「モル・キョク(紫色の空)」
サルの話をまとめると、つまりこういうことになる。
闘技場での敗者の死体は、とりあえず闘技場内にある死体置き場に放置される。
全ての闘技が終わる夕刻ごろに、死体を回収する馬車が来る。死体はそれに積んで郊外の処理場に移動される。
墓場のように個々に墓標があって、それぞれに埋葬されるようなことはない。
処理場には大きな穴が掘られていて、まとめてそこに捨てられ、埋められる。
あそこに堕ちた時点でもう人間らしい扱いはされないのだ。
まとめて回収されるまでに、個別に死体を引き取りに来る者もいるという。しかしそれは外部から参戦してくる者の場合がほとんどで、俺たちのような剣奴の死体を個別に引き取りに来るやつはいないようだ。
サルは死体を個別に引き取ることも考えたようだが、それだといろいろと詮索をされないとも限らないので、結局は死体回収の馬車に乗せられてから、処理場に向かう途中で脱出する、という方法の方が成功する公算が高いと考えたようだ。
要するに死体が1体ぐらい無くなろうが連中にはわからない。数を数えなければならないほどの価値も必要性もないからだ。
つまり俺は闘技が終わってから、死体のふりをして馬車に積まれ、運ばれる途中で逃げ出すという算段だ。馬車から脱出する場所もサルの方ですでに考えてあるらしい。
その場所に来たら合図を送ってくれるようなので、合図があれば馬車から脱出し、サルの仲間に回収されて逃亡する、という計画だ。
俺の剣の師であるバルカスも、結局はゴミのようにその穴に捨てられたのだろう。
生まれは良いといっていた。小国とはいえ貴族の生まれだというのに、最期にはこのような扱いを受けなければならないのか。
闘技場の門にたどりついた。サルの姿はいつの間にか消えていた。どのようにもぐりこんで、どうやって守衛にすり替わったのかは知らないが、やつもやつでここから脱出する必要があるのだ。
俺はあらためてやるべきことを反芻した。斬られた風を装って、紙一重で服だけを斬らせなければならないのだ。そんなことは当然だがやったことがない。こうなったら覚悟して、でたとこ勝負でやるしかない。
相手の名に続いて、俺の名前も呼ばれ、相手と対峙した。
相手は短めの半月刀、左手には円形の盾を持っていた。
――面倒だ。そう思った。
ある程度長さのある得物ならば、適当に間合いを取ることができる。しかしこいつのような短い得物なら、斬られるためにある程度間合いを詰めなければならない。
しかもこの長さだと、斬った時の感触が長物よりもより鮮明に手に伝わることだろう。服を斬らせたただけでは、もしかしたら斬った感触が伝わらず、相手にばれてしまうかもしれない。相手に妙に騒がれると、この八百長自体が露見してしまい大変なことになってしまう。
死合はすでに始まっていた。
相手の斬撃を剣で躱しながら、俺はもうある覚悟を決めていた。
――実際に斬られる必要がある。
しかしなるべく浅くだ。皮膚1枚だけを斬らせる感じ。それ以上は致命傷になる。それだけは避けなければならない。
幸いにして、打ち合った感じから相手はそれほどの手練れというわけではなかった。
この相手なら普通に勝つ方が何十倍も楽なのに。
冷汗が流れる。首尾よくやってのけることができるのか。一歩間違えば命を落とす。
ある程度打ち合いながら、隙を作って相手を誘導した。
最終的に相手が袈裟懸けに俺に斬りつけるその間を計り、いかにも苦戦を強いられているという体を装いながら、徐々にその場所へ相手を追い込んでいった。
――今だ!
思惑どおり相手の斬撃がきた。紙一重で躱せる間合いの、ほんの少しだけ前に出た。
「神様!――」
相手の斬撃が俺の服を斬り裂き、血しぶきが飛び散った。
ほとんどが革袋に仕込んだ血糊だが、実は俺自身の血も混じっている。
「ぐわぁぁぁ!」叫び声をあげた。もちろん演技なのだが、痛みも結構ある。実際に斬られているのだ。浅いとはいえ、結構痛い。
少し不自然に見えたかもしれないが、俺は斬られる刹那に後ろに下がって避けようとして避けきれなかった、という風を装って、後ろに転がってそのままうつぶせに倒れた。傷口を見られてばれるかもしれないので、なるべく傷口を隠す意図でだ。それに相手の近くで倒れるとすぐにとどめの斬撃が来るかもしれないので、それを避けるつもりもあった。革袋にはある程度の抵抗があったので、斬った感触は相手にはきっちり伝わっただろう。――ここまではとりあえず上手くいった。
相手は両手を挙げて勝鬨をあげている。とどめを刺しに来る気配もない。
進行役も勝者である相手の名を高らかに叫んだ。観覧席からは大きな歓声とともに俺に対する怒号が飛び交う。俺に大金を賭けた奴らだろう。気の毒だが悪く思うな。今日ばかりは運がなかっただけだ。
先ず第一の壁はうまく乗り越えた。次はここから死んだふりを続けなければならない。先ずは死体を運び出すやつらに、俺が生きていることを悟られてはならない。俺はうつ伏せのまま、出来る限り呼吸を整えた。運ばれている間は完全に息を止めておく必要がある。
やつらはすぐに来た。二人がかりで手慣れた様子で俺を抱え上げると荷車に放り投げ、さっさと闘技場から運び出した。
――もっと丁寧にできないものか。
投げられた瞬間、思わず呻き声が漏れ出そうなったのを必死で抑えつけた。
荷車から降ろすときも、同じくぞんざいに扱われた
しかし、まあなんとか生きていることはバレなかった。と、いうより奴らにしたら、生きてようが、死んでようが知ったことではない、という気持ちだったかもしれない。そんな感じがした。
放置された場所にはすでにいくつかの死体が転がっていた。どれもまだ死にたてなので、それほど死臭はひどくない。夕刻までこんなところにいるのは苦痛ではあるが、ここを死んだふりでやり過ごさなけばならない。幸いにして残りの死合はそんなに多くないはずだ。まあしばらくはここで休んでいればいい。とにかく今日の死合は本当に疲れた。普通に勝つよりも倍以上神経を使った。傷口もまだ痛む。ここまでしたんだから、あとは順調にいってくれればいいが。
足音が近づいてきた。
こんなところに、まだ誰か来るのか。
足音は数人の気配だったが、そのうちの一つだけ、こちらに近づいてきている。
俺は息を殺して様子をうかがった。
「――カラ・ティグルか、、、あんなのに負けるとは思わなかったがな、、、」
独り言をつぶやいた。――世話役の老人だ。こいつは何をしにこんなところへ?
死んだふりを続けながら、あたりの気配をうかがってみた。
どうやら他の連中は死体から装備を外しているようだ。
――なるほど、敗者から装備をはいで、また別の奴隷に売りつけるってわけだ。
ろくでもない連中だが、それがここでのやり方なのだろう。
老人もどうやら武器を手にしているようで、時折かちゃかちゃと金属音がする。
少し嫌な感じがした。何やら殺気めいた空気を感じる。
「――念を押しておくか、、、」
まさか、やつは何かを感じて、俺にとどめを刺そうとしているのか?
ついこの間、急に様子をうかがいに来た事とといい、こいつは俺から何か不穏なものを感じとっていたのか。
どうすればいい。今動くわけにはいかないが、かといってここままおとなしくやられていれば、間違いなく命を落とすだろう。冷たい汗が体中から噴き出す感じがする。
まずい、まずい、まずい、まずい、
どうする、どうする、どうする、どうする、
「看守長、支配人がお呼びです。すぐに来るようにと。」
――殺気が消えた。
「ああ、わかった。すぐ行く。」
老人は呼ばれるままにその場からそそくさと立ち去って行った。
装備をあさっていた連中も、ひとしきりあさり終えたらしく、同じようにバタバタと去っていった。あたりはまた静寂につつまれた。
――助かった。
にわかに空気が弛緩した。生きた心地がしなかったが、何とか切り抜けたようだ。
やつもまあ、それほどの確信があったわけではなさそうだった。
とりあえず危機は去った。ひどく消耗したが、同時に安堵感に包まれた。
まもなく日が暮れ、闘技も終わるだろう。
死体のふりを続けながら、出来るだけ楽しいことを考えるようにした。
セーラム達はここにきているのだろうか。
脱出すればすぐに会えるだろうか。
マリシュは、子供たちはどうしてるどろうか。少しは大きくなったか。
早くここから出たい。
いや、もうすぐここから出られるのだ。
死体に囲まれた暗い部屋の中で、外の光景を想像してみた。
赤く市街を染めていた夕日は間もなく海の向こうに姿を隠し、
夜のとばりが徐々に降りてきて紫色に街を染める。
あちこちの家々から白い炊煙が紫色の空に立ち上り、
その上ではいくつかの明るい星が姿を現し始める。
紫色の空を大きな鳥が一羽、山に向かって静かに飛んでいった。
サマルクの街で一度そのような光景を見た。温かく美しい光景だった。
俺が想像したのは、そんな光景だった。




