな大袈裟な!?」
「いや、素晴らしい!」
「わ、分かったから! 落ち着いて!」
「これが落ち着いていられるか!!」
……。
……うん。
これは、あれだ。
完全にスイッチが入ってしまった。
「……紡様」
隣から、ひどく冷静な声がした。
振り返ると、千鶴さんが額を押さえていた。
「はい」
「お客様のお部屋へご案内する予定だったのですが」
「あっ」
「……どうなさいますか?」
私は、本棚の前で目を輝かせている青年を見た。
それから、千鶴さんを見た。
「……もう少しだけ?」
「……。」
千鶴さんは天井を仰いだ。
「……本当に、紡様は拾う対象を選びませんね」
「えへへ」
「褒めておりません」
本日の拾い物、小林多喜二。
なお、現在の状態。
志賀直哉について語り始めて5分経過。
客室への移動、未だ叶わず。




