第二十七話 薔薇の姫
※前半エカテリーナ寄り、後半市橋寄り三人称
エカテリーナは机を飾る華やかな薔薇を、どうやらいたく気に入っている様子だ。
執務の合間に薔薇を愛で、触れている。
ここ最近は「ふふっ」と微かに声を上げ、表情を緩めていることもある。
市橋の机の位置は、ちょうどエカテリーナの横顔が見える。
その横顔が、まるでミュシャの「黄道十二宮」のようだ、と思った。
かつてあった世界で、なぜか心惹かれた絵画。
あの絵の女性が黒目黒髪であったら、きっとこうして目を奪われたのだろうーー。
(本人に言ったら不機嫌になりそうだな)
市橋はその様子を想像し、一人静かに苦笑した。
さて、と再び机に向き直る。いつの間にか任される仕事が増えているのは、エカテリーナが自分に慣れてきた証だろう。
手元の書類に目を通し、エカテリーナの考えを想像し、書き進める。
完成したものを手渡すとき、少しだけ尖る唇が面白いーーなどと、口が裂けても言えないな、と市橋の口角が上がる。
ふと視線を感じて顔を上げると、エカテリーナが片眉をあげて市橋を見ていた。
「お前、紙を見ながら一人で笑って、気持ち悪いわよ?」
このお姫様は……。市橋の眉間にしわが寄る。
「あのな……、俺だってたまには思い出して笑うこともある」
エカテリーナは扇子を広げ、口元を隠した。
これは、表情を悟らせない彼女の癖。
日本のような「奥ゆかしい」意味の扇子ではない。
彼女以外の王族を知らないから、観察した限りではあるが、彼女は普段顔を隠さない。
彼女は、美しい。
あちらで見慣れた黒目黒髪。
彼女があの世界にいたら、きっと誰もがその美貌に惹きつけられるだろう。
市橋はエカテリーナから視線を外さない。
するとじきに「無礼にもほどがある」と、わざと不機嫌な表情でエカテリーナが横を向く。
市橋はまた、口元が緩んでくるのを止められなかった。
(慣れてしまえばどちらが扱いやすいのだろうな)
そんな言葉を飲み込んだ。
+ + +
数日たっても薔薇は枯れない。
毎朝摘みたての薔薇を抱えて生けていた侍従が、あれから一度も来ていない。
薔薇の主が席を外しているうちに市橋は近づいて薔薇を眺めた。
花弁に指先で触れてみるが、感触から目に見える変化はない。
(枯れない薔薇、か)
ずいぶん情熱的な表現だ、と市橋は思う。
かつて恋人に強請られ花束を贈ったことがあるが、別れるときには「薔薇の花束を贈った重い男」などと勝手に噂され痛い目をみたものだ。
苦々しい思い出に自分の表情が険しくなっていることに気づき、思わず眉間に触れた。
「また百面相? 暇なら仕事を増やすわよ?」
いつの間にか戻ってきていたエカテリーナがつかつかと歩み寄る。
並んで立つと目線が近い。
市橋は目線を足元に落とす。
「何よ……」
瞬間、エカテリーナはキュッと音がしそうなほど眉間を寄せた。
その様子に、吹き出しそうな笑いを耐えるため、市橋は唇を引き締めた。
「いや、目線が近いなーーと。俺も低いほうではないと思いたかったんだが……」
エカテリーナはまた急いだ様子で胸元から扇子を取り出す。
口元を隠すのか、と市橋は見ていたが。
バシッ!
バシバシッ!!
痛くはないが、肩を叩かれている。
エカテリーナは眉を寄せ、明らかに不機嫌そうだが。
「ヒールがあるから高くても仕方ないの。 そんなことも理解できないなんて、思ったより愚かね!」
表情は何一つ変わらないのに、エカテリーナの耳は真っ赤だ。
エカテリーナは、国のための必要悪を理解している。
そのうえで、救えるものを拾う。
残酷だが合理的。
そのエカテリーナが、自分の前で年相応にみえる瞬間が「嫌いではない」と言ったら、彼女はどう反応するだろう。
ひと月近く過ごしただけで十分に理解した。二十歳程度の女性が生きていくには、この城も、世界も優しくはない。
市橋はふと、エカテリーナに向けて「そういえば、何歳なんだ?」と訊いた。
返ってきた答えは、こちらに向かって投げられた扇子だった。




