第三十話 はじめてのお買物③
※前半は綾香寄り、後半はシグルド寄りの三人称
シグルドから市場での買い物を許可された日から数日。
塔の部屋は相変わらず静かだった。
シグルドの指が紙をめくる音。
ペン先が書類の上を滑る音。
塔の執務室には、それ以外の音はほとんどなかった。
綾香は彼の机の隣に並べられた自分の机で、書類を整理していた。
その合間にも、指先は胸元に触れる。
どんな服を着ていても、必ず石の感触を確かめる。
きゅ、と。
親指と中指、人差し指でそっと輪郭をなぞる。
またーーきゅ。
ふと、シグルドが書類から目を上げた。
なんだろう、と顔を上げると、どうやらその視線は綾香を向いている。
正確には——綾香の胸元に。
突然の視線に何事かと思い石をぎゅっと握りしめたまま固まっていると、しばらくしてから低く言った。
「綾香」
不機嫌そうではないが、少しだけ低く響く声。
「はい?」
やや緊張気味に答える。
「いい加減それが気になる」
シグルドにしては珍しく明確ではない質問。
綾香は首を傾けた。
「それ、ですか?」
ふぅーーとシグルドは大きな息を吐きだし、がたりと椅子から立ち上がる。
戸惑う綾香の前まで歩いてくると、少しだけ眉を寄せた。
「さっきから何度触っている」
言いながら、その指先が綾香の服の襟元を軽く引いた。
布がわずかに動く。
シグルドが見せたその行動に、綾香は驚いて目を見開いた。
「え、あの……!」
服の下に隠れていたネックレスが、少しだけ姿を見せる。
シグルドの視線がそこへ落ちた。
ほんの一瞬。
綾香は顔を赤くして、慌てて石を服の中へ戻した。
胸元を見られたかもしれない羞恥心もこみ上げたが、それ以上に宝物を見られたかもしれない。
そう思うと心臓は早鐘を打つ。
「その、先日の市場で……とても気に入って……」
言葉が纏まらない。
シグルドは何も言わない。
ただ、数秒だけ黙って綾香を見ていた。
そして、ふっと小さく息を吐く。
「……そうか」
ただそれだけだった。
綾香はただ胸元を押さえた。
石を隠すように。
シグルドは机へ戻り、椅子に腰を下ろした。
「……あの?」
沈黙が落ちる。
シグルドはもう書類に視線を落としていた。
ただ、握られたペンはすぐには動かなかった。
そんな突然の行動に綾香はまだ理解が追いつかなかった。
また、無意識に胸元へ触れる。
そこにある石を、ただなぞるように。
きゅ、と。
+ + +
執務室は静かだった。
窓から午後の光が入っている。
机の上には相も変わらず書類の山が積まれ、シグルドは黙々と羽根ペンを走らせる。
向かいには綾香が立ち、任務の報告をしているところだった。
「……以上です」
綾香は幼いながらに教えたことを理解する速度がある。間違いも指示すれば直してくるし、繰り返さない。
魔力の有能さで拾ったが、良い選択だったとシグルドは自負している。
上手く纏められた報告も、十分だった。
「そうか、ご苦労」
書類と報告を照らし合わせ、特に顔は上げない。
視線を落としたまま、短く返した。
その時。
視界の端に見える小さな動きがあった。
綾香の手が、ゆっくりと胸元へ伸びる。
服の上から鎖骨の間を摘まむ。
親指と人差し指、中指で布を摘まみながら、軽く捻るように動く。
キュッ
市場に行かせた日から見せるようになった動き。
あの日は鬱々とした表情を見せるようになった綾香の回復のため、今までの仕事に対する的確な報酬を与えた。
息抜きに商人か宝石商を呼んでやろうと思った。
だが、金の使い方を覚える丁度いい機会だと思い、市場へと行かせた。
その結果。
キュッ。
(今日だけで何十回繰り返す気だーー)
シグルドは目障りで仕方なかった。
あの日、ちらと見えた安物の石。
鎖も、石も庶民の子どもでも買える程度の造り。
一度は叱り飛ばそうと綾香を見たが、あまりに穏やかに微笑んでいたので仕方なく諦めた。
諦めたのだがーー。
シグルドはペンを止めた。
そのままゆっくりと顔を上げ、綾香を見た。
綾香は気づいていないが、また触れている。
キュッ。
そして口元を緩める。
この一連の動作が流石に多すぎる。
シグルドは少しだけ眉を寄せた。
「……綾香」
綾香は驚いたように顔をあげ、こちらを見た。
「はい?」
緊張した貌で返事をする。
「いい加減、それが気になる」
視線は原因である綾香の胸元へと落ちる。
綾香はこてんと首を傾げ「それ、ですか?」と理解していない様子だ。
(あくまで無意識、か)
ふぅーーとシグルドは大きな息を吐きだし、がたりと椅子から立ち上がる。
戸惑った様子の綾香の前まで歩み寄る。
「さっきから何度触っている」
そう訊いたが、特に返事を待つ気はなかった。
原因の究明が出来れば、今後気にかける必要は無くなる。
手で綾香の襟元の布を掴み、軽く引いた。
布が手前へとわずかに動く。
綾香の鎖骨の間に鎮座する安っぽい黒い石。
しかしよく見ると、その黒色は珍しい深い色合いで、綾香の白い肌にもよく映える。
(そのセンスは悪くはない、が)
綾香は顔を赤くしながら、慌てた様子で石の位置を戻している。
「その、先日の市場で……とても気に入って……」
聞いてもいない言い訳をする。
シグルドに言い寄る女性は多く、その色を見に纏いたがる者も多くいた。
意味は、他者への牽制。
この男は自分のものである、そう見せつけるように。
しかし、シグルドからみた綾香の様子は経験上のそれとは異なっている。
(牽制のためならば、高価なものを堂々と表に出す、が)
シグルドは何も言わず、ただ、数秒だけ言葉を発せず綾香を見ていた。
そして、ふっと小さく息を吐く。
綾香は、見せつけたいわけじゃない。
もっと単純な思考。
自分を好いている、ただそれだけの事。
「……そうか」
綾香の扱いやすさが、また一つ理解できた。
シグルドは机へ戻り、椅子に腰を下ろす。
(原因は、解明できたな)
そして再び書類に視線を落とす。
だが、白い肌の胸元に添えられた安物の石を「悪くない」と思ったか。
自分に湧いたその思考への理解が追いつかず、ペンはすぐには走らなかった。
キュッ。
キュッーー。
行動原理は理解したが、それでも。
「それを触るな」
思わず言葉が口からでた。
綾香は固まったようにこちらを見つめる。
「え?」
今度は何だと言わんばかりの表情に、シグルドは呆れた。
「落ち着きがなさすぎる」
その言葉に綾香は慌てて頷いた。
「す、すみませんでした……」
手をきちんと横に下ろすのが見て取れた。
部屋はまた、静かになる。
シグルドはもう一度書類に目を落とす。
ペンを動かし、数秒。
数十秒。
ようやく静かな時間。
しかしーーキュッ。
シグルドのペンが再び止まる。
苛立ちを隠し、ゆっくりと顔を上げる。
綾香は凍りついた表情のまま、自分の手を見ている。
シグルドが言わんとする事が伝わっている事を喜ぶべきか、それとも。
胸元。
石。
綾香は視線を彷徨わせ、顔を真っ赤にしている。
「ち、違うんです」
シグルドの眉が上がる。
誰も何も言っていないのに弁解する、と呆れるが。
「癖で……」
そう綾香は肩をすぼませて呟いた。
自覚している癖ならば、なぜどうにかしない? そう言いたい気持ちを噛み殺す。
シグルドはしばらく黙っていた。
そして小さく息を吐く。
「……それでも、無意識か」
「はい……」
綾香は申し訳なさそうに俯いた。
綾香は指示をすれば同じ失敗は繰り返さないはずだ。
今度こそ静かな時間が戻る。
シグルドは改めて書類に視線を落とす。
綾香も机の横で書類を整理している。
——そのはずだった。
視界の端に、また動きがある。
綾香の指が胸元に伸びて。
キュッ。
綾香ははっとした表情をみせ、慌てて手を離した。
そしてちらりとこちらを見る。
シグルドは何も言わなかった。
……何度目だ。
机の位置を変えるか、と一瞬思う。
見えなければ、気にもならない。
だが――。
シグルドは何も言わず、再び書類へ視線を落とした。
数秒後。
キュッ。
(……)
シグルドは椅子から立ち上がる。
そのままつかつかと綾香に近寄ると。
「……触るなら触れ」
固まった綾香の手首を掴み、そのまま彼女の胸元へ押し付けた
シグルドは手を離し、机へと戻る。
何事もなかったように書類を手に取って。
「仕事の邪魔でなければ構わん」
そう吐き捨てた。
綾香はなぜか石を固く握りしめたまま、動けなくなっている。
シグルドはそれを視界の端で確認した。
綾香の顔は紅潮したまま固まっている。
……数秒後。
また、指が石に触れる。
シグルドは小さく息を吐き、書類へ視線を落とす。
今度は視線を上げなかった。
——もう、好きにしろ。




