帰還
海岸が暗闇に包まれたところで、ゆっくりと立ち上がった。
時計はないから時間が定かでは無いけど、いつもならもう夕飯時だろう。
静けさの広がる海を前にしてひどく冷静な心持ちになっていた。きっと、僕の中に溜まった思いはこの海が洗い流してくれたのだ。海里がいなくなってから僕の心はずっと荒んでいて、いまはなんだか少しすがすがしささえ覚える。
これからどうしようかと考えて、すぐに結論は出た。
さざなみ荘に帰ろう。
このままここにいたってしょうがないし、きっと僕が悲しむ姿なんて海里は望まないはずだ。それに、大家さんや先輩も心配しているかもしれない。
僕はコートを羽織って、来た道を戻っていく。冷たい夜風が僕の身体を打つ。春の天気はきまぐれだ。海にいたときは、あまり風は吹いていなかった。
足を進めながらふと、夜にこのあたりを歩くのは初めてだと思う。常夜灯と車のライトに照らし出された道は、僕の行き先を示してくれているようでほんのりとした安心感を与えてくれる。
少しずつ海の匂いが薄れていき、もとの世界に戻っていくかのような感覚を覚える。身体は疲労を感じているが、不思議と足はすいすいと地面を蹴っていった。
学生や会社員の姿が散見される駅の前を通り、細い路地に入る。さざなみ荘まではあと少しだ。十字路を右折したところで、僕は首を傾げた。さざなみ荘の前に誰かが立っているのだ。ただ、暗がりで距離が離れていることもあって顔までは分からない。僕は恐る恐る近づくと、その人影の首がこちらを向いた。そして、僕の方へ襲いかかってきた。
とっさに逃げようとするが、身体の向きを変えたときにはもう僕に伸びる手はシャツの襟をがっしりと握られていた。ゆっくりと振り返ると、そこには鬼の形相をした大家さんの姿。ほっと安堵を感じた次の瞬間、パーンと乾いた音が響いた。続いて頬が熱くなる。
「この大バカが」
そう叫んだ大家さんの頬を一滴の滴が伝う。僕はその姿を見てなにも言えなかった。ただ、胸の内には後悔と僅かの温かさが生まれる。
「でも良かった」
大家さんはそう小さく呟いて僕を抱きしめた。
「すみませんでした」
僕は照れくささとうれしさの混じり合った心持ちでされるがままにされる。しばらくの間、僕と大家さんはさざなみ荘の前でそうしていた。
「あー、一帆」
部屋に戻ろうとさざなみ荘の階段を上って二階に到達すると、僕の部屋の前で先輩が体育座りしていた。眠そうな目を手でこすって、こちらをまじまじと見つめる。
「えっと、ご迷惑おかけしました」
それを聞いて、先輩はふーっと大きく息を吐いた。
「本当だよ、もう。大学から帰ってきたら一帆がいないっていうんで私も探しに行ったんだよ。伊勢原くんも駆り出してさあ」
「すいませんでした。卓にも、今度会ったときにお礼を言っておきます」
先輩だけでなく、卓も僕を心配してくれて探してくれたようだ。周りの人々の温かさを切に感じる。
「まっ、しょうがないね。若者ってのは悩むものなのさ」
先輩が髪をかき上げにっと笑った。
「先輩もなにか悩み事とかあるんですか」
思わず、そう聞いてしまう。なんだかその言葉には自分のことも含まれているような、そんなニュアンスを感じてしまった。
先輩は目を少し見開いて、それからふっと微笑んだ。
「当たり前だよ」
「例えばどんなことで?」
すると先輩は腕を組んで軽く上を見上げた。
「そうだねえ……。明日の授業までの課題、やってないなあとか」
「大した悩みじゃないじゃないですか……」
もっと大層なものかと思ったがどうやら違うみたいだ。それくらいなら、学生誰しもが抱えているだろう。
「その授業必修で、単位落としたら留年だなあ、とか」
「えっと、それって実話ですか?」
「もちろん」
力強く頷いた。たしかにその悩みはなかなかにハードなものだ。留年はかなり体裁が悪いものだ。許される留年なんて、留学か何か別の仕事をしてたとかそれくらいのものだろう。単位を落として留年なんて言語道断だ。
「あー、頑張ってください」
だから、僕もかける言葉が見つからずそんなありきたりなことしか言えない。
「今日はずっと一帆を探し回ってたんだよなあ。落としたら一帆に責任取ってもらおうかな」
そう言っておどける先輩。でも、僕には分かる。
「どうせ、僕のことを探してなくてもこの時間まで課題に手をつけなかったんじゃないですか」
「まあね」
先輩はそれに悪びれもなく笑う。それにつられて思わず笑ってしまう。
「一帆、久しぶりに笑ったね」
急に穏やかな声音を僕に向けてくる。なんだか、たまにこうして年上なんだということを感じる機会がある。いつもは阿呆な人だなと思うけど、ここぞのところで年相応な、いやそれ以上の雰囲気を醸し出す。
「そんなこと、ないですよ」
だから、僕は年下っぽくそうおどけて見せた。




