第三十七話 告白
執務室の転移は、もう何度目だろうか。
シグルドは綾香の背中に手を触れる。
魔力を受け渡そうと流してくる熱が優しく伝わる。
手応えがないことを感じたのか、綾香に向かって「俺から奪えるか?」と訊く。
綾香は軽く首を振った。
奪えるはずがない。
奪いたくもない。
もう、自分の底が、抜けてしまった。
その感覚に気づいていた。
(魔力のない、ただの人間)
珍しく焦りを見せるシグルドとは対照的に、綾香は静かにその場に立つ。
改めて、シグルドらしい几帳面に整えられた執務室を見渡した。
すう、と息を吸い込むと、シグルドの落ち着いた香りが胸に広がる。
シグルドは、魔力を喪失した綾香の状態に気づいてから、すぐさま机に向かい医師と研究者たちを手配しようとしている。
その姿が、ただ、嬉しかった。
綾香は胸の石を摘む。
感覚を覚えていられるように。
きゅ。
ゆっくりと深呼吸を繰り返し、綾香は俯き目を閉じる。
(きっと、だいじょうぶ)
綾香はその瞬間を待つ。
シグルドは、いつまでも座らない綾香に向け声をかけた。
「綾香、今は座れ」
こんな時でも、魔族の魔力が枯渇する場合の危険性を教えてくれる。
綾香は、魔族ではないのに。
綾香は思い切り息を吸い込んだ。
顔はまだあげられない。
それでも。
「シグルドさんっ!」
綾香は自分でも驚いた。
想像より大きな声。
シグルドもまた、そんな綾香に驚いた様子だった。
転移したその場所で、立ち尽くしている綾香に声をかける。
「どうした。……まさか、動けないのか?」
シグルドはガタンと音を立て席を立つ。
綾香の側へと足早に近づく。
その瞬間、綾香は勢いよく顔をあげた。
背伸びをし、両腕をバッと開く。
両手を開いて、限界まで伸ばす。
この突然の行動が予測できなかったのか、シグルドは目の前で止まったまま。
綾香は、躊躇わずシグルドの襟元の生地を思い切り掴むと、自分に向けて引き寄せた。
シグルドの頬に、綾香の鼻がぶつかる。
あまりにも拙い口づけだった。
唇を重ねる度胸は、持ち合わせていない。
綾香の、人生で初めてのーー。
綾香は唇をゆっくりはなす。
その距離のまま、感情のままに破顔した。
「シグルドさんっ! 大好きですよ」
次の瞬間。
その姿は、何の前触れもなく消えた。
ちり。
と、小さく、鎖の音だけを残して。
+ + +
シグルドは、一人前傾姿勢のまま思考を巡らせた。
片眼鏡の僅かなズレ。
シグルドはそっと位置を直す。
(……今、何が起きた)
思考を巡らせる。
可能性をいくつも並べる。
しかし。
シグルドは頬に触れ、確認する。
二か所の違和感。
一つは、多分綾香の唇。
もう一つは、鼻。
(あれは、キス、か?)
ーーしかも、頬。
あれほど引き寄せたならば、唇だろう、そこは。
シグルドは困惑した。
それにしては拙すぎる。
刺さる鼻の感触に戸惑った。
「シグルドさんっ! 大好きですよ」
思い出すその言葉と貌。
色気は皆無。
羞恥もない。
満面の笑みだった。
どこか誇らしげで。
まるで勝利を宣言する子供のように見えた。
そこまで考え、シグルドは目の前を見た。
綾香が、いない。
幻影を疑ったが、胸元には綾香が握りしめた服の皺。
そして、なにより先に戻した片眼鏡のズレ。
シグルドはどれほど同じ姿勢だったのか。
顔を上げると強いふらつきを感じた。
咄嗟に机に手をつく。
靴が何かにあたり、ちゃり、と微かな音を立てた。
シグルドは足元に視線を落とす。
そこにあったのは、あの日に見た、安物のネックレスだった。
庶民の子どもが小遣いでも買えるような、安物の。
シグルドは気づいた。
あの時とは、違う。
シグルドは片膝をつき、手に取った。
金具が結ばれたままの鎖と、深い黒色の安物の原石。
以前目にしたときは、角が多くて磨きも甘い、安物のくすんだ黒い石だった。
だが。
シグルドは改めて掌の石を見る。
角が丸みを帯びている。
くすみが磨かれ、表面には光沢がある。
そして何よりも、その色は夜空の闇の色。
シグルドにとって見慣れたもの。
鏡に映る。
「俺の、瞳の色……だったのか」
綾香の仕草を思い出す。
服の上から、呆れるくらいに摘まんでいた。
「こんなにも、触れていたのか」
シグルドは瞠目する。
(綾香、お前はいつから……)
シグルドは、胸元のポケットからハンカチを取り出し、丁寧に包む。
そして、そのまま胸ポケットの内側へと、そっとしまった。
一度だけ、服の上からハンカチの場所に触れる。
そこにあることを、理解するために。
シグルドは立ち上がると、踵を返し、机に戻った。
まだ、王への報告が残っている。
ペンを持ち、白い紙に文字を書く。
かり、かり……。
自らの立てる静かな音が、室内に響く。
そして、音が止まる。
報告書に書いた、最後の文字。
「下賜された魔導器の永久的な喪失」
シグルドは、堪えていたものがわずかに溢れた。
「すまない……」
その声は、塔の静寂に消えた。




