第二十六話 狙われる熊
クラウスさんとステフさんが飛び込んできたのは、日が傾き始めたころだった。
「妹を見ませんでしたか?」
クラウスさんの顔は真っ青だった。
「ネレイナさんと勝負すると言って国境の森へ一足先に向かったのですが……」
ステフさんの額には汗が浮かんでいる。
「会ってないよ? 今日お客様は誰もきてないよね」
ネレイナの言葉に、二人は焦ったように踵を返そうとした。
それを止めたのはラファエルさんだった。
「ここまでたどり着いていないということは、森の中で何かあったということか」
国境の町は、戦争の影響で治安が良くない。
子どもたちだけで行かせることはない場所だ。
いくらフレイアが熊の獣人だとしても、女の子が一人で通るには危険が多い。
「あの森は、悪い人が多いのに」
ピノとノワールが震えていた。
この二人が助けられた場所こそが、国境の森だった。
シグルドさんが奴隷商の組織を壊滅させてくれた記憶は新しい。
それなのにまた、悪意を持って獣人を狙う存在がいるとしたら。
「獣の姿になっていたなら、なお危険だ。あの森は密漁者が増え始めた」
「そんな……」
ラファエルさんの言葉に、ステフさんが短く声を上げた。
「フレイアまで母さんのようにするわけにはいかない」
クラウスさんの身体は溶けるように一瞬で姿を変えた。
前に見たフレイアよりも、はるかに大きい灰色の熊。
森へ向かって走りだそうとするのを、ネレイナが引き留めた。
「クラウスさん、だめだよ。狩りは群れで行かないと! みんな、行くよ!」
「おう! アシュレイは俺に乗れ」
ネレイナとローレンツの声に、ピノとノワールも獣の姿に変化した。
ネレイナは柔らかな毛をした茶色の狼。
ローレンツはネレイナより若いのに、一回り大きな白銀の狼になった。
ピノは全身ふわふわな長毛に覆われた猫の姿で、ノワールは光沢のある艶やかな毛の短毛種だった。
アシュレイはローレンツの背中にまたがると、クラウスさんに声をかけた。
「僕たちと動いてください、僕らなら狩りに慣れてますから」
私は声を掛けることができず、不安だった。
私は攻撃手段がないから、一緒に行っても足手まといにしかならない。
それでも。
「怪我はしないようにね。怪我をしたらすぐ戻ってきて、必ず治すから!」
「大丈夫だ、俺も行く。すれ違ったときのために、ステフさんと待っていてくれ」
ラファエルさんはそう言って、子どもたちと森へ向かった。
(無事に帰ってきますように)
その姿が見えなくなるまで、私とステフさんは見送り続けた。
+ + +
いつの間にか深い森の中へと誘い込まれていた。
左肩には避け損なった矢が深々と突き刺さっている。
毒がない事だけが幸いだった。
「お前らしつこい! 来ないでよっ!」
フレイアは右前足で飛んでくる弓を薙ぎ払った。
一人ずつ相手にするなら負ける気はしない、それなのに。
フレイアの息は上がっていた。
森に入ってからどれくらい経っただろうか。
矢を受け、身体を掠めた矢によって、傷は増えていく。
「背中には傷つけんなよ! 値段が下がる」
「爪も売れるぞ、腕ごと切れ!」
物騒な言葉に、足が震える。
こんなに大勢の殺意を持った相手に、どう戦えばいいのか。
(兄貴、父さん……)
フレイアは、毛皮を剝がされた母の死を思い出していた。
あの時の悲しみを、また家族に与えてしまうのだろうかーーと。
それよりも強く感じた想い。
(死にたくない)
フレイアはかろうじて涙を耐えた。
今泣いたら心が折れてしまいそうだったから。
しゅんっ、という音とともに、また幾本もの矢が放たれた。
フレイアは身をひるがえしそれを避けたが、反対から振り下ろされた剣は避けきれなかった。
顔を庇った手から、爪が根元から二本削り取られた。
わずかに切られた皮膚からは鮮血が溢れている。
フレイアの毛皮に、血が滴っている。
「おい、狙いを定めろ! 揃っていた方が高く売れるのに……まあいい、爪は後で拾え」
落ちた爪さえ、食い物にされる。
じりじりと距離を詰められた。
向けられた弓と剣、そして殺意。
その全てが、フレイアの心を砕いた。
「やだっ、来ないでよっ!」
フレイアの両の瞳から、涙が溢れてしまった。
狩人が笑いながら矢をつがえたその瞬間、木の陰から飛び出した白銀の狼がその身体を地面へと倒した。
剣を持った仲間が反応するよりも早く、二匹の猫がその手首を鋭い爪で抉った。
「アシュレイ、木の上で隠れてる人たちを魔法で落として!」
少しだけ懐かしいネレイナの声が響く。
フレイアは思わず声を上げた。
「ネレイナ! どうして」
ネレイナは、傷だらけのフレイアを、その背で守るように立った。
「怖い場所は群れで来ないと! 仲間を守れなくなっちゃうからね。無事で良かったよ」
ネレイナはそう言って笑った。
「おい、白い狼だ……売れるぞ! 長い毛の猫もいる! 捕まえろ!」
木から落とされた数人は地面に叩きつけられて唸っていたが、動ける敵はまだ多い。
縄と長剣、短剣を構え、ゆっくりと距離を詰めてくる。
フレイアは失った爪をみて、ぶるりと震えた。
そんなフレイアの身体を、ネレイナの尻尾がふわりと撫でる。
「大丈夫、私たちはまだ子どもだけど、もっと強い人たちがいるから」
その言葉が終わる前に、前方の敵が身体をくの字に曲げて吹き飛んだ。
正確には、薙ぎ払われたのだとわかった。
灰色の巨熊によって。
「兄貴っ!!」
フレイアはクラウスを見た安心感で膝から崩れ落ちた。
獣の姿を保つのも、限界だった。
地面に手をつき、浅い呼吸を繰り返す。
そして、意識を手放した。
「ローレンツ、フレイアを運んで先に戻って!」
ローレンツはフレイアの服を口で咥えると、勢いよく自分の背中に放った。
「ローレンツ、女の人の扱いは丁寧にしないと。それでなくても怪我をしてるんだから」
珍しくアシュレイに叱られた。
「へいへい、お前ら、怪我すんなよ」
そう言って風のように走り去った。
+ + +
「ラファエルさんすごかったんだから!」
ネレイナが興奮気味に話してくれた。
「僕も、魔法もっと使えるようになりたいです!」
そういえば、ラファエルさんは魔法剣士と言っていた。
あの王城で見せてくれた戦う姿。
今回は無傷で帰ってきたのだから、きっとすごく格好良かったのだろう。
「ありがとうございました」
クラウスさんとステフさんが、みんなに頭を下げた。
でも、みんなは「よかったね!」とか「元気になったら勝負しないと」と張り切っている。
「妹を助けてもらって、どうお礼をしたらいいか……」
クラウスさんの言葉に、子どもたちは一斉に反応した。
「お礼なら勝負がいい!」
「俺も! クラウスさん凄かったし!」
「ピノとノワールは小さいから二対一でやりたい!」
そんなみんなに圧倒されていたのが可笑しかった。
ステフさんの傍にいたフレイアに、私は近寄ってそっと手をとる。
獣人の姿に戻ったら、傷が余計に痛々しい。
私はラファエルさんを見た。
私が何をしたいのか、きっと理解している。
ラファエルさんの黒い瞳に心配の色が溢れている。
私は微笑んだ。
「フレイア、こんな傷は今ここで治してしまおう」
私はフレイアの目を真っすぐに見つめた。
「治すって言っても、爪が伸びるまでどれくらいかかるか……」
教会や、街の人しか知らない私の秘密。
「大丈夫、必ず治すから」
子どもたちが、私を見ている。
この子たちは私の代償を知らない。
知っているのはラファエルさんだけだから。
ラファエルさんが、私を背中から抱きしめた。
目の前で突然そんな場面を見せられたフレイアは、顔を真っ赤にしている。
(何も知らない人が見たら、そうなるよね)
私は思わず、ふふっと声を出して笑った。
抱きしめるその手が、強くなった。
私はフレイアの手を握り、魔力を込めた。
淡い緑の光が、フレイアを包みこむ。
「わ、わっ……」
フレイアの焦ったような声が聞こえたけど、私は目を閉じて回復を続けた。
指先から、これ以上は必要ないと反発がくるまで魔力を流し続ける。
そして、目を開けた時には、手も、爪も、肩の傷も綺麗に治っていた。
「茜って、弱っちいと思ってたけど凄いんだね!」
フレイアがにかっと歯を見せて笑ってくれた。
傷と一緒に、恐ろしい思い出が消えてくれたらいい、そう心から願った。
ラファエルさんは、私を抱きしめたまま、しばらく離れずにいてくれた。
「なるべくなら、使うな」
小さく呟いた声は、とても苦しそうだった。




