第5話
今回は今までの4話よりも少し長めで傾向が違います。
会話がほとんどなく、もしかしたら読みにくいかもしれませんが、自分的には気に入っている話なので読んでいただけると嬉しいです。
夜にしか咲かない花がある。真っ暗闇にだけ咲く魅惑の花。暗ければ暗いほど美しく扇情的にそして華やかに色香漂う。それは人を喰らう花。時に牡丹のように、時に水仙のように、それは見目形を変え人を魅了する。そんな華に魅せられて今宵もまたひとりの哀れな雄が光を求めやって来る。
「どうした」
閨があけ、上等の羽織を肩にかけた旦那は、どこかぼぉっとした遊女に声をかけた。
男に尋ねられた遊女は目を細め、どこか遠くを見、玉虫色に染まった唇を動かした。
「懐かしい夢を、見んした・・・・・・」
昔、初めてここに来た時の夢を・・・
まだ十だったわっちは、見も知らぬ男に手を引かれ、廓にやってきた。
その時のわっちは阿呆だったから、きらきらと輝くこの遊郭に心を躍らせた。見たこともない華やかな着物に身をつつみ、真っ赤な紅をつけた『姐さん』方はほんに綺麗で、天女でも見ているのではないかと勘違いを起こしたほどだった。目の覚めるような紅や蒼や金の帯を垂らした姿はまるで金魚のようで、ひらひらと尻尾を揺らして歩く姿に目を奪われた。
まるで桃源郷のようなここで、きれいな姐さん方の世話をすれば白い飯が食えると聞いて、自分が天女の遣いになったかのような錯覚を起こしたのだった。
姐さん方の男を惑わす姿は孔雀のように艶やかで、伽羅のほんのりとしたかおりが鼻をかすめる度に自分もこんな風になれるのだと、嬉しくて堪らなかった。
桃源郷に来てしばらく経ったある日、床についていたとき急に恋しさを募らせたわっちは姐さんを探した。いつも傍にいてくれる姐さんは夜だけは傍にいてくれなかったから一人で過ごす夜を余計に寂しく思った。なぜ夜は傍にいてくれないのか不思議に思いながらもそれは聞いてはいけないと、そう思った。けれどどうしてもその日は一人では過ごせなかった。
だから姐さんの部屋に向かった。
姐さんを一目見れば安心してまた床につけると思った。
姐さんの部屋についた時、まだ明りがついていることにほっとしたわっちは襖を開けようとしたが、中はしんと静まり返っていたから、姐さんが明りをつけたまま寝ていると思った。
大好きな姐さんには少しでも休んでほしかったから、もしも本当に寝ているのならば、声はかけずに姐さんの影だけでも見て部屋に戻ろうと思っていた。だから姐さんを起こさないようにそぉっと襖を開けた。
するとむわっとした空気が顔をかすめた。
汗のにおいと生臭いにおいが鼻をツンと刺激し、息をするのも苦しいと感じた。
姐さんが死んでいるのではないかと、妙に怖くなったわっちは姐さんを呼ぶために声を出そうとしたが、出すことができなかった。
そこにいたのは姐さんであって姐さんでなかった。
いつも綺麗に着こなしている姐さんの着物がぐちゃぐちゃに着崩れ、今朝方、綺麗に結った髪はまるで妖かと思えるくらいひどく乱れている。そしてその姐さんを醜く太った男が押しつぶしている姿はまるで豚のようで吐き気がした。荒々しい息が姐さんに降りかかる度に醜い雄を殺めたい気持ちになった。綺麗な姐さんを、わっちの姐さんを汚す雄をこの小さな手で引き裂いてしまいたかった。
そう思った瞬間、わっちは自分の頭にささる簪を手にとっていた。そして自分の体が滑り込めるくらい襖をそっと開け、醜く揺らめく脂肪を刺す己の姿を想像した。ぎらぎらとぎとついた浅黒い肉に紅い玉のついた簪がささる、人とも豚ともとれないような声を発して畳を転がる家畜、そう考えるだけで楽しくて仕方がなかった。姐さんをあの雄から助ける、その思いだけで息を殺した。
するとわっちに気づいた姐さんは、わっちに目をやったまま自分の下腹にくらいつく男の頭を押さえ、わっちに向かってニィっと笑った。
玉虫色に染まった唇が自分に笑いかけた時、嬉しさと恐ろしさがわっちの背筋をかけのぼった。
玉虫色の紅をつける姐さんはとても妖艶で美しかった。けれど姐さんは玉虫色がこの世で一番嫌いだった。玉虫は殺めたいほどにとても醜いから。だからわっちは姐さんがその醜い雄を殺めたいほどに嫌っているということを悟って、ほんに嬉しかった。
その時の姐さんとわっちはまるで一つの生き物になったかのようだった。
姐さんはわっちの眼をまるで捕食者のように捕え続けた。
そして男の頭を押さえたまま、白く細い人差し指をそっと自分の唇に寄せて微笑んだ。だからわっちも玉簪を汗の残る手に握りしめたまま姐さんに笑った。
姐さんとわっちがそんな秘密のやり取りをしているなど全く気が付いていない男は荒い鼻息を吐きながら姐さんの躰を撫でまわした。無遠慮に姐さんの躰に手をやる男は腹立たしかったが、姐さんはわっちに向かっていつもの優しい笑みを向けていたから、男を殺そうなどという思いはもう抱いてはいなかった。
わっちは男が姉さんに何をしているのかが分からなかったけれど、とても醜く、おぞましい行為を行っていることは分かったからそのまま姉さんと男を見続けた。
あんなにも恐ろしくて、どす黒くて、醜い大きな『モノ』が姐さんの躰を貫くのはほんに悔しく、吐き気がした。
男が獣のように唸り声をあげ、姐さんの躰の上を激しく動く様子をわっちが見るのを姐さんは咎めはしなかったし、むしろ舞台でも見せているかのようにわっちのために艶やかに動きつづけた。
そんな姐さんはこの世の何よりも美しかった。
男が帰ったあと、わっちは姉さんの傍を離れなかった。そんなわっちに姐さんはすべてを教えてくれた。躰を売り、身を削って生きていくしか道がないということを。
そこで初めてわっちは自分が親に売られたということに気がついた。
今の今までそんなことに気がつかなかった自分はなんて馬鹿だろうと、自分で自分を罵りたくもなったが、ただ純粋にわっちが親に売られたことに気付かせなかった姐さんに対して尊敬の念を抱いたのも本当だ。
あの日、自分を『桃源郷』に連れてきた見も知らぬ男は女衒だということを知った。
親に対して特別な感情を抱いているわけではなかったが、それでも心がきゅっとしまる思いがした。
ああ、自分は金で買われたのかと。
はした金を手に喜ぶ親の顔が浮かんだ。自分たちが生きるために娘を売るのはなんら珍しいことではなかったけれど、それでも自分が金で取引されたと分かった途端、反吐がでた。
けれど、そのおかげで姐さんに会えたから良かったともいえるかもしれない。
これから先、同じように金で自分を売らなければならないと思うといささか奇妙な気持ちがした。
そんなわっちを姐さんは抱きしめて、廓で生きていくための方法を教えてくれた。
姐さんは温かく、柔らかく、とても良い匂いがした。
それからというもの、わっちは姐さんが男に買われる姿をあの日のように、襖の隙間から見続けた。
ああ、姐さんが男に買われるという表現は間違っているから訂正しなければいけない。
『姐さん』が男を『買って』いるのだ。
金子を払うのは男だからその表現は違うと皆は言うかもしれないが、それでもわっちにとっては間違いなく姐さんが男を買っていた。
姐さんはすべての技をわっちに教えてくれた。決して言葉では説明はしてくれなかったけれど、姐さんが男の躰の下で喘ぎ、動めき、時には上に乗り、甘い声を漏らす姿を見るだけで十分だった。
わっちは姐さんのすべてを体に沁み込ませるため、毎日毎日姐さんを見続け、そして気がついた。
はじめてやってきたときに見た桃源郷は地獄だということを。
いくら着飾ろうと、男たちに愛されようと、しょせん遊女は商売道具でしかなかった。
休みなど数えるほどもなく、食事も粗末なものが出るだけ。
いいものを食べたければ、懸命に働いて客からお捻りをもらい、その金で自前の食べ物を買ったり、見世にあげた客に台の物をとらせご相伴にあずかるしかなかった。
この地獄のような場所を出るには『年明き』『身請け』『死』しか選択肢はなく、どれをとってもここを抜け出すにはまるで蜘蛛の糸を辿って天に昇るかのようなものだった。
それでもわっちは姐さんように男を買う女郎になりたかった。自分の親のように金で自分を売るのではなく、男の払う金で男を買う、そんな姐さんのような女郎になりたかった。
見世に出れば、光に集まる蛾のように姐さんに吸い寄せられる雄はとても滑稽で、甘い蜜も、巣も何一つ姐さんは与えていないのに、まるで自分が姐さんの一番かのように振舞う男たちはほんに可笑しかった。
そんな男たちをわっちと姐さんは陰で笑いあった。
男の前では滅多なことでは笑わない姐さんは、わっちといる時は大きな口を開けて笑うし、優しく、そしてなにより温かく、柔らかだった。
『男の前では、傀儡でありなんし』
姐さんはいつもそう言っていた。笑うてもダメ、泣いてもダメ
ただ無であれと。
笑うのではない、嗤うのだ、
泣くのではない、啼くのだ、と。
男が求める仕草と表情と、手練手管を操り、男を惑わせろと。
姐さんはまるで親のようにわっちの世話をやいてくれたものだった。といっても直接、諫言をくれたのは後にも先にもそれだけだったけれど。それでもわっちにとっては十分だったし、姐さんもわっちにはそれで十分だと分かっていたのだろう。
けれど、そんな姐さんもさすがに病を手練手管で操ることはできなかったようで、その時流行っていたコロリであっけなく死んでしまった。
あんなにも綺麗で優しくて温かい姐さんは、死ぬ前にはまるで干からびたにしめ牛蒡のように黒く、しわくちゃだった。
廓の誰もがあんなにも姐さんを持ち上げていたのに、コロリだと分かった途端に、皆姐さんを汚いものを見るかのように手で追い払った。
その時わっちは将来売れっ妓となることを約束された引込となっていたから、遣り手に姐さんに近づくことを禁じられた。
皮肉だった。
わっちを育ててくれたのは姐さんなのに、その姐さんに会うことすら許されない。
けれどもわっちは暇があれば、人目を忍んで姐さんの所へと足を通わせた。
姐さんに近づくことは姐さんが許さなかったから、格子の隙間から覗くだけだったけれど。
姐さんは小屋と呼ぶにも粗末な部屋に閉じ込められ、昼夜苦しんで死んでいった。
三日前までは水の中を泳ぐ金魚のようにひらひらと廓を舞っていた姐さんは、まるで老婆のようになり果てて、死んだ。
それでもわっちにとって姐さんはこの世で美しいことに違いなかった。
死ぬ間際でも泣くことなく、恨みつらみ一つはかず、静かに息を引き取った姐さんは、とても気高く、美しかった。
『男の、前では、傀、儡、であり、なん、し』
掠れる声で囁いて、最期に残した言葉は、唯一わっちに諫言してくれたあの言葉だった。
『男、のまえでは、かい、らいで・・・、あ、りなん、し』
『あい、・・・あい、姐さん、』
わっちの返事を聞いた姐さんは、最期に笑みを浮かべて息を引き取った。
その笑みはとても笑みと言えたものではなかったけれど、それでもわっちにとっては菩薩にも負けないくらいの優しい笑みだった。
橙色に光る灯りがぽぉっと頬を照らし、遊女はハッと目の前で片肘をつく男を見た。
幸せそうに遊女の胸元を弄る姿があの日の男と重なる。
見目も形もすべて違うけれど、それでも根にあるものはあの男と同じだった。
あの日、姐さんの躰を押しつぶしていたあの醜い雄と。
そんな男を遊女は微笑を浮かべて見つめる。
ああ、姐さん。わっちはちゃんと傀儡になれているでありんすか。
姐さんのように気高い傀儡に、なれているでありんすか。
『まだまだ、なんしなぁ・・・』
姐さんの笑う声が耳を掠めた。
「ふふ、あい、姐さん」
遊女は玉虫色の唇を襖に向けてニッと笑った。
「ん?どうかしたかい?」
「いいえ、なぁんにもありんせん。さぁ、旦那わっちに教えておくれなんし。この世の極楽を」
男は満足気に咽喉を鳴らし、遊女を組みしだく。
遊女は喘ぐ男の頭を下腹部に押しやり、ほんの少し開いた襖の向こうに人差し指をあてた唇の端を上げる。
あの時の簪は、今でもあの襖の向こうで小さな掌に包まれてぎらついている。
そして私は囁く。
『男の前では傀儡でありなんし』
一話一話読み切りでの短編として考えていた作品なので、どうなったら完結とかはないのですが、今出来上がっているお話がここまでです、書きたい時に思い付いたまま書きなぐるといった気まぐれ作品のため、いつ更新できるか分かりません。
一応、遊女の過去的なものということでこれで完結とさせていただきますが、また思い付いたら載せていくので、その時にまた見ていただけると嬉しいです。




