お出かけ
「一帆。朝だ……ぞ?」
翌朝。
僕の予想通り当たり前のように僕の部屋へ侵入してきた海里は、入り口で目を点にしていた。
「一帆が、早起きしてる?」
なぜか、ものすごい驚いていた。ひどく不愉快だ。僕が早起きするのがそんなに不思議なのだろうか。
とはいえ、実は僕は海里が来ることを見越して早起きをしたというのはある。朝っぱらから耳元で騒がれてはたまらないと、目覚まし時計を導入したのだ。使ってみると効果は絶大で、いとも簡単に起きることができた。いままで物置にしまっていたことを後悔したくらいである。
「まあ、いいや。取りあえず朝ご飯を食べに行こうよ」
海里の後に続いて僕も部屋を出て、大家さんの部屋へと入る。中からはとてもいい匂いがしてくる。
「おはよ、一帆」
「おはようございます」
僕の返事にエプロン姿の大家さんが少し眠たそうな目を開く。やはり、昨日の夜の疲れがまだとれていないみたいだ。ただ、海里が全く疲れた様子もなくにこにこしているところを見るに年の影響が大きそうだ。
「なんか、失礼なこと考えてない」
「そ、そんなことないですよ。いやあ、それにしてもご飯おいしそうですね」
慌ててそうごまかして机の前に座る。目の前にはパンと目玉焼きとスープ。こんなご飯が朝から食べられるなんて、幸せである。
「なあ、海里は毎日大家さんと朝ご飯を食べてるのか?」
僕の隣でイチゴジャムを器用に塗っていた海里が顔を上げてそれに首肯する。
「朝ご飯だけじゃなくて、昼も夜もだけどねー」
うれしそうに笑う海里。すると、海里は三食つきの生活を送っているということか。
「めちゃくちゃ羨ましい」
「そのぶん、片付けとか掃除とか買い物に行ってくれてるからねえ。どこぞの誰かと違って」
キッチンに立っていた大家さんがぼそっと呟く。その言葉は僕にぐさりと刺さった。僕はただ飯を食べているというのに、大家さんになにもできていない。
「大家さん、すいません。僕にできることならやります。やらせてください」
大きく頭を下げる。すると、大家さんは顎に手を当てなにやら考え込んだ表情をして、
「じゃっ、今日のおつかいは任せた」
そう言って笑顔で親指を立てた。
「それで、今日はどこに行くんだ」
さざなみ荘を出て見慣れた道を歩きながら、僕は海里に尋ねる。行き場所を決めないままに、いいからいいからと海里に急かされて出てきてしまったが、本当に大丈夫だろうか。
とはいえ、すでにこのあたりの場所で、海里に紹介できる新しいところは僕のストックの中にはないのだが。
「実はですねえ」
もったいぶった話し方で、ポケットから二枚の紙を勢いよく取り出す。初めお札かと思ったが、どうやら違うみたいだ。自分の思考の残念さを反省しながら、そのペラペラの紙を受け取って引き延ばした。
「南水族館のチケット、だな」
ここからそう遠くない場所にある水族館だ。たまにテレビで取り上げられることもあって、イルカやあざらしがいることは知っているが、行ったことはない。
「ゆかりさんにもらったんだあ。今日はここに行こう」
なるほど、ゆかりさんが海里にチケットを渡したのか。
一体全体ゆかりさんはどこでチケットを手に入れただろう。福引きの景品か何かだろうか。チケットの裏も確認するが、入手経路は分かりそうにない。もしや海里のために二枚購入してきたのだろうか。もし仮にそうだとしたら、海里に甘過ぎである。
「どう、一帆?」
「そうだね。行こうか」
海里はそれにうん、とうれしそうに頷いた。
「ちなみに、どうやって行くんだ?」
おおまか位置は分かるが、どの交通機関を使えば近いのかいまいち僕には分からない。まさか歩いて行くことなんてないだろうけど。
すると、海里はふふーん、任せなさいと胸を張ると、お財布から白い紙を取り出した。それから、きれいに四つ折りされたその紙を開いて書いてある内容を確認する。
「えーっと、市立大学前から南水族館前までバスだって。二十分くらいらしい」
その紙を横から見ると、きれいな字で行き方が書かれていた。どうやら、大家さんが海里のために書いてくれたみたいだ。あの人はあんなにがさつなのになぜか字はとてもきれいだ。人はみかけによらないというやつの典型的な一例だ。ご飯を作ってもらえなくなるから本人には絶対言わないが。
「一帆はバス停ってどこか分かる?」
「うん。多分、大丈夫」
僕の移動手段はほとんどが自転車で、まれに電車も使うが、バスは全く使わない。ただ、一応おおまかなバス停の場所は把握している。
脇道を抜けて、駅が顔を出す。土日ということもあり、路上では出店みたいなものが出されていて、家族連れの姿も散見される。朗らかな陽気なこともあってか、人がかなりいる気がする。
「あそこがバス停だな」
右手を指し示す。そこにはバスが停まっている。ちなみに、左に歩いて行けば大学に着く。
バス停の前に着いて、時刻表を確認する。次のバスは九時半。いまが二十五分だからもう少し待っていれば来るみたいだ。スムーズに乗れそうでほっとする。バス停でずっと足止めを食らうなんてことになったらテンションが下がってしまう。
しかし、バスに乗るなんて久しぶりだ。それこそ、ここに来る前、実家にいた頃以来だろう。
と、袖がつんつんと引かれる。
「どうした、海里?」
海里はもじもじしながら言いにくそうに口を開いた。
「あ、あのさ。バスってどうやって乗るの?」
「どうって、乗るときにお金を払って乗るんだよ」
場所によっては降りるときに払うバスもあるらしいが、ここらのバスは時刻表の横に書かれた値段を見る限り金額が一律みたいだから先払いだろう。海里はそれに曖昧に頷いた。あまり分かっていないみたいだ。乗るときに、僕が先に立ってやり方を見せるか。
それにしても、バスの乗り方なんてまさか聞かれるとは思わなかった。
「バスに乗ってどこかに行ったりしなかったのか」
「うん。基本移動は車か飛行機だったから」
思わずお金持ちか、と心の中で突っ込んでしまう。車と飛行機での移動しかないということは、普通の家庭ではないのだろうということが改めて感じられる。一体どういった生い立ちなのかとても気になるけど、それは海里が一番聞かれたくないところだと思うし、気軽に話には出せない。
だから僕は、適当に話を逸らしながら雑談を続ける。
「ところで、チケットって大家さんが取ってくれたのか?」
「うん。この間テレビで水族館の特集がやっててね、私が気になるなあって言ったら、じゃあチケット取ろうかって言ってくれてね――」
海里が楽しそうに話すのに相づちを打ちながら、僕は心の底では全く違うことを考えていた。海里のことが、もっと知りたい。でも、僕らの関係はそこまで踏み込むことを許されていないような気がして、ただ、彼女の笑顔に笑みを返すことしかできなかった。




