68.まだ名前のない感情
屋敷の中であれば、いつでもすぐに現れるのが執事長ロベルトだ。
今回もマルスが呼びに行ったと思ったら、想像以上の早さで執務室にやって来た。
そして鋭さすら感じる程の冷たさで、「アンナ」と言った。それだけで踊っていたアンナは正気に戻ったのだった。
「エヴァン様、アンナを甘やかすのも程々に」
それだけ言い残すと、ロベルトは執務室を去って行った。
残ったのは青ざめた顔をしたアンナだ。
「またやってしまいました……。きっと後で執事長のお叱りが……」
「今度はちゃんと覚えてるニャ? よっぽどあのおっちゃんが怖いニャ?」
アンナの踊りに付き合わされていたミャルだが、ロベルトをおっちゃん呼ばわりとはな。
「ああ、この屋敷でもっとも恐れられている執事長のロベルトだ。怒らせると怖いし、何より面倒だ」
「そんなに強いニャ?」
ミャルの中では、怖いと強いが同じようなものなのだろうか?
「強いわよ。私の剣の師匠だもん。技ではまだまだ敵わないわね」
レイチェル姉上が猫耳を付け直しながらミャルに言った。
自分より強いと姉上が素直に認めたことが意外だったようで、ミャルの耳がピンと立った。さすが本物、ちゃんと動く。
「そんなにニャ? じゃあミャルの武器が出来上がったら一度戦ってもらうニャ」
「だったら私と一緒にロベルトの稽古を受けるといいわよ。しょっちゅうやってるから」
「ニャ、お願いするニャ」
「いや、ちょっと待て。ミャルの武器って何のことだ?」
私がヴェスパ湖に行ってる間に何かあったのか?
「だってミャルの武器が無いままだったんだもの。この間一緒に武器の店に行ったのよ」
「ミャルさんと初めて会った時に、私たちが一緒に街に出かけたのを覚えていらっしゃいますか? カチューシャ作りのために私の実家に行くのが目的だったんですけど、その時にミャルさんが武器が無いと言っていたのでついでに見に行ったんですよ」
レイチェル姉上と、すっかり落ち着いた、というか若干元気がなくなったアンナが教えてくれる。
そういえば、帝都屋敷の庭での手合わせで姉上の手甲を借りていたな。
「ソルタリアから船に乗ってこっちに来た時に、ミャルの持ってた武器は取り上げられちゃったニャ。だいぶ古かったけど、手に馴染んでたからもったいなかったニャー」
愛着があった物だったのか珍しくミャルは沈んだ声で話す。尻尾も元気なく垂れ下がってしまった。
「だからね、私の行きつけの武器屋に連れて行ったのよ! マリクリアで一番のお店に!」
「それ、いつものブリジットの店でしょう? 一番は言いすぎじゃないですか?」
「女の子の武器職人では一番でしょ?」
「ああ、それは、まあそうでしょうね」
物は言いようだな。その条件なら確かに一番だ。
「やっぱり凄い職人だったニャ? そんな気はしてたニャ」
ミャルなりに手応えを感じていたらしい。まあ本人がいいならいいか。
「しかし、よく武器を新調する金があったな?」
私が知る限り、ミャルは一文無しのはずだ。そもそも金があっても目立つ耳のせいで買い物に出かけることもろくにできないのだが。
「費用に関してはわたしとレイチェル様で立て替えました」
「アンナが? どうしてまた」
確かに一等文官に叙任されて給金は上がったはずだが、それでも注文製作の武器を作るとなるとなかなかの大金になるはずだ。ポンと支払えるものではない。
「このカチューシャです」
私の疑問に対し、アンナは自分の頭の猫耳を指差した。
「この自然な柔らかさと形を作るのに、ミャルさんに全面的に協力してもらったんです」
「にゃあ、くすぐったかったニャ」
だいぶ耳を弄り回されたらしいミャルが、その時の事を思い出したように右手で自分の耳を撫でた。
「お礼というわけじゃないですが、このカチューシャの売り上げの一部をミャルさんの取り分にすることにしたんです。武器の代金は前払いという事で」
「でもそれだけじゃ足りないから残りは私が払ったのよ!」
レイチェル姉上がここぞとばかりに胸を張る。
「姉上もそんなにお小遣いは無いでしょうに、よく払えましたね」
私と姉上の毎月のお小遣いの金額は同じだ。他人の武器に出せるお金はないはず。
しかしレイチェル姉上はキョトンとした表情で言った。
「だって、私は冒険者としてけっこう稼いでるわよ?」
「え……?」
なんだと……?
子供の頃から貯蓄というものに無縁で、毎日の買い食いでほとんどお小遣いを使い切っては、追いかけっこだの、かくれんぼだの、果ては剣術勝負まで吹っ掛けてきて、四歳も年下の弟から容赦なくおやつ代を巻き上げていたあの姉上が、冒険者として稼いでいる、だと? しかもけっこうな額を?
「モンスター退治と、あとは指名されたときだけ新人冒険者の指導をやってるけど、それでもいいお金になるわよ。エヴァンは何かやってないの?」
「え、わ、私は領主代行の仕事があったので……、それも今はやってないですが……」
「ふうん、そう。でもね、急にお金がいる時もあるかもしれないから、仕事した方がいいと思うわよ」
あ、あ、姉上に……、あの姉上に金のことで説教された。
何という屈辱。
だったら子供の頃にさんざん巻き上げていった分を返してくれと言いたかったが、それは口に出さずに飲み込んでおいた。
私は危険を察知できる賢い男だからな。
「そういうわけで、このカチューシャをたくさん売らないといけないわけです。エヴァン様、報告が後になってしまいましたが、この方針で進めてもよろしいですか?」
衝撃にしばらく言葉を失っていると、アンナが少し申し訳なさそうに事後承認を求めてきた。
「あ、ああ、もちろんだ。私にはアンナの策以上の手段は思いつかない。ミャルのためにも大いにやってくれ」
そういうと、アンナは嬉しそうに笑った。
「はい! ありがとうございます! 頑張ります、全力で!」
領地の経営などという大仰な仕事をさせてしまっているが、多分アンナはこういう商売の方が好きなんだろうなぁ。あ、いや、でも街の公園作りとかも楽しそうにやってるよな。計画して実行するということそのものが楽しいのかもしれないな。だとしたら本当に器の大きい女性だ。
ロベルトが現れて顔色を悪くしていたアンナだが、今はもう花が咲くような笑顔だ。この笑顔は見飽きないな。
「エヴァン、ずっとアンナを見てるニャ」
突然、ミャルが私の顔を覗き込んで言った。
「いきなりなんだ。別にずっと見ているわけじゃ……」
「あ、そうか、エヴァンもなのニャ?」
「えっ?」
ミャルがそう言ったとき、よく分からないが私の中の何かが大きく跳ねたような気がした。
「エヴァン様、ミャルさん、どうかしました?」
私たちの様子に気付いたアンナが尋ねてくる。ミャルはアンナと私を見比べると、小首をかしげるような仕草をした。そして、
「別になんでもないニャー」
と言って、すっと私から離れていった。なんだったんだ、一体。
「……」
気が付くと執務室の隅からマルスが無表情でこっちを見つめていた。
こういう時こそ何か言えよ、専属執事め。どうせまたろくでもないことを考えているんだろうな。
執務室での騒ぎ、もとい集まりが終わると、アンナは早速ミャルを連れてマリクリアの街に飛び出していった。実家の仕立て屋で新しく発案されたカチューシャの試作を始めるらしい。行動力がすごいな。
私とレイチェル姉上はそれぞれの私室に戻るため、揃って屋敷の中を歩いていた。
マルシェル家の屋敷は、居住するための東館と政務をするための西館に分かれており、二つの建物を繋ぐように通路が作られている。そしてこの三つに囲まれるようにして中庭が広がっているのだが、その中庭ではクラムが日に照らされながら雑草取りをしていた。
「クラム、こんなところで何をしてるんだ?」
声をかけると、クラムがこちらを振り向いた。声の主が私だと分かると、すぐに立ち上がって深く礼をする。屋敷の中でそんな大げさなことをする必要はないが、なにせ今のクラムは毎日の経験全てが学びだ。貴族相手に普段から礼儀正しくしておくことは、農村出身の彼にとっては良い習慣と言える。
「あ、はい、庭の手入れの手伝いをして、います」
何日か会わない間に怪しい敬語が少しマシになっているな。クラムはずっと自分の話し方に注意を払っている。話を聞く限り、今まで貴族はおろか生まれた村の外部の人間ともあまり接点が無かったらしいからな。本人のせいでは全くないが、狭い世界の中で暮らしてきたようだ。
「手伝い? 誰かに言いつけられたのか?」
「いいえ、俺が勝手にやってるだけです。服は借りましたけど」
なるほど、クラムは使用人用の作業服を着ている。寸法が合わないので袖や裾を折っているが。
「そうか、それは助かる。うちの庭師は腕はいいがもう歳だからな。暇があったら手伝ってやってくれ」
「はい、野良仕事には慣れてるんで。こんなことならいくらでも」
この屋敷にいるうちは客分として扱っているが、とはいえ何もやることが無いのでは可哀想だしな。本人もやる気だし、庭師も助かるだろうし、やりたいようにさせておくか。
そう思って去ろうとしたとき、中庭の奥から誰かがクラムのもとにやって来た。
「クラム! ほら、帽子借りてきたよ。あと水筒も。ちゃんと水飲まなきゃだめだよ」
やって来た人物はクラムとほぼ同じくらいの身長の金髪の少年だ。大人用の大きな麦わら帽子と水筒をクラムに差し出している。
「あ、ありがとうございます、テオドール様」
「ティオでいいって言ったじゃない。どうせみんなそう呼ぶんだし」
そう、現れたのは私の弟のティオこと、テオドール・マルシェルだった。




