第二十八話 はじめてのお買い物
※綾香寄り三人称
綾香は本棚からいくつかの本を探し、シグルドの机の端におく。
塔の主であるシグルドは、モノクルをつけ紙の束を眺めている。
綾香はこの物静かな持ち主の横顔が気に入っていた。
(私を道具に選んでくれたご主人様)
真っすぐなその視線がこちらを向くことは滅多にない。
綾香は、それでもいい、そう思っていた。
だからこそ、時折向けてくれるその視線が特別なものに感じられるのだから。
綾香はシグルドの横顔の先を見つめた。
彼の向こうは窓。上品な銀の窓枠が、シグルドに似合う。
吸い込まれそうな夜の闇のような瞳と、紫が隠れているような黒髪。
塔に絡まる蔦も、青銀のような引き込まれる色の塔も、本当に、よく似合う。
(一枚の絵画みたい)
こんな絵なら、お父様にお願いして買ってもらうのに。
かつての生活の癖が出たわーーと綾香は苦笑した。
(お父様やお母様は、今ごろ地表のどこにいるのかしら)
化石、といわれた自分では、どのように発掘されたのか覚えていない。
想像もつかない。
いくら親が有名な会社を経営していても、どれほど財産があったとしても。
死は平等なのね。
綾香の中に悲しみは存在しなかった。
育てられた記憶はあっても、愛された記憶はない。
お金に苦労はしなかった、ただそれだけの人生。
綾香は自分の手のひらを見つめた。
力を入れると魔力を感じる。
余計な事が考えられなくなる事はなんとなく気づいているが、シグルドさんの事だけ考えられるなら丁度いい。
綾香があちらの能力を使えたのは幸運だと思った。
実際真面目にゲームを楽しむようになったのは、市橋のギルドに勧誘されてからのこと。
市橋に誘われ、茜とサポートする。
そんな関係が楽しかった。
綾香は、自分のランクは課金の力だと理解している。
敵が強ければ課金すればいい。
ミスしたら、成功するまで課金を続ければいい。
そうしていくうちに、強敵は、ただの弱い敵になる。
あの王様に能力を出されたとき、課金が「不正」とされなくてよかった。
綾香は思う。
(課金ランク、なんてものがあったら圧勝でしょうね)
ーーそう自嘲した。
ちり、と綾香は視線を感じた。
顔を上げると、珍しくシグルドと目が合った。
「どうしました?」
綾香は声をかける。
シグルドは一瞬顔をしかめたが、机に小さな袋を取り出した。
「渡していなかった、お前の報酬だ」
受け取り、袋の口を解く。
中には価値の高そうな白金や、金、銀貨、銅貨が大量に入っている。
この世界の通貨はわからないが、これは多分多すぎる。
「あの……多すぎる気がします」
綾香がシグルドに言い返すことはほぼないが、さすがにこれは桁が違う気がした。
「お前の魔力で、一人も逃さず反乱を企んだ貴族の館が消滅した」
口の端が上がっている。
「それを考えたら安いものだ」
「成功報酬……」
綾香はそう呟いてみたが、離れた場所から館を魔法で包み込み、ただ圧縮しただけだ。
褒められることをした実感などない、が。
「よくやった」
シグルドは綾香の瞳を見つめ、低い声で短く褒めた。
(ーーよくやった、か)
それだけだった。
それだけなのに、胸の奥に静かに残る。
綾香は袋の口を結びながら、ほんの少しだけ視線を落とした。
褒められた。
それはきっと、ほんの些細なこと。
シグルドにとっては言いなれた言葉なのだろう。
部下を労う、その程度の言葉。
ーーそれでも。
(……嬉しい)
綾香は自分の胸の奥が、ふわりと軽くなっていることに気づいた。
「好きなものを買ってこい。ついでに金の価値を把握してこい」
「三刻後に城の鐘が鳴る、その時にまたここに転送されるよう魔法をかけた」
そう続けて言った。
わたしの好きなもの。
そんなもの、今まであっただろうか……。
綾香はそっとシグルドの貌を見つめた。
シグルドは片眉をあげ僅かに首を傾けた。黒い瞳が行動を促す。
(見つけた!)
綾香はもう一度シグルドの瞳をみて「行ってきます」と笑顔で答えた。
シグルドの手が空間を払う仕草をしたその瞬間、綾香の姿は執務室から消えていた。
+ + +
転送されたのは、商人街近くの城門だった。
門番には連絡があったのだろう。驚くことなく通してくれた。
初めて歩く城下の市場は賑やかだった。
客を呼び込む威勢のいい声。
野菜がたくさん入った鍋の煮える音。
焼ける肉の香ばしい匂い。
塔の中は静かだから、余計に騒がしく感じる。
綾香はきょろきょろと周囲を見回した。
(……お祭りみたい)
歩きながら、ふと足を止める。
鼻をくすぐる甘い匂いがした。
小さな屋台の上で、砂糖を絡めた果実が焼かれている。
熱で溶かされた飴色の光が、きらきらと揺れていた。
綾香は少しだけ迷った。
(買い食い……ってこういうことかしら?)
家ではこんなことは許されない。
お菓子など健康に必要ない。そもそも屋台の食べ物は衛生上よくない、とあの母なら止めるだろう。
父も、庶民の食べ物などーーそう言って顔を真っ赤にしながら叱るに違いない。
いつも誰かに付き添われ、外で一人になったことがない。
でも、今日は誰もいない。
綾香は袋をそっと取り出した。
「一つ、ください」
こんな言葉に、綾香は勇気を出した。
屋台の少年が笑う。
「はいよ!」
赤い小さな果実が五つ並んだ綺麗な串を受け取り、恐るおそる口をつける。
ぱりっ。
果実に絡められた飴が割れ、甘い果汁が広がった。
その味と感覚に、綾香は目を少しだけ見開いた。
「……美味しい、これ、苺みたい」
思わず声が漏れた。
食べ物に心が動くなんて。
少年は嬉しそうに笑った。
綾香もつられて、少しだけ笑う。
こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。
ゆっくり串を食べ終え、歩き出す。
無意識に胸元に触れ、考える。
(シグルドさんは……甘いもの、食べるのかしら)
その姿を想像したら、なんだか可愛く思えて、また小さく笑う。
その時だった。
市場の端。
地面に布を敷いて、小さな石を並べている子供がいた。
いくつかの装飾品。
職人の見習いなのか、拙い技術で作られた、原石をそのまま通したような粗末なネックレス。
その中で、一つだけーー。
綾香の足が止まった。
磨かれていない無骨な黒い原石。
あの、夜の闇のような色。
迷わなかった。
それはまるで——。
「……シグルドさんの瞳の色」
笑顔が溢れた。




