79.祈りの矛先
グラントの頭突きという名の気付け薬を食らってから、三日が過ぎた昼前。
私は執務室の椅子に座り、背もたれに体重を預けたまま目をつぶっていた。
このところずっと気の休まる間がなく、少し疲れが溜まっていることを自覚する。しかし、泣き言を言ってもどうにもならない。
「エヴァン様……、お呼びでしょうか?」
そんなに気を遣わなくとも、この執務室は領主代行として実質的に業務を取り仕切るアンナの部屋でもある。堂々と入ってくればいいのだが。そこはアンナの謙虚さか。
「アンナが出かけている間に、メルドン司祭がやってきたんだがな」
前置きなしで私は話を始める。
「アルテス神教団の本部から、今回の騒動について査察官がここに派遣されてくるそうだ」
「まあ、それではエヴァン様の予想通りですね」
アンナは感心したように言うが驚いてはいない。この動きは間違いないだろうと思っていたからな。
「予想通りではあるが、問題は時期だ」
「想定より早くなりそうなのですか?」
さすがアンナは話が早い。
もともと、中央から誰かが派遣されてくるとしても、あと十日くらいの猶予はあると思っていた。神教団本部の聖職者が早馬でくるとは思えないし、いくら急いでいるとはいってもゴルド山地を飛び越えるわけにはいかないしな。天馬や飛竜に騎乗できる神官でもいれば話は別だが、そんなのがいたらさすがに辺境まで名が聞こえてきそうなものだ。
「その通りだ。準備が間に合うかどうか……」
つまり、査察官を買収するためのネタの用意だな。誰が来るか分からない以上、何かしらの便宜を図るというのは難しいので、金貨や宝石、魔石などの現物で買収するしかない。
しかしそこはマルシェル子爵領。人材だの街道だの水路だのに惜しみなく投資はするが、いかんせん現金を持っていない。今朝ようやく、商業ギルド相手に売りさばけそうな骨董品や土地建物の目録ができたところだ。
「エヴァン様、その査察官様はいつ頃いらっしゃるのですか?」
「……今日の夕刻頃だそうだ」
「そんなに早くですか……!? どうやって?」
そう、早すぎる。
セルファスの神託があってからほんの五日ほどしか経っていないにも関わらず、もう帝都からの使者が到着するなど通常は考えられない。
「とはいえ手段がないわけでもない。メルドン司祭の話では、浮遊馬車とか浮き車と呼ばれる、要は魔法で宙に浮く馬車を使っているらしい」
浮遊魔法を仕込んだ浮かぶ馬車なんて、話に聞いたことはあっても実物なんて見たこともないし、想像するに実用的ではないと思う。高速で走る馬にそんなものを引かせて、どうやって曲がってどうやって止まるんだろうか。しかも、浮遊している間はずっと魔力を供給し続けなければならない。
「そういうものをうまく使えるのなら、帝都からマリクリアまでこの短時間で移動することはできるだろうな。もちろん関所やらは素通りで」
どれほどの資金があればそんな乗り物を所有しようという気になるのか。
しかし、今回に限っては有効だったと言えるだろう。我々に時間を与えないという効果があったからな。
「アンナ、査察官を買収するための資金だが、夕方までにいくら用意できる? 子爵家の私財からすぐに出せる金貨は三十枚くらいだが、いくらか足せそうか?」
子爵という位にありながら、手持ちの資金がこれだけというのは情けない話だが、普段こんな出費をすることはまずないからな。
あとは領地の財政から支出できるかどうかだ。
現状で子爵領の財政を一番把握しているのは、領政を実質的に取り仕切っているアンナなので、実際のところを率直に尋ねる。
しかし、アンナの答えは意外なものだった。
「エヴァン様、今はマルシェル子爵家の、エヴァン様の一大事です。私の判断など仰がず、いくらでも必要な金額を仰ってください」
決然とした態度でそう言われ、私は大いに戸惑う。
金のことでこんな豪放なことを言われたのは初めてだった。
なにせマルシェル子爵家に金が無い、金が無いといえばマルシェル子爵家というくらい質素倹約が身についてしまっている。
それなのに、いくらでも良いとは。
いくらでも良いということはいくらでも良いってことなんだよな?
「エヴァン様?」
「ああ、すまない。ちょっと理解が追いつかなくなっただけだ。ええと、じゃあ金貨三十枚くらい追加できるか?」
私が用意できる金額と同じ額を言ってみると、
「かしこまりました。三十枚でよろしいのですね?」
アンナはあっさりと承認した。
え、この感じだとまだ出せるのか?
「五十枚でも出せるか?」
「はい、五十枚ですね。すぐに用意できます」
え、五十枚でも大丈夫なのか? 一体、うちの領地のどこにそんな余裕があったのだろうか? 私が領主代行をしていたときは金貨五十枚の現物なんて無かったと思うんだが。
「アンナ、正直に言ってどれくらいまでなら用意できるんだ?」
アンナは少し考えるような仕草をしたが、すぐに答えてくれた。
「今すぐに御用意できるのは金貨五百枚ほどです」
「ごひゃく……?」
なんだそれ、意味が分からない。うちにそんな余裕などあるはずがない。私自身、金貨なんてあまり見かけないのに。毎月の小遣いも小金貨五枚だし、それもツケの支払いですぐ無くなるし。
「万が一の事態に備えた資金です。マルシェル子爵家が長い年月をかけて少しずつ蓄えてきたものだと聞いています」
「いや、私は初耳なんだが……」
ついこの間まで領主代行をやっていたが、そんな予備費があるなんて全く知らなかった。どうしてアンナは知っているんだ?
「エヴァン様のお仕事のお手伝いをするようになってすぐにアラニア様から教えていただきました。エヴァン様が本当に困ったときに支出するように、と」
「ということは二年近く前か。え、何度も予算不足で困ったことはあったよな……?」
「そういうことはやりくりでなんとでもできますので」
微笑むアンナに悪びれた様子はない。彼女の中では領政の予算不足は困ったことのうちに入らないらしい。
確かに今回の神託騒動に比べればそうなのかもしれないが、釈然とはしない。
父上が私に非常用の資金があることを教えなかったのは、おそらく安易にそれに頼るのを防ぐためだったのだろう。
あと、もしかしたら私的流用を懸念されていたかもしれない。私も品行方正というわけじゃないからな。
「と、とりあえず資金があるのは助かった。とりあえず金貨百枚ほど出しておいてくれ」
さすがに査察官ひとりを買収するのに百枚も要らないと思うが、資金の余裕は心の余裕だ。多いに越したことはない。
「はい、百枚ですね。用意しておきます」
「……ちなみにその資金の保管場所は?」
「それはアラニア様の許可が無いのでお教えできません」
アンナの笑顔が若干の冷気を纏った。これはまずい。これ以上深入りしてはいけないと本能が告げている。
やはり私が非常用資金の存在を教えてもらえなかったのは、金貨をくすねると思われていたからか?
やれやれ、信用のないことだ。いくら小遣いが少なかろうとも、そんな金に手を付けたりはしない、と思う。……いや、五百枚も金貨があれば一枚くらいと考えるかもしれない。ああ、ダメだダメだ。想定外の金額を出されたせいで考えが乱れる。
「とにかく、これで査察官の買収に希望が見えてきた。あとは相手が敬虔な聖職者じゃないことを神に祈るばかりだな」
「うふふ、エヴァン様ったら、喜ばれるのは良いですけど、仰ってることがとても背教的ですよ」
おっと、調子に乗って余計なことを言ってしまったか。
アンナは真面目なアルテス神教の信徒だからな。
先のセルファスの神託では、敬虔な信者であるほど神託の夢を見た者が多いらしい、という報告が上がってきているが、アンナもその夢を見たひとりだ。
どういう術式を組んだらそんなことができるのか、さっぱりわからないのが腹が立つところだ。
「ああ、別にアルテス神教そのものがどうこうじゃない。ただなぜか中央のお偉い司祭様ほど金に敏感なのは事実だろ?」
「そうですね、きっと教団の運営にお金がかかるのでしょう。この子爵領からは既定の金額しか出していませんが」
領の財政から神教団に流れる資金は主に二つ。メルドン司祭のいるマリクリア神殿への寄付と帝都の神教団本部への寄付金だ。
マリクリア神殿への寄付は全く惜しくない。メルドン司祭自身が金銭に興味のない人だし、寄付金の使い道も割とはっきりしている。維持費と奉仕活動と本部への上納金でほぼ使い切ってしまっているようだ。
しかし、教団本部への寄付金については話が別だ。使い道が一切公表されないのは当たり前だが、教団の幹部連中などは下級貴族など足元にも及ばないような豪奢な暮らしをしているらしいからな。帝都内の邸宅の他にも、風光明媚な土地に別荘を所有する者もいると昔オランドから聞いたことがある。せめてアルテス神教の総本山であるミリス山の近くに別荘を建てるならまだわかるが。
ちなみに信仰の中心地は帝都の南にあるミリス大神殿なのだが、なぜか神教団本部は帝都に存在している。まあ、その方が便利だからだろうな。そういうところだぞと言ってやりたい。
「アンナからすれば、神教団が派遣してくる査察官を買収しようなんて話はあまり聞きたくないか?」
全力で買収する、と勢い込んではみたものの褒められたことじゃないのは当然だ。これがアンナの心の負担になっているとしたら、本当に申し訳ない。
「いえ、わたしも栄光ある『神託の探求団』の一員ですから。神の御意志と神教団の動向が一致しないことは分かっています。そもそもわたしが神様に祈るのはエヴァン様のためですから」
「私のため、か?」
「はい! エヴァン様と、エヴァン様が愛する子爵領のみなさんのためにお祈りをしています」
「アンナは信徒のお手本のような存在だな」
「あ、でもお祈りの時、神様にお願い事もしていますけどね」
そう言って少し照れ臭そうに笑うアンナ。普段しっかりしすぎるほどしっかりしているが、こういうところは年相応の少女という感じだ。
だが、このあと特に他意もなく「どんなことをお願いしているんだ?」と尋ねてみたら、
「それはエヴァン様にだけはお教えできません」
と、屈託のない笑顔で返答された。
普段から私に求婚までしてくるアンナがここまで言うとは……。
先程の冷気を纏った笑顔とは違う、なにか空恐ろしいものを感じた私は、「そうかぁ」と答えるのが精一杯だった。




