第四十二話 大切なもの②
家畜小屋まで歩きながら、ふと気づく。
(……あれ)
視線を落とすと、繋いだままの手。
「っ……!」
気づいて慌てて手を離す。
「す、すみません……! まだ早かったですよね……!」
思わずそんな言い訳じみたことを言ってしまう。
ラファエルさんは、そんな私に少しだけ目を細めた。
「……気づいていなかったのか」
と、静かに口角を上げた。
小屋に戻ると、牛の呼吸が浅く速さが増している。
苦しいんだ。
そう思うと、覚悟を決めたはずなのに、緊張感が増す。
私はラファエルさんを見上げた。
ラファエルさんは胸元から小刀を取り出し頷いた。
「茜、どこまでならお前が治せる?」
少しだけ考える。多分、傷なら治せるが、消えた命は戻せない。
聖女であった頃の能力すべてが使えるわけじゃない。
前に一人で試したが、枯れかけた花は回復したが、枯れ切った花は戻らなかった。
回復と範囲回復くらいで、蘇生の力は失われてしまっている。
「一息でも呼吸があれば、多分治せます」
その言葉に、ラファエルさんはもう一度頷いた。
大人たちは牛の四肢を抑える。
ネレイナは畑から草を摘んできて牛に食べさせる。
お腹を切るのにご飯を食べるのは……そう思ったが、ネレイナは大丈夫、そう笑った。
「この草ね、怖いのと痛いのをちょっとだけ楽にしてくれるの」
多分、麻酔のようなものだろうか。
ネレイナは牛の口に何度も草を運んだ。
「ネレイナ、怖かったら小屋の外で待っていていいからね」
私はネレイナの肩に触れた。
ネレイナはきょとんと首を傾げる。
「赤ちゃんが生まれるのは大変なことなのよ? トトが生まれた日も、みんなで応援したんだから」
専門家がいない中で出産をする。
みんなが見守る大切なこと。
「ちゃんとみんなで頑張らないと、死んじゃうこともあるんだから……」
ネレイナは辛そうに耳を伏せる。
その時、ネズミ獣人の高齢女性がネレイナの頭をそっと撫でた。
「大丈夫、この婆は何度もお産をみてきたからねーー牛のお産は初めてだが、きっと大丈夫さね」
お婆さんはラファエルさんをみて、にかっと笑った。
ラファエルさんも「馬の出産なら立ち会った、大丈夫だ」とネレイナを励ました。
そして幾人かの大人の獣人も、自分たちの経験をネレイナに共有し、不安げなネレイナを落ち着かせている。
私なら、回復ができる。
ちゃんと、できる。
私の指先が微かに震え、冷たくなっている。
その指を自分の口元で温める。
すっと横から手を握られた。
ラファエルさんの手が、私の手を握っている。
「また、早かったか?」
そう言って、ラファエルさんは目じりを下げる。
緊張をほぐしてくれた。
私はラファエルさんに「早すぎます」と答え、笑った。
ネレイナも「ずるい!」とラファエルさんの手と私の手を握り、笑った。
小屋の中の空気が、少しだけ軽くなった気がした。
牛が何度目かの鳴き声をあげた。
苦しそうな低い鳴き声。
私は覚悟を決めラファエルさんにお願いした。
「なるべく早く、お腹を切って赤ちゃんを取り出してください。赤ちゃんがもし傷ついても、それも治しますから」
帝王切開がない世の中なら、きっとラファエルさんだって初めてだ。
ラファエルさんは、私を見て目元を緩ませた。
「大丈夫だ、指先の感覚は鋭い」
そういって、熱した小刀を握り直した。
そこからは、目を背けたくなる光景だった。
麻酔のような草を食ませても、やはり牛は四肢を大きく動かして暴れた。
獣人の男性たちが全身を使って抑えていたが、それでも何度かラファエルさんは手を止めた。
お婆さんは震えるネレイナを抱きしめながら、ラファエルさんにお産の知識を教えている。
小屋に広がる血の臭いに、私は吐き気を催したが、ここで倒れるわけにはいかない。
みんな頑張っている。
ラファエルさんの合図だけを、待った。
「赤ちゃんの袋」
ネレイナが呟く。私は牛を見た。
鮮血の中、胎児の形に膨らんだーー子宮。
「ラファエルさん、早くーー」
言いかけた私を、お婆さんの言葉が制止した。
「その中に赤ん坊がいる。焦るんじゃないよ、なかの赤子が死んじまう」
ラファエルさんは、慎重に小刀を動かした。
そして、中からずるりと赤子を引き抜いた。
「茜!」
ラファエルさんが私の名を呼んだ。
私は両手を重ね、祈る。
治りますように、痛みが和らぎますように、と。
自分の輪郭が、揺らされる。
どこかへ、吸い上げられるような感覚。
淡い緑の光が小屋の中を照らした。
そして、光が消えたとき、牛は藁からゆっくりと身体を起こした。
ネレイナが一生懸命に子牛を藁で拭いている。
やがて子牛もぷるぷると脚を震わせながら立ち上がり、母牛の乳を飲みはじめた。
「ーーもう、大丈夫さね!」
お婆さんの声に、小屋の中にいた全員の緊張の糸がほぐれた。
私は膝から崩れ落ちた。
周りの人たちが「緊張のしすぎか?」と笑った。
ネレイナも子牛の隣でニコニコにながら私を見ている。
だから。
「すみません、初めてなのですごく緊張しちゃって」
そう笑顔で返した。
「少し離れる」
そう言って、ラファエルさんが私の身体を肩に担ぐ。
まるで荷物のような扱いだけど、きっとラファエルさんは心配してくれている。
また、小屋から離れたこの木の陰。
ラファエルさんは私をそっと地面に降ろすと、両手で私の手を握った。
指先から急速に熱が広がる。
「ーーよく、耐えた」
たった一言。
ただ一人、ラファエルさんは私の不安に気づいてくれた。
命の重さへの責任感。
もし失敗したら、二つの命を失ってしまう。
そのことが、怖かった。
気づけば頬に涙が伝う。
私の涙に気づいたラファエルさんは、僅かに狼狽えて、肘を器用に曲げて涙を拭った。
補おうと手を離さない優しさは嬉しかった。
でも、ほんの少しだけ、お父さんが観ていたプロレスの技みたい。
そう気づいて吹き出した。
泣きながら笑う私をみて、眉を顰めるラファエルさんが可笑しくて、また笑った。
ラファエルさんの魔力循環は、今までで一番温かかった。




