第三十三話 国境の街①
翌朝、まだ日も登りきらないうちに綾香はシグルドとともに国境の街にいた。
出かけるときにシグルドが魔法をかけた。
「国境付近とはいえ、ここは隣国の土地。俺は顔が割れているから当然だが、お前の瞳とその髪をどうにかせねばな」
ーーそして、今は二人とも褐色の肌で緑の瞳を持つ猫の獣人の姿をしている。
今日の服装も、簡素なマントを羽織っているが、町人と同じような衣装だ。
顔はそのままで、頭に大きな猫の耳と、ふわふわな尻尾がある。
綾香は片耳に力をこめる。
ぴこっと動く感覚が面白い。
綾香が白猫で、シグルドは灰色。
黒猫になるかと思っていたが「黒は王家の色。使えるはずないだろう」と呆れ顔で言われてしまった
門をくぐるとき、綾香は少しだけ緊張した。
四人の兵に囲まれて、手荷物を調べられている。
偽物の見た目に、身分証明書。シグルドが用意したのだから、不備はない……そう思っても、体に力が入る。
そんな綾香の様子を見た門兵の一人が、シグルドに笑顔で話しかけた。
「お前の伴侶か? 恋人か? 緊張でガチガチじゃねえか」
そう揶揄って、がははと豪快に笑う。
(恋人だなんて、そんな)
綾香は真っ赤になって、きゅ、と胸元の石を握る。
シグルドの貌をちらと見上げると、意外にも笑っている。
「そんなところだ。あまり揶揄ってくれるなよ? 旅行なんだ」
ーー誰?
そう言いたくなるくらい、シグルドがシグルドではない。
綾香は小首を傾げて、シグルドを見上げた。
綾香の視線に気づいたシグルドは、口の端を上げ「いくぞ」と手首をつかんで門を通り抜けた。
「綾香……」
シグルドは振り向かず低い声。
これは、叱られる。
綾香は先に謝罪した。
「ごめんなさい、初めてで緊張して……」
そういうと、シグルドは歩みを止め、振り返った。
「ここへは遊びに来たわけじゃない」
(もう、元に戻ってる)
綾香のもの言いたげな視線に気づいたのか、シグルドは言う。
「あれくらい、必要ならばやる」
なるほど、さすがシグルドだと綾香は納得した。
しかし、何のための確認で潜入なのか。
シグルドは話してくれなかった。
せっかくだから、綾香は街を見渡す。
今の姿に似た、色違いの猫獣人や、ネズミの獣人。爬虫類のようなものもいる。
多くの肌は褐色だ。
「ここは砂漠が近い。この肌が強い日差しと渇きに強い」
綾香はシグルドの説明に耳を傾けた。
「なるほど」
突然シグルドが綾香の頭を見て呟く。
「どうかしましたか?」
訊くと「話をしている方向に耳が向く」と僅かに唇を上げた。
この耳は感情で動くのか、そう思ったら綾香は少し恥ずかしくなった。
「こんどは耳が伏せたな」
シグルドは分析を続けている。
「もうやめてください……」
綾香の貌は再び真っ赤になっていた。
しばらくは目的もなく街を歩き回った。
門や市場の近くにはいくつもの兵士の詰め所があった。
歴史で習った馬防柵のような道具。
大砲のような筒状のものもいくつかある。
見慣れない剣を腰につけた兵士が、旅人に気さくに話しかけてくる。
実物を間近で見るのは初めてだった。
綾香は物珍しく観察していたら、シグルドが丁寧に説明してくれた。
通りがかりの男に「詳しいな」と言われ、シグルドは「まぁな」と軽口を言う。
綾香にとって、どれも新鮮で面白かった。
またしばらく歩いていると、街には至る所に赤い実のなる果樹が生えている事に気づく。
市場で食べた飴がかかった果実と同じ。
「シグルドさん、あの実! 前に市場で食べた苺みたいな味の実です」
綾香が指さした先には、赤い実がいくつも揺れている。
シグルドは枝を引き寄せ、一粒だけ実を取った。
「苺が何かは想像できない、が。……ほら」
綾香はそれを両手で大事に受け取った。
少し眺めた後、ゆっくりと口に運ぶ。
「これ、甘酸っぱくて美味しいです、シグルドさんっ」
綾香は破顔した。
おかえしに、と綾香は背伸びをして実を摘み取る。
「シグルドさんも食べてください」
指先で摘まみ直し、もう一度背伸びをして口へと運んだ。
シグルドは一瞬固まった様子だったが、道行く町人から「かわいい夫婦ね」と笑う声で綾香はハッとした。
(あーん、だ! これ……)
手を引っ込めればいいのか悩んでいるうち、揶揄う声が増える。
「彼女が差し出してんだから、食ってやれよ」
「奥さんがくれるなら俺が食うわ」
そんな言葉を聞くたびに、顔面の紅潮がとまらない。
背伸びを続ける足が、わずかに震える。
謝罪しよう。
綾香が手を下ろす前に、シグルドの唇が綾香の指に触れた。
町人の笑い声があがる。
「……酸味が強い」
そう言ってシグルドは眉を顰めた。
「……私のは、甘かったですよ?」
そしてまた、笑った。
旅人のふりはまだ続いた。
城下町とは違う乾いた空気感。
市場の賑わい。
いろんな言語が飛び交う人々の声。
小さな水辺ではしゃぐ子どもたち。
窯で焼かれたパンの匂い
綾香はその光景に胸が弾んだ。
シグルドは路上のパン屋で一つパンを買うと、手でちぎり綾香に分けた。
断面からはまだ湯気がたつそのパンを、小さくちぎって口に運ぶ。
「あちらと同じ味」
小麦とバターの香りが鼻孔をくすぐる。
やさしい甘さのパンだった。
隣のシグルドは、ほかの町人のように豪快に齧りついている。
その姿が新鮮で、綾香はとても嬉しかった。
街を出る前、シグルドは赤い実を袋いっぱい買ってくれた。
綾香は、ずっと笑って過ごした。
+ + +
街を一通り見たあと、二人は街を見下ろす高台へと歩いて移動した。
大きな木陰で立ち止まり、振り返った。
この場所から見下ろすと、街が小さく見える。
シグルドは自分に手をかざし、変身を解く。
続けて綾香にも手をかざした。
綾香はそっと頭に触れる。そこにあった耳はもう存在しない。
それでも、手元には赤い実の詰まった小袋がある。
「いい街でしたね」
綾香は街を見下ろして微笑んだ。
目を閉じ、乾いた風を感じながら思い出す。
口に広がる実の甘酸っぱさと、やさしいパンの味。
町人たちに揶揄われ、眉間にしわを寄せるシグルドの顔。
走り回って笑っていた子どもたち。
(楽しかった)
綾香がふう、と息を吐く。
ーー隣で、シグルドが口を開いた。
「綾香」
呼ばれて、綾香はシグルドを見た。
シグルドの目は、真っすぐ街を見つめている。
そして。
「あの街を消せ」
突然の言葉に、綾香の顔から温度が消える。
笑みが、ゆっくりと消えた。
「……え?」
言葉の理解がすぐには追いつかない。
だが、思い出された一つの言葉。
「……任務、なんですか?」
シグルドからの返事はない。
ただ、街を見つめ続けるその視線が答えだった。
「お前の魔力量ならば難しいものではないーー期待している」
綾香は理解した。
さっきまで過ごした場所や、出会った人、赤い実のなる果樹。
それらすべてを消す命令だと。
なぜ、消さなければならないのか。
綾香は理由を尋ねなかった。
答えを知っても、きっと理解できない、そう思ったから。
それでも、魔法は怖い。
だけど。
(期待してくれる)
綾香は空間に魔力を込め、杖を召喚した。
杖を掴んで握り直す。
そして一度だけ、シグルドを見た。
その瞳は、街を見下ろしている。
(期待、されてるーー)
綾香は杖に魔力を流し込む。
流し込むたびに、光景が頭をよぎる。
(ーーどうして私は魔力を込めるの?)
門兵さん、恋人か伴侶みたいだって。
街の人たち、みんな温かくて。
魔力とともに、記憶が流れていく。
紅い実が、美味しくてーー。
こどもが。
水辺が……。
シグルドが、綾香に期待してると言ってくれたから。
その言葉が背中を押す。
(ーーごめんなさい)
綾香は晴天の空を見上げた。
込められた魔力は、青く澄み切った空高くへと放たれた。
次の瞬間、空が揺らぐ。




