密談
次の日の朝。
僕の予想に反して、海里は起こしには来なかった。
七時に起きて朝ご飯を食べ、なんとなく待っていた僕としては、少し拍子抜けすることになった。
とくに予定もなく部屋でごろごろしていると、唐突にインターホンが鳴った。初めは海里かと思ったが、もし海里ならそのまま入ってくるはずだ。とくに何か荷物の宅配を頼んだ覚えもなく、誰だろうと不思議に思いながら扉を開けると、先輩が立っていた。
「おはよう、一帆。いま、暇?」
「まあ、暇ですけど……」
「だよね。じゃあ、お邪魔します」
自然な流れで入ってこようとする先輩を僕は扉の前に立って制止する。
「何の用ですか?」
つい、声に不機嫌な気持ちが出てしまう。でも、急に訪ねてきて部屋に入ろうとする時点で大した用事でもないのだろう。それなら久しぶりに、家でのんびりしたい。
「そんな嫌そうな顔しちゃって。まあ、これを聞いたらそんなこと言ってられなくなるけどね」
そう自信ありげに胸を張る。ものすごい癪な表情だ。
「もったいぶってないで、早く要件を話してください」
すると、先輩はごほんと一つ咳払いして、
「実は、来週の土曜日が海里ちゃんの誕生日なんだよ」
「えっ?」
それは、完全に予想外の内容だった。そういう話は、そういえば海里とは全くしてなかった。
「というわけで、お邪魔するね」
「いや、待て」
僕の横を器用にすり抜けていった先輩の肩を掴む。
先輩が不満げな視線を僕にぶつけてくる。しかし、それはできない相談だ。僕はため息を一つついて、
「そもそも、なんで海里の誕生日を先輩が知っているんですか?」
僕はその質問を口にして、それからすぐに後悔した。その言葉は、まるで海里と僕の方が一緒にいる時間が長いのに、先輩は僕が知らない海里のことを知っていてやっかんでいるように見えてしまうからだ。ただ、先輩はとくにそこには触れなかった。
「私が知っているのはね、ゆかりちゃんとの間で誕生日パーティーがしたいねって話が出てきたからだよ」
とてもシンプルな理由だった。たしかに、大家さんはそういう祝い事は盛大にやるのを好む人で、去年の僕の誕生日にもパーティーが開かれていた。
「誕生日というのは分かりました。それで、なんで僕の家に入ってくるんですか」
海里の誕生日と先輩が僕の部屋に侵入しようとする因果関係が僕には全く掴めない。先輩は僕の疑問を理解したようで、あー、と頷いた。
「海里ちゃんの誕生日パーティーの相談を一帆の部屋でしようと思ったんだよ」
至極当然のことであるという物言いである。
「でもそれ、別に僕の部屋じゃなくてもよくないですか?」
大家さんの部屋でも先輩の部屋でもいい。それに、そもそも誰かの部屋でやる必要もない。お金はかかるが、喫茶店やファミレスという選択肢もある。
「いまねえ、ゆかりちゃんと海里ちゃんは洋服を買いに行ってるんだよねえ」
なるほど。どうりで今朝は海里が僕の部屋に来なかったわけだ。きっと、アウトレットにでも行っているのだろう。そして多分二人はなかなか帰ってこないと思う。女性の買い物は長いのだから。
じゃあ、先輩の部屋はどうなんだよと思っていると、それを感じ取って先輩が口を開く。
「女の子の部屋は秘密の花園なんだぜ」
そう言ってウインクしてきた。正直、かなりイラッときた。ひっぱたいてやろうかと思ったけど、それはよくないと思いやめた。
それから、心を落ち着かせるためにゆっくりと深呼吸する。すっと苛立ちが引いてきた。先輩はというと、全く悪びれる様子もなく、そういえばとでもいうように情報を付け加えた。
「あー、あと伊勢原くんも呼んだんだけど」
それで、僕はすんなりと抵抗を止めた。
「ということで、第一回、海里ちゃんの誕生日パーティー構想計画を始めたいと思います」
先輩が高らかにそう宣言する。そして一人で拍手する。現在、僕の部屋には二人。先輩と僕だけである。先輩によれば、伊勢原には電話して約束を取り付けたとのことだが、用事があって少し遅くなるかもしれないとのことだ。そもそも、海里と全く面識がない伊勢原を呼ぶこと自体意味不明だが、人数が多い方が楽しめるという先輩の持論に反対する気もないので頷いておいた。
「まず、これはサプライズなので他言無用です」
人差し指を立てて、真面目な顔をする先輩。僕はそれに頷く。とはいえ、別に誰かに話す類いの話でもないが。
「それで場所なんだけど、ゆかりちゃんの部屋でいいよね」
「そうですね。それがいいと思います」
僕の誕生日パーティーのときも、大家さんの部屋で行った。結局食事に関しては大家さんが全部作るので、あの部屋が一番いいと思う。
「さて、次に部屋の装飾だけど、これは私とゆかりちゃんでやるよ。それで、一帆にはとても重要な任務があるんだけど……」
ここで一度、先輩は言葉を切った。
「任務?」
「うん。一帆にしかできない任務。海里ちゃんと夕方まで遊んできて」
それは、任務という言葉が似合わない楽しそうなものだった。そして、最近の僕の日常の一幕であった。
だから僕は任せてくれという気持ちを込めて頷いた。
「よし、これで決めることは終わりだー」
先輩が大きく伸びをする。一仕事終えた、みたいなテンションだが、時間で言えば五分にも満たない会議だった。疲れる要素が見当たらない。
それに、この会議で話す前におおまかなことは決まっていた節がある。事前に誕生日パーティーの話を大家さんと先輩でしていたのだろう。
この話に果たして僕が必要だったのかははなはだ疑問である。誕生日会をやるから海里を外に連れ出してと言われれば、それで完結したような話だ。なにも僕の部屋まで来て話すものでもない。そう考えると、伊勢原は何のために来るのだろうかと思ってしまう。
「あとは誕生日プレゼントかあ。なに買おうかなあ」
先輩が机に肘をついて首を傾げる。そうか、誕生日なのだからプレゼントが必要か。とても当たり前のことなのに、つい失念していた。とはいえ、僕も誕生日を祝ってもらったり自分の欲しいプレゼントをもらった経験は少なかったように思える。実家にいた頃も、プレゼントは学習参考書で誕生日もケーキを粛々と食べるだけだった。
「一帆、海里ちゃんってなにが好きなの?」
僕が海里の好きなものを知っていることがさも当然というように聞いてくる。
しかし、これといって思い浮かぶものはない。一緒に遊びに行ったときも、基本的に、なににでもうれしそうな表情を浮かべるが、なにか特定のものに強い思いを寄せている姿なんて見たことがない。
「僕もよく分からないです」
そんな僕の声に、先輩はふーと息を吐いて困った表情を浮かべた。
「まあ、そうだよねえ。あの子、そんなに欲しいものとかなさそうだもんね」
欲しいものがなさそうというのは、僕もその通りだと思う。海里の服やらなんやらの必需品を買いに行ったときも、さまざまな商品に目移りしていたけど、それは欲しいという感情とはかけ離れているように僕には思えた。あれは商品というよりも、ショッピングモールという空間に興味を向けていた。結局、海里が買ったのは安くてそこそこ機能性があるものだった。
そうすると、海里になにを渡せばいいのか分からなくなる。そもそも、僕にはそんなにお金がないし、海里の欲しいものも分からない。誕生日にプレゼントをあげた経験もほとんどない。それこそ、先輩の誕生日のときくらいだ。あのときは、どうしたんだっけ。先輩にそれを尋ねると、
「うーん、たしかボールペンをもらった気がする。なんでだったっけ?」
ボールペン、という言葉を聞いて当時のことを思いだした。
「先輩が赤ペンのインクが切れたから欲しいって言って、それで新品を買ったんです」
そういえばそうだったね、と先輩が頷いた。
でもこの例じゃ何の参考にもならない。海里に欲しいものを聞くという手もあるが、サプライズパーティーがばれてしまう可能性もある。
ふと、僕は家計簿に手を伸ばした。大学に入ってから、毎月つけているものだ。いま僕はどれくらいお金を使えるだろうかと見てみて愕然とする。食費などを鑑みるに今月の僕が自由に使えるお金はあと数千円くらいだ。しかし、それを全てプレゼントに当てることはできない。でも、海里のおかげで僕の日常には色合いが増していて、そのお礼も込めてなにか喜んでもらえるようなプレゼントを渡したい。
「僕もあの御曹司みたいにお金があればなあ」
ふと、うちの大学の先輩である三島のことが頭に浮かんだ。なんとなくいまだけは彼の境遇が少し羨ましく思った。
「一帆、それはよくない」
それはひどく冷たい声だった。先ほどまでの明るさはなく、その表情からは笑顔が消えていた。
僕は初め先輩のその変化の理由が分からなかった。それで、自分の発言をゆっくりと反芻して、なにが地雷原だったのかを知った。
「人間っていうのはね、見えないところで苦しんでたりするんだよ。だから、そういうのは思っても口に出しちゃだめだよ」
「すいませんでした……」
僕は心の底から謝った。先輩に頭を下げるのは、これが初めてのことだ。今回に関しては、徹頭徹尾先輩の言うとおりだ。
「あの、先輩はあの人のことを知ってるんですか?」
つい、そんな質問が口を飛びだす。
先ほどの言い回しから多分そうなんだろうとは思う。
「うん、ゼミが同じでね。結構話したりするんだよ」
先輩は静かにそれに肯定した。
そういえば、先輩は二年生からゼミに所属していたと言っていた。ただ、三島と同じだということは知らなかった。とくに三島自身に興味がなかったというのもあるが。
「それでさ、話は戻すけど、プレゼントっていうのは気持ちがこもっていればどんなものだってうれしいものだよ」
それは先ほどとは打って変わり優しげな声だった。
でも僕には、それがいまいちぴんとこなかった。いや、そのこと自体は分かっているのだ。僕が読んだ物語や見た映画でもたまに見かける台詞なのだから。ただ、その確証を持てたことはいままで一度もなかった。
とはいえ、先輩がそういうのだから、きっとそれは事実なのだと思う。先輩は心のこもったプレゼントをもらったことがあるのだろう。
「そうですよね」
だから僕は、それに頷いた。心をこめるということの意味をいまいち理解できていないままに。
「よし、それじゃあ伊勢原くんが来るまで雑談でもしようか」
先輩がそう切り出して、僕は伊勢原のことを思い出した。そういえば、伊勢原もうちに来るという話だった。いまのいままで完全に忘れていた。もうお開きの流れだと思っていたが、そうなると待たないわけにはいかない。
結局、卓が到着したのはその三十分後だった。




