第二十九話 はじめてのお買物②
市場の端に、布の上に並べられた装飾品。
その中に、綾香が探していた色が見えた。
綾香は思わず駆け寄り、しゃがみこむ。
地面に直接敷かれた布の上には、いくつかの石が並んでいた。
形も大きさもばらばらで、整った宝石とはとても言えない。
金具も簡素なものだった。
そのうちの一つ、あまりに拙い、原石をそのまま通しただけのようなネックレス。
そっと手に取り、確かめる。
綾香の足を止めた、磨かれていない無骨な黒い原石。
あの、夜の闇のような色。
わずかに深い青みを帯びた黒。
(……似てる)
綾香はそこにシグルドの瞳を見つけた。
そっと指で摘まむと、原石はざらりとしていて、角もまだ少し尖っている。
宝石というより、ただの石ころに近い。
それでも。
「これ、おいくらですか?」
綾香はその小さな石に両手を添えて、売り手の少年に訊いた。
「それ? 銅貨五枚」
綾香は思わず石を見つめ直した。
(安い……)
さっきの果物が銅貨八枚だったのに。
こんな値段でいいのだろうか。
綾香は納得がいかなかった。こんなにも綺麗な色なのに。
一人悶々としていると、少年は言った。
「磨くと、もう少し綺麗になるんだけどさ」
少し照れたように笑って続ける。
「ーーまだ下手で」そう言って頭をかいた。
綾香はその言葉を聞きながら、石を見つめた。
深い夜の闇。
安らぎを感じさせる色。
ずっと見つめていたくなるあの瞳。
迷う理由はなかった。
綾香は袋から硬貨を取り出す。
銅貨五枚。
……それから、少しだけ考えて。
袋からもう少し多く出し、少年の掌へそっと乗せた。
「え、あの、これ多い」
少年が慌てる。
たった二つ買えるだけの金額を「多い」と言う少年に微笑む。
そして、綾香はゆっくり首を振った。
「これでいいの。ううん、これが欲しかったの、ありがとう!」
そう言って、ネックレスを両手で包むように優しく握りしめた。
本当はもっと。
もっと、もっと渡したかった。
でも。
(このお金は、シグルドさんのものだから)
少しだけ多めにした、それが精一杯。
綾香は立ち上がった。
そして、その場でネックレスを首に通す。
冷たい石が、胸元に触れた。
綾香はそっと、服の上から触れて確かめる。
少年は商人らしく、小さな手鏡を差し出したが、綾香は小さく首を振った。
鏡は必要ない。
見ない方がいい、そう思った。
もし似合わなかったら。
こんな自分がシグルドさんを想う資格はないんじゃないか。
自分自身を否定してしまう、そんな余計な弱さが溢れてしまうから。
だから、綾香はただ服の下に隠した。
石はちゃんと、胸の上でひんやりとした重さを持っている。
それだけで、ちゃんと嬉しい。
綾香は服の上からもう一度そこに触れた。
(……うん、似てる)
指先の下にある小さな石。
小さくても、確かな存在感。
シグルドの瞳と同じ色。
それだけで、胸が少しだけくすぐったくなる。
綾香は小さく息を吐いた。
そして塔へ戻る時間を待ちわびる。
塔の上ではきっと——。
街からは見えない城門の先。
あの人が、机に向かって仕事をしている。
その顔を思い浮かべると、綾香は思わず微笑んだ。
城の鐘が響きはじめる。
一つ。
二つ。
綾香は、服の下に隠した小さな石をまた確かめる。その回数があまりにも多すぎて、自分でも可笑しくなって、小さく笑った。
(まるで宝物を見つけた子どもみたい)
三つ。
肌にほど近い空気の層に、ゆっくり包まれる感覚
見慣れた塔の最上階。
帰ってきた、という感覚に、綾香は微笑んだ。
扉の向こうは静まり返っている。
それでもーー。
小さく正確にノックをしてから、綾香は扉を開く。
「戻りました」
部屋の奥では、シグルドが机に向かっていた。
昼と変わらない姿勢。
モノクル越しに書類を眺めている。
綾香は机の前まで歩き、袋を差し出した。
「いただいたお金です。使わなかった分はお返しします」
シグルドはペンを置いた。
袋を受け取り、口を開く。
中身を確認した瞬間、眉がわずかに寄った。
「……ほとんど減っていないようだが」
低い声。
綾香は少しだけ困った顔をした。
「そんなに欲しいものが無かったので」
シグルドは袋の中の硬貨を指で動かす。
金貨も白金貨も、そのままだ。
減っているのは、ほんのわずかな銅貨程度。
「庶民の子供の小遣いか」
小さく呟く。
綾香は少しだけ視線を逸らした。
そのとき。
綾香の指が、無意識に胸元へ触れる。
服の上から、石をきゅっとなぞる。
シグルドの視線が止まった。
「……さっきからそれは何だ」
綾香は一瞬だけ固まる。
「あ」
気づかれてしまった。
綾香は少しだけ慌てて、手を下ろした。
「えっと……」
言葉を探す。
隠すほどのものでもない。
でも、本人の前で説明するのはさすがに羞恥心が……。
悩んだ結果「市場で見つけて、買いました」そう吐き出した。
シグルドは黙って綾香を見ている。
この表情は、彼が続きを言えーーそう促す言葉のかわりによく見せる。
綾香は沈黙に耐えられず、少し迷ってから、服の中からネックレスを引き出した。
シグルドはきっとこう思う。
小さな黒い原石。
安っぽい金具。
上等な装飾品とはとても言えない。
綾香は「そんなもの外せ」と言われるのではないかと不安を感じた。
だが、シグルドはそれを一瞬だけ見て、すぐに視線を戻す。
「……それだけか」
声は淡々としていた。
「ーーはい」
綾香は急いで石を服の中に戻す。
また無意識に、そこへ触れた。
シグルドはその仕草を見て、わずかに眉をひそめる。
「宝石商を呼べ」
突然そう言った。
綾香は目を瞬かせる。
「え?」
「どうせなら価値ある装飾品を買え」
書類をめくりながら続ける。
「そんな石ころに価値などなかろう」
綾香は少しだけ笑った。
そして首を横に振る。
「もう十分です」
小さな声だった。
それでも、綾香が今まで見せたどの表情より穏やかで、満足そうだった。
シグルドは何も言わなかった。
ただ、書類をめくる手が少しだけ止まる。
その間にも綾香の指は、また胸元へ触れていた。
服の上から、小さな石を磨くように。
きゅっ、と。




