30.とある元体操選手のつぶやき(2026.7.22)
この物語を書き始めた頃は、まさか今みたいな酷い状況になってまで開催を強行するとは想像できてませんでした。そして想像以上に酷い状態に現実は陥っていて、その情報は堂々と秘匿される事になりました。
この一遍は、そんな日々をもとに書かれたものです。
2026.7.22
外村耕平
自分の名前は外村耕平。元体操選手。かつては、五輪の個人総合を連覇していた事もあった。東京五輪は、延期されたあげく2021年の開催ぎりぎりで中止判断が下されてしまい、三連覇達成は不可能になってしまった。日本で合宿中の複数の外国選手団の間で感染が確認され、多数の重症者や、数人の死者まで出てしまった事が最後の決め手になってしまった。
選手が何を言おうが世界は変わらない。そんな発言が波紋を呼んだ事もあったけれど、当時はそう信じていた。
競技に関係の無い事に関心は薄かったし、体操競連やスポンサーとかの指示に従ってれば面倒事の大半はやり過ごせた。
中止判断を下したにしろ時期が遅すぎて、また日本から去っていった選手団や関係者などから帰国先で感染も被害者も拡大したものの、自己責任だとしか思えなかった。
どうせ同じ結末を辿るなら、無観客でも競技さえ行わせてくれれば文句は無かったのに。
その年の冬に、12.7が起きた。自分のはるか頭上の人々の多くが問答無用で処刑されていった。忠臣組が直接競技世界にまで口を出してくる事は無かったけれど、競連のお偉いさん達は戦々恐々としていた。
東京五輪が中止とされた事で自分は指導者の道を歩き始めようとしていた。そんな時期に起こった大きな政変で、自分は判断を求められた。
忠臣組組員になるかどうか。妻や子供達がいる事もあり、組員になる判断はそう迷わずに下した。自分をこれまで応援してくれてきた人達の中には、裏切り者、恩知らずと糾弾してくる人も少なくなかった。
逆に、競技の第一人者だった自分に、忠臣組へ反旗を翻す旗頭になる事を期待してくる人達もいたけど、勘弁してくれ。単なる元体操選手に何を期待してるんだ?競技をする姿を見せていくばくかの感動とかを配る事が出来たとしても、それが限界だと自分はわきまえていた。そのつもりだった。
政治家や官僚が大量に殺されたのも、彼らの悪行のツケを支払っただけだろうと気にしてなかった。マスコミや大企業の経営者とかも同じ。自分達スポーツ選手とかで政権寄りな立ち位置を鮮明にしてた人達は、殺されなかったにしろ、社会的な制裁を受けたりしていた。自分もそういう意味では微妙な位置にはいた。
やはり体操選手だった両親が開き、かつて自分も所属していた故郷のスポーツクラブを継ぐ事を熱望されたが、北九州市よりは東京で開く方が将来性がありそうで、家族間でも何度も話し合った。
コロナの感染拡大や変異株の影響で、外出が必要になる競技やその教室などは大きな生徒数減少を余儀なくされていたし、体操もその例外にはなかった。
妻や子供の希望、教室を開くならとスポンサーになってくれる企業の出した条件などもあり、政変のあった東京、現在の皇都で教室を開く事になり、名前は両親の開いたものの名前を継ぐ事にした。
コロナ環境下でも、自分の実績のお陰か、生徒は十分な数が集まってくれた。特に中高生は将来に向けたモチベーションも高く、熱心に練習に励んでくれた。
国内や海外の激動する情勢はともかく、自分の周辺は穏やかに確実に歩みを進められていた。その筈だった。
だが、半年も経たない内に、教室の生徒複数がデルタ株に感染したと判明。その家族だけでなく、自分の家族にまで感染が広がっていた。
教室の生徒達と接する機会のあった妻を通じ、娘二人が感染した。子供は感染しにくいと聞いていた筈が、デルタなどの変異株には通用しないと知った時にはもう手遅れだった。
片方の娘が重症化。もう片方は回復できたものの、激しい運動は出来ない体になってしまった。そして数週間後、闘病を続けていた娘の命は喪われてしまった。
体操教室では、入る時に非接触式の体温計で体温を確かめたり、手の消毒を徹底させたり、風邪気味の症状が出た時は教室に来ないよう、対策を徹底させていた筈が、ぜんぜん足りていなかったらしい。後悔先に立たずという諺の通りに。
教室は、コロナ禍が落ち着くまでという形で、いったん閉めるしか無くなった。いつになったら再開できるかという目途は立たないままに。
月日は流れ、忠臣組の治世が盤石になっていったが、自分に何かを期待する人達は絶えなかった。特に自分より年上の人達に多かった。
その中の少なからぬ人が言う内容は似通っていた。自分は好きな体操をやらせてもらっていたのだから、それで他の誰よりもいい思いもしてきたのだから、そうさせてくれた人々に誰よりも恩義を負っている筈だ、というもの。
確かにそうだったとしても、自分は体操競技を通じてその恩を返してきたし、それ以上の義務は負っていないと返答してきた。自分はただの一選手だったし、それ以上の何かを期待しないで欲しいと。
ねばり強く後ろ向きな説得を続ける事で、たいていの人は最後にはあきらめてくれた。
けれど、奈良事件や、愛子様と韓国人アイドルの結婚を巡る暴動の弾圧などで希望を断たれた人達が、自分にその勝手な願望を押しつけてきた。
金属バットや木刀などで武装した五人組の男性が、家に強引に乗り込んできた。その中には、体操教室の元教え子まで混じっていた。
彼らは怯える妻や娘を人質に取り、脅してきた。
「外村選手。あなたはまだまだ知名度がある。社会的影響力が残っている。そんなあなたが、大恩ある日本という祖国に恩義を尽くそうとしていないのは、怠慢です。不義理です。私達は、あなたがこれ以上、自分さえ良かれと傍観を決めるというのなら、あなたにとってかけがえのない誰かを奪います」
「ふざけないでほしい。が、まず、落ち着いて話そうじゃないか」
「ふざけてなどいない。あなたは落ち着く前に自分と大切な家族が曝されている状況を理解すべきでは?」
妻と娘は床にうつ伏せに組み伏せられ、自分は後ろ手に手錠をかけられた上に両脇から腕を固められた状態で、元教え子とリビングのソファで向き合っていた。
「まだぎりぎりだが、未遂と言える状況だ。踏み留まり、立ち去れ。そうすれば、通報しないでおこうじゃないか」
「ありがたい温情ですね。しかしそんな程度の温い覚悟では来ておりませんので。未遂のまま済むかどうかは、私達ではなく、あなた次第ですよ、先生」
「君は特に優秀だったじゃないか。こんな事で将来を棒に振るのか?」
「先生もご存じの通り、倭国は将来的な鎖国を表明してますし、国内の各競技大会は体操に限らずコロナ禍が完全に収束したと判断されるまで開催が制限されたままです。そんな状態で、選手としての将来性なぞ、気にかける価値がありますか?」
「しかし、未来がどうなるかなどわからないだろう?国内感染状況は先進国でも似たり寄ったりだが、国内大会は開催している国もある」
「そう、未来はどうなるかわからない、ですよね。だから、自分達は、先生に期待してるんですよ」
「妻と娘と自分を危険に曝されて、言うことを聞くと思ってるのか?」
「先生はまだ、立場を理解されていないようだ」
元教え子は、ポケットナイフを取り出すと、刃を出して、床に押さえつけられたままの妻と娘の姿を見て言った。
「このナイフで彼女達の服を裂いてもまだ、同じ事を言うのでしょうか?」
「お、おいっ、待てっ!」
「パパ、助けて!」
「あなたっ、言う事を聞いてあげて!」
「どうしますか、先生?」
浮かした腰をまたソファに落ち着けた元教え子が尋ねてきた。
「要求を飲もうと言ったところで、どうすればいいんだ?自分一人にそんな影響力がある訳無いだろうに」
「まずは、倭国を全否定して、組員でも無くなって下さい」
「バカな!そんな事をしたら、家族達が守れなくなる!」
「では、この場でどんな酷い目にあってもあきらめると?」
「政治がそんな一朝一夕で変わるわけないだろうが!君たちは俺を捨て石に使おうとしてるだけだ!」
「そうでしょうね。自分達を含め、たくさんの命が喪われるでしょうね。かつての、在るべき姿の日本を取り戻すには。あなたとその家族は、その魁となるのですよ。光栄でしょう?」
「狂ってる。つきあい切れない」
「では、奥さんと娘さんに、一生消えない傷を心身に刻まれても、無視すると?あきらめると?」
「そんな事は言ってない!」
「では、今すぐに忠臣組から脱退手続きを」
「知ってるだろ。入会手続きはオンラインだけで出来るが、退会手続きは役所とか公的な場所で直接行う必要があるんだ」
「腕輪の返却や、本人の意志確認手続きがありますからね。ではとりあえず、インターネット上のあなたのSNSアカウントから脱退声明を出して下さい。もうこれ以上、忠臣組の暴虐を許せなくなったと。かつての日本の姿を取り戻すまで徹底して戦い抜くと」
「・・・今まで政治的な発言は避けてきたんだ。誰かにアカウントをのっとられたり、強要されてるとすぐにばれるぞ?」
「別にかまいません。かかってるのは、あなたのご家族の命や一生物の傷だと理解されてますか?」
「くっ・・・!しかし、後ろ手に手錠をかけられてたら」
「大丈夫です。スマホのロック解除さえして下されば、私達から発信しますから」
「そんな状態をいつまでも続けられると?」
「あなたがアカウントのパスワードを変えない限りはね。いったん発信さえ出来ればこちらでパスワードを変えて、認証に必要な電話番号もこちらのものに変更しますよ」
「・・・それで、妻と娘は解放してくれるんだろうな?」
「ええ。あなたがちゃんと脱退手続きを終えてきて下されば」
「その間、妻と娘の無事は誰がどう保証してくれるんだ?」
「あなたがおかしな事をしでかさない限り、そしていったん解放された後に、発言や行動を取り消さない限り、あなた達一家の安全は保証されます」
「脅迫し続ける気か!?何度も言うが、自分は、ただの、元体操選手なんだぞ?」
「世間はそう受け取りませんからね。はい、利用させて頂きますよ」
元教え子は、すでに自分から取り上げていたスマホのパスコード入力画面を表示させ、自分から聞き出したコードでロックを解除。
「では、さっそくSNSで発信、拡散しましょうか。ふふふ、ご協力感謝しますよ」
「妻と娘を解放しろっ!」
「それは発信やあなたの脱退なんかが済んでからですよ」
「ふざけっ」
るな!という言葉が口から出る前に、パンという音が庭の方から聞こえてきて、スマホに視線を移していた元教え子の側頭部から貫通した何かが入り口と反対側に血と脳漿とをまき散らした。
そこからは全てが立て続けに起こった。リビングに続く二つのドアからSWATの様な装束をまとった連中が突入してきて、妻と娘を拘束していた男達を昏倒させ、自分を左右から固めていた男達もその背後から無力化された。
ほんの一分にも満たない間に様相を変えたリビングから、妻や娘は忠臣組の実行部隊女性組員達に別室へと連れられていき、隊長らしき若い男が話しかけてきた。
「ご無事で何より、ですか?」
「ええ、まあ。助かりました」
撃ち抜かれて即死した元教え子を除けば、だが。
「でも、通報出来ないままだったのに、どうやって?」
「ずっと閉鎖されてたあなたの体操教室に、見慣れない男達が押し入っていったという通報がありましてね。確認などに若干手間取り、駆けつけるのが遅れてしまい申し訳ありませんでした」
「いえ。妻も娘も乱暴される手前で済みましたしね」
今ではパトカーのサイレンも近づいてきて、やがて大勢の警官達がどやどやと入室してきた。自分と家族を助けてくれた忠臣組の実行部隊の隊長と、刑事らしい男は視線を交わすと、刑事の方がわずかに頭を下げた。
「救助、ありがとうございました。犠牲者は一名と聞いてます」
「彼は、あなたの体操教室の関係者だった。そうですか?」
「え、ええ、そうですけど、なぜそれを?」
「似たような手口で、社会的知名度のある存在を脅迫して自分達の思い通りに操ろうとする犯行が、全国あちこちで頻発してましてね。あなたもその警戒対象の一人に含まれてましたので」
「だったら、予防する事も可能だったのでは?」
少しだけむっとして言ってみたが、気を悪くした風もなく、その若い隊長は砕けた口調で言った。
「いやね、一応、犯行を犯してからでないと捕らえられないとかあったりしますから」
「だったら、家に踏み込んできた時点で」
「元教え子が、仲間達と先生を旧交を暖めに来た、とか言い訳してたんじゃないですかね」
「でも、妻や娘が危険に」
「最後の一線のかなり手前で阻止できるよう、監視はしてました。あなたもいい感じに粘って時間稼ぎしてくれてましたしね」
「特に根拠はありませんでしたが、どこかの誰かが通報してくれてるかもと願ってましたから」
「良かったですね。間に合って」
「ええ。本当に」
そこで自分は隊長や刑事を相手に一連の出来事の説明をし、調書を取られ、その内容に確認のサインをした頃には、現場となったリビングは、誰かが殺された痕跡がほとんど消されていた。
「それで、どうなさいます?」
「どう、とは、何を、どう?」
「忠臣組に残り続けるかどうか、ですよ」
「いえ。助けてもらいましたし、抜ける理由がありません」
「そうですか。それは良かった」
まだ若い隊長はソファから立ち上がり、実行部隊の隊員をまとめて去ろうとしたが、尋ねてみた。
「あの、何か、自分はしなくていいのですか?」
「するって、何を?」
「えぇと、あなた達を否定する連中に暴力を振るわれたとか、危ないところをあなた達に助けられたとか」
「あなたがどうしてもそうしたいというなら止めませんけど、私なら、止めておいて下さいと言いますね」
「どうして?良い宣伝になるのでは?」
「いいえ。どうせマッチポンプとか言われるのが落ちだからですよ」
「はぁ、そんなものですか?」
「そんなもんです。それより、この家はもう知れ渡ってて安全じゃなくなってる可能性が高いです。ご家族と別の場所に引っ越すのなら、引っ越し先を決めたら忠臣組にもご相談下さい。それとない警戒対象に含めておけば、次回以降はもっと迅速な対応が可能ですからね」
「わかりました、ご助言ありがとうございます。家族と相談して決めたら、そちらにもお知らせします」
「よろしくです。それでは。あぁ、少なくともそれまでの間は、それとなく、この周辺を見張るようにしとくので、ご安心下さい」
忠臣組の実行部隊の面々が去っていくと、肩の力が抜けた刑事さんと少し雑談をした。
「こういう話、最近多いんですか?」
「はい。下手に報道に流すと、模倣犯を増やすんで表沙汰にはしてないんですが」
「その、忠臣組の実行部隊に先を越される事に、警察としては」
「おもしろくない部分もありますよ。今日殺された奴も射殺されないで済ませられたかも知れない。でも、被害者側は、トラウマとかは別にしろ、身体的には無傷のままで済ませられた。社会の在りようが変わってしまったせいなので、警察だけではなんとも、ですね」
「そんなもんですか」
「そんなもんですよ。社会なんて、警察だけで変えられるもんでもないでしょう?元々は民主主義国家だったんだし」
「それもそうですね」
その夜、妻と娘と話し、引っ越しする事は決めた。というか惨劇が起こった家で夜を明かすのを避ける為に、それなりに安全そうなホテルに部屋を取った。(忠臣組にも宿泊先は伝えておいた)
引っ越し先をどこにするかという話し合いが落ち着いた後で、二人に尋ねてみた。
「二人とも、これからも忠臣組に留まり続けるという事でいいか?」
「守ってもらいましたしね」
「そうそう。組員のままでいたら、また狙われるだろうけど、組員でなくなってた方が、たぶん危険は増えるのに守ってもらえなくなるだけだから、どっちがマシかは明らかだと思う」
「そうか。じゃあさ、これはもしもの話だけど、やっぱり民主主義政体の、基本的人権が保証された日本を取り戻したいって、忠臣組を抜けて、必要な活動を始めたいって言ったら、どうする?」
妻と娘は顔を見合わせてから、問いかけてきた。
「それが、あなたが本当にそうしたい事なら、お手伝いしたい、かもですけど」
「私はちょっと、怖い、かな。今日みたいな人達が、もっとずっと無遠慮にたかって来るわけでしょ?利用しようって。それは、嫌だな」
「俺だって、嫌だよ」
「あなた、何度も自分で言ってたじゃない。自分は元体操選手に過ぎない。彼らが望むような影響力は自分には無いって」
「そうだけどさ。例えば今日は、たまたま物事が危ないところでうまくいって、みんな無事で済んだけどさ、もし、そうなってなかったら、忠臣組からの助けが入ってなくて、二人が死んでたり酷い目にあってたりしたら、自分は自分を許せたかどうか、わからなくなったからさ」
「今日のことはもう、思い出したくない。パパがそうしたくなったとしても、私達の事は巻き込まないでね、お願いだから」
「あ、ああ。約束するよ」
それぞれのベッドに横になり、部屋の灯りを消してからも、自分はなかなか寝付けなかった。
自分は、たかが一体操選手だった。今では元体操選手に過ぎない。影響力は、無名な一般人に比べればずっとあるかも知れない。それでも、だからって何かを言ったりしたりする義務は負わされていない、筈だ。たぶん。
それでも、今日射殺されてしまった元教え子が、死刑に値するような何か酷い罪を犯してしまったのかと問われれば、そうではなかったとも思う。妻や娘が一生物の傷を負わされる一歩手前の状態にあったのは確かだったとしても。
彼も、体操競技が普通に行われる世の中が続いてれば、こんな風に道を踏み外す事もなく、いろんな選考会で結果を残し、世界選手権にメンバーとして入れていたかも知れない。そんな彼を誰かが助けられたとしたら、自分は間違いなくその内の一人に含まれていただろう。助けられなかったけれど。
コロナ禍を本気で止めようとしなかった政権は、幾多の汚職を忠臣組に暴かれ誅殺され滅びた。世の中を大規模に変えてしまう政変に自分が出来る事など何も無いとずっとあきらめていた。自分が何を言ってもやっても変わりはしない。そう、後ろ向きだとしても、信じてきた。
でも、元教え子の命は救えたかも知れない。コロナ禍への対応は忠臣組の世の中になってずっと真剣なものになったのが、彼にとっては仇になった形で、自分には何も出来なかったといえばそうかも知れなくても。
自分には、本当に、何も出来ないのだろうか。何を言っても、何をしても、何も変わらないのだろうか?
そんな事が気にかかって、その日からなかなか寝付けない夜が続いたのだった。




