第三十四話 国境の街②
シグルドは、綾香に期待してると言ってくれた。
その言葉が僅かに震える背中を押す。
(ーーごめんなさい)
綾香は晴天の空を見上げた。
ゆっくりと杖を掲げる。
魔力は、青く澄んだ空高くへと放たれた。
膨大な魔力の塊が、太陽を隠す。
街の人々は、きっと僅かに空が暗くなったような錯覚を覚えただろう。
誰かが空を見上げた頃には、すべては終わっている。
次の瞬間、空が揺らぐ。
地面が唸りをあげるような地響き。
だが、その音は耳から滑り落ちる。
綾香は、空を見上げた。
胸元の石を、片手でぎゅっと握りしめて。
ただ、綺麗だと思った。
門兵の笑顔。
市場の音。
子どもの声。
紅い実。
全てが、遠くなる。
魔力が溢れる感覚。
街が圧縮され、潰れていく重さ。
そのすべてが杖から伝わる。
綾香は瞳を閉じ、もう一度思い出す。
門兵の笑顔。
赤い実。
市場の声。
(ごめんなさい)
魔力が流れる。
思考が、遠い。
(……ごめんなさい)
……もう、わからない。
綾香の思考は削り取られた。
振動も音も全てが消えた。
「見事だ」
斜め後ろからシグルドの声がした。
綾香は振り返る。
だが、その視線は街を見ていた。
綾香も振り返った。
何もなかったかのように平らな大地。
さっきまであった街の場所には、何もなかった。
家も、人も、赤い実の果樹も。
街はーー。
一瞬で大地になっていた。
シグルドは綾香の横に歩み出て、かつて街があった場所を見下ろした。
彼は街の範囲、地形の変化を細かい文字で書き記している。
静寂の中で、紙を走るペンの音だけが響いた。
カリ、と。
乾いた音が、少し不快だった。
シグルドの背中を見つめながら、綾香の身体が僅かに震える。
杖を握る指が、小刻みに震えていた。
綾香は体が後ろ向きに引っ張られるような感覚でよろめいた。
ザクッ。
地面に杖を突きさして、足に力を入れて立つ。
その音で、シグルドは綾香を振り返る。
こちらに視線を向け、眉を曇らせた。
「綾香?」
シグルドはペンを止め、綾香に歩み寄る。
綾香の視界はゆるやかに回る。
足元の大地が、少しずつ傾いていくような感覚。
光が遠ざかる。
空の青が、ゆっくりと暗く沈んでいく。
シグルドは綾香の背中に片手を添えた。
「呼吸が浅い。顔色も普段より青白いーー魔力不足か」
シグルドの声には、わずかな焦りが混じっていた。
綾香は、杖を持つ手に力を込めた。
多分、体力は限界で。
それでも。
「……休めば、大丈夫です」
シグルドに向けて微笑んだ。
(大丈夫、まだ動ける)
シグルドは綾香の背を支えたまま「塔へ戻る」と言った。
綾香は静かに頷いた。
だが、足に力が入らない。
シグルドの低く短い詠唱が聞こえる。
直後、視界は揺れた。
次の瞬間、景色が変わっていた。
+ + +
転移の光が消え、見慣れた執務室に居た。
綾香は、ほっ、と息を吐く。
次の瞬間、膝から急激に力が抜けた。
「……っ」
身体を支えていた杖は、魔力を失い消滅していた。
シグルドは咄嗟に綾香の肩を支えた。
「立てるか?」
綾香は震える身体で小さく頷いた。
「……大丈夫です」
声が、思った以上に弱かった。
シグルドはその顔を曇らせた。
「今日はこれ以上魔法を使うな」
そういうと、シグルドは綾香の体を支えたまま、再び短く詠唱した。
視界に広がる桜色。
綾香の自室だ。
シグルドは綾香をベッドに座らせ、布団を捲りあげる。
「休め、食事は届ける」
「……はい」
綾香はシグルドの勢いに流されるまま、ベッドに横になった。
その姿をみたシグルドは、静かに部屋をでた。
耳鳴りがするほど、静かな部屋。
綾香は胸元の石を摘まもうと指を動かした。
指先はまだ震えている。
小さな石を摘まむ力が入らない。
綾香は仕方なく両手を胸元に添えた。
(見事だ、か)
耳の奥で響くシグルドの声。
ーー褒めてもらえた。
綾香は白い顔で微笑んだ。
胸元の石が肌に触れるのを感じながら。
短く息を吐き、綾香は考える。
思考の奥にあるものを、必死で手繰り寄せようとした。
そうしないといけない。
そう思うのだが。
真っ暗なトンネルの中に一人で立っているようで。
後ろは何も見えない。
でも、道の先にはシグルドが見える。
目を閉じて、彼を思う。
いつもの整った顔で、無表情のまま机に向かう。
こちらに気づくと、片眉がわずかに動く。
(大丈夫、覚えてる)
綾香はシグルドの言葉に甘え、そのまま意識を手放した。




