76.悪夢の神託
アルテス歴九八九年八月の満月の夜、帝国に激震が走った。
ウェルデンシア大陸を統べるアルバーナ神帝国の司祭や神官たち、そして一部の帝国民が不思議な夢を見たのだった。
その内容は皆一様に同じ。
夢の中に神の使いを名乗る男が現れて神託と称する言葉を一方的に残していった、というものだ。
その夢を見た者の中には、目が覚めてすぐにその神託の言葉を書き記した者も多くいたが、それは同時に、夢の内容が全員同じだったという証明ともなった。
彼らの記録によると神託の言葉は次の通り。
『敬虔なる神の信徒よ、あなたに神託を与えます。
今、世界の理は乱れ人々の魂は神が望む大いなる循環を失いつつあります。
このままでは、遠からぬ未来に新たな命がこの世に生まれることはなくなり、人類は滅びの道を歩むことになるでしょう。
しかし神の愛は、地上に一人の使徒を遣わしました。
その者の名は、エヴァン・マルシェル。
その昔、神の祝福を受けた英雄の血を引いた正当なる末裔です。
使徒エヴァン・マルシェルは、聖地たるヴェスパ湖のほとりに魂を導くための神殿を建立しました。
人々の祈りがこのヴェスパ湖の神殿に集まる時、世界はあるべき魂の循環を取り戻し、再び神の祝福を受けることとなるでしょう』
神託の夢に現れた神の使いは、壮年と呼ぶにはまだ若い男の姿で、灰色の祭服を着ていたという。
ある街の神官は、「これは紛うかたなき神託である」と断じ、ある司祭は「古今、このような話は聞いたことが無い。慎重に扱うべき」と語った。
この夢を見たという者は実に多数であり、一説には一万人を越えるという噂も流れたが、その真偽は定かではない。
一つだけ間違いのないところは、神託に語られたエヴァン・マルシェルという名と、ヴェスパ湖というところに神殿が建てられたという話が、一夜にして知れ渡ったことである。
この神託騒ぎは帝国内で大きく、そして不穏な波紋を生じさせることになる。
まだ昼と呼ぶには早い時間、帝都アルテオンのアルテス神教団本部はいつになく騒がしかった。
本部勤めの神官たちの中にも神託の夢を見た者は多く、もはや神託そのものの存在は疑う余地がなかった。ただし、その内容の真偽を除けば、である。
そして騒がしい理由はほかにもあった。まさに今、滅多に集まることのない神教団の幹部が勢揃いして緊急の会議が開かれるからである。
会場は本部最上階にある大広間。
窓が無く照明が無ければ昼間でも深い暗闇に覆われるため、暗孝の間と呼ばれている。実際は魔法によって煌々と明るく照らされ、しかも室温を調整する魔道具まで備えた部屋であるのだが。
その広間に置かれた円卓で、六人の男女が話をしていた。
「とにかく、この一連の騒ぎは何者かによる魔法攻撃と見なすべきだ!」
太った男が声を荒げて主張する。
それに対し、白く長い髭をたくわえた老人がゆったりと応える。
「攻撃と言ってもな、分かっているだけでも帝都中でじゃぞ。そんな広い範囲で同じ夢をみせるなんぞ、そんなことができるのかのう?」
老人の疑問を受けて、痩せぎすの男が口を開く。
「私は神聖魔法以外も知識としては修めていますが、できるともできないとも言えませんなぁ。少なくとも私には聖職にある者にだけ特定の夢を見せるなど、術式の想像もつきません」
「聖職者だけではないぞ。市井の者にも同じ夢を見たというものはいる。それこそ私の知人にもだ。どうやら熱心な信徒の多くに神託が降りたようだな」
眼光鋭い総髪の男がそう言うと、美しい黒髪の女がふふっと笑う。
「あらあら、その仰りようでは夢を見なかったわたくしが不信心者のようではないですか」
「貴女はまた夜通し研究をしていたのでしょう? 顔色を化粧でごまかすのはおやめなさいと言うのに」
白髪の女性に窘められて黒髪の女は肩をすくめる。白髪の女性は小さく溜息をついて話を続けた。
「それで結局この中で例の夢を見たのは私を含め三人ですか。実際のところどんな印象ですか?」
それに対し総髪の男と白髭の老人が答える。
「正直な所、神聖なものという印象は薄い。神託を告げた男も特別な外見ではなかったし、語る言葉も重大な内容の割には淡々と話していたな」
「儂も同じような感じじゃな。どちらかと言えば、話が具体的すぎるのが気になったくらいかのう」
白髪の女性は、「そうね」と小さく呟き、太った男に話しかける。
「マルシェル領と言うと東部担当である卿の管轄ですね。そもそもヴェスパ湖に神殿があるのかしら?」
女性の疑問に対し、顔をしかめる太った男。
「そもそもヴェスパ湖という名前すら久しぶりに聞いたものだ。一応部下に調べさせたが、あんなところに神殿など登録されておらん。エヴァン・マルシェルとやらが勝手に建てたのでなければな」
神教団に無断で勝手に神殿を建てることは、明白な教義違反である。
もともとは大昔に偽神官が跋扈していた時代の名残であるが、現実問題として教団の権益を守るための重要な決まりだ。主に上納金の収集という機能を守るために。
白髪の女性は卓の上で手を組み、他の五人に向かって話し始めた。
「いずれにせよ、今の段階では調べを進める以外にできる事はないですね。幸いにして、調査すべき場所も人物も判明しています。早急に現地に調査官を派遣し、聞き取りと現地の確認を行い結果を報告してください」
そしてもう一度太った男の方を向き、続ける。
「もちろん、卿が責任者です。迅速な報告を期待しておりますよ」
そう言われた太った男は舌打ちでもしそうなほど苦々しい表情をしていた。
「了解している、代司殿。こんな教団の権威に盾突く輩はさっさと引っ立ててやる」
「短慮は禁物ですよ。しかし深慮が過ぎてもいけません。よろしくお願いしますね」
言葉遣いは丁寧だが確かに圧力を感じるもの言いだった。太った男にとってはそこが何より気に入らないところだったが、面と向かって逆らうわけにもいかない。何せ相手は神代司教。アルテス神教団の頂点に立つ人物だ。階級としては他の五人と同じく大司教だが、けっして同格とは言えない。太った男は返答せずに黙って椅子の背もたれに体をあずけた。
代司と呼ばれた白髪の女性はその様子を黙って見ていたが、あまり気にもしていない様子で話を続けた。
「さて、それでは各地の司教や高司祭たちの意見を集めることとしましょうか。この不思議な夢の現象がどれくらいの範囲で発生したのか、それも確認しなければなりません」
このようにしてアルテス神教団本部での会議は重い空気のまま進んでいくのだった。
ほぼ同時刻、同じく帝都アルテオン。
アルバーナ神帝国の中心にして象徴、帝城アル=ゼル=ザウトのある一室。
皇帝の懐刀にして、実質的な政府の意思決定権者である宰相ハルドレイムが部下からの報告を聞きながら、己の執務室の窓から見える帝都の風景を眺めていた。
「……というわけでございまして、神教団ばかりではなく市井の者たちにまで神託の夢の話は広がっております。事態を収拾するのは難しいかと存じます」
ハルドレイムは神託の夢など見てはいないが、個人を神の使徒として名指ししたという今回の話には強い興味を持った。
そもそもだが、このアルバーナ神帝国は皇帝その人こそを神に選ばれたものとしている。新しい皇帝が戴冠するときに、アルテス神教団の筆頭である神代司教がアルテス神に代わって皇帝に冠を与えることが、その象徴である。
それにも関わらず、神の使徒を名乗るものが現れるとなれば、それは皇帝の権威への挑戦以外の何ものでもない。
「それにしても、マルシェルとはな……」
もしこの神託の騒ぎが三か月前に起こっていれば、ハルドレイムがエヴァン・マルシェルという名に受けた印象はまるで違っていただろう。というよりも、マルシェル家の嫡男の名前など知ってはいても特に何の印象も持っていなかった。
しかし、二か月程前にあったベリア伯爵領でのドラゴン騒ぎの一件で、怪しい動きをしていたマルシェル家の者がいるという情報が入った時から、エヴァン・マルシェルとその姉であるレイチェル・マルシェルはハルドレイムの監視対象に入った。
事実として、この姉弟はドラゴン出現の報に触れるや否や、身分を隠してベリア伯爵領の鉱山都市ギルセアに向かっている。弟のエヴァンに至っては、冒険者登録までして身分を隠そうとしたらしい。
上級貴族の振る舞いとしては異常と言わざるを得ない。
そして因果関係は不明だが、この姉弟がギルセアの冒険者ギルドを訪れてから数日後を境にしてドラゴンは全く目撃されなくなった。
偶然か、あるいは姉弟が何かしたのか。それは今もって分からない。
故にハルドレイムは自らの手の者を使ってマルシェル領の直接監視を始めた。
ただし最初はエヴァンよりも姉のレイチェルの方に重きを置いていた。若くして三等級冒険者に相当する戦闘力を持ち、強化系と操作系の二系統を高次元で操る稀代の剣士。しかも剣の師は『猛炎』の二つ名で知られた元帝国近衛騎士団員であるロベルトだ。年齢を考えても、レイチェルの強さは未だ発展途上にあると想定しなければならない。ならば当然警戒すべきは姉の方だ。
「マルシェル領に忍ばせた目はどうなっている?」
ハルドレイムが部下に尋ねる。
「はっ、最近の報告でも、エヴァン・マルシェルの動きに目立ったところはなく、相変わらずマリクリアや近隣の村などで視察と称して遊び歩いているようです」
「帝都から戻ってから、同じような報告が続いているようだな?」
「はい。しかし、マリクリアの街は領主家に近しい者が多く、なかなか派手な調査ができません。とはいえ、このエヴァン・マルシェルやその姉、ひいては当主アラニア・マルシェルに至るまで頻繁に街中で目撃されております。報告に誤りは無いかと……」
帝都の冒険者を雇って監視役としてマリクリアに忍ばせたが、あがってくる報告は毎回同じようなものだった。
曰く、エヴァン・マルシェルという男は、確かに優秀な部類の魔法使いのようだが、仕事よりは自身の享楽に重きを置く人物である、というようなものだ。
「無能な嫡男、か。やはり謀られたか?」
確信があったわけではないが、情報が操作されているような手応えはあった。
マルシェル姉弟が帝都に向かうという情報を得て、ルイエズ伯爵領の手前で捨て駒たちに襲撃をかけさせてみた。その時点では、姉のレイチェルの戦闘力を測るのが主な目的だったが、行商人の護衛に紛れ込ませていた部下からは、むしろ弟のエヴァンの統率力や胆力を特筆点とした報告があがってきた。そして中級程度の元素系魔法であれば無詠唱で使いこなす、とも。
「少し思案に耽る。下がれ」
「はっ」
部下を退出させると、ハルドレイムは再び窓の外に目を向けた。
帝都は今日も忙しく人々が動いている。昨日もそうだった。
だが、この中には例の夢を見た者も多いのだろう。同じような風景に見えても、帝国に投げられた神託という異物の波紋は、今後もっと大きくなっていくだろう。それは根拠のないただの勘だったが、ハルドレイムはこういう勘を外したことが無い。
神の使徒エヴァン・マルシェル。多人数が見る同じ夢。そして忘れられていた聖地ヴェスパ湖。
まだまだ謎は多いが、ハルドレイムの思考はすでにこの事態に際して、いかに自分の利益を確保するかという段階に入っていた。
「うまくすれば、例の件も両方片付けられるのだが……」
ある程度自分の考えがまとまった時、執務室のドアがノックされた。
ハルドレイムが入室を促すと、ドアが開いて一人の赤毛の青年が現れた。
「これはセレンファリウス殿下、いかがされましたか?」
執務室に入ってきたのは神帝国第三皇子セレンファリウス。現皇帝の三人の皇子の中では最も才覚のある若者だとハルドレイムは評している。ただしやや直情的すぎるところがあるが。
「例の神託の夢の話だ。内容は陳腐だが、広範囲の人間に一斉に精神干渉を行っているという意味では見事な魔法術だと言える」
突然現れたかと思えば、魔術の話を始めるセレンファリウス。しかし、ハルドレイムは話を続けさせる。
「さすがは魔法使いとしても一流のセレンファリウス殿下。今回の件はあくまで魔法によるものだという見識なのですな?」
「見え透いた世辞はやめろ。自分が大した魔法使いでないことは自覚している」
上には上が、さらにその上にはとてつもない高みに達している者もいる。そのことをセレンファリウスはほんの少し前に自分自身で体験していた。あのふざけた仮面の男め……、と当時の憤りを思い出す。
「だが魔法使いとして今回の精神干渉をどうすれば再現できるか、という推測はできる。範囲が帝都だけだとしても十人規模の儀式魔法が必要だろうな」
セレンファリウスが自分の見解を話す。それはハルドレイムがすでに宮廷魔術師たちに聞き取りした内容と一致していた。しかし問題はその先だ。
「殿下、もしこれが帝国全土に影響するものだとすれば?」
「ふん、どうせもう結論は出ているのだろう? 百人規模の儀式魔法、さもなくばとてつもない魔力供給源が必要だ。つまり魔石だな」
これも宮廷魔術師たちの見解と同じ。
そうなれば自ずと見えてくる事実がある。
「ハルドレイム、この一件の首謀者がエヴァン・マルシェルとやらとして、マルシェル子爵領に百人規模の儀式魔法を行う力はあるのか?」
セレンファリウスの問いに対し、一瞬で頭の中から必要な情報を取り出す宰相。
「結論から申し上げると不可能でしょうな。良くも悪くも有名なマリクリア大学を擁しているとはいえ、儀式魔法に耐える魔法使いがそこまで多くいるとは思えません」
明快な回答を受けて、セレンファリウスは我が意得たりとばかりに口角が上がった。
「そうだろうな。ではこれで一つ、重大な推察、いや嫌疑が生まれるな」
「殿下の仰る通りかと」
「マルシェル子爵家は、強力な魔石を少なくとも一つ隠し持っている。それが『陽光の霊石』である可能性は高い。そう思わんか?」
セレンファリウスの推理を聞いても、ハルドレイムの表情は変わらない。
沈黙を肯定と受け取ったセレンファリウスは、ますます喜色を浮かべた。
「やっと国宝盗難の犯人の尻尾を掴んだかもしれん。捜査には協力してもらうぞ、ハルドレイム」
「もちろんです殿下。何より国宝の発見は皇帝陛下の厳命でありますれば」
納得がいったのか、セレンファリウスは踵を返してさっさと出て行ってしまった。
そんなところにも若さを感じるハルドレイムだが、
「しかし殿下、マルシェル家がこんな宣伝を行う理由がありません」
誰もいない執務室の中でハルドレイムは呟いたが、それをあの第三皇子に伝える気はない。
それが神帝国と自身の利益につながると、ハルドレイムの頭の中の帳簿がそう言っていた。




