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第8話:最初の共謀

夜風が、真夏の湿った熱気をわずかに冷ましていた。


真壁家の玄関を音もなくすり抜け、最寄り駅へ続く街灯のまばらな歩道を早足で歩く。

背後にあるあの家では、今頃、父と母が高級寿司の折詰を囲みながら、手に入った大金の使い道について浅ましい皮算用を繰り広げているはずだ。妹の莉乃は、自分の部屋で鏡を見つめながら、これから手に入るであろう名声とチヤホヤされる未来に陶酔しきっていることだろう。


あの狂乱の家から一歩外に出るだけで、肺を満たす空気が澄んでいくように感じられた。

手提げ鞄の底には、重みのある長方形の金属塊――私がこれまでの数ヶ月間、毎朝毎晩のすべての制作工程を記録し続けてきた、外付けハードディスクが収められている。

私の血と汗と、そして二周目の冷徹な憎悪が凝縮された、破滅の種子。


繁華街のネオンを抜け、レンガ敷きの静まり返った路地裏へと滑り込む。

真鍮の小さなプレート――『Noir』。

深夜のこの時間、表の喫茶営業はとうに終わり、厚手の遮光カーテンの隙間からわずかに漏れ出す琥珀色の明かりが、会員制バーとしての静謐な営業を告げていた。


勝手口の重い鉄の扉に手をかけ、事前に渡されていた合鍵を差し込む。

カチャリと小さな解錠音が響き、中へと足を踏み入れた。


「……来たか」


カウンターの奥から、聞き慣れた低くハスキーな声が迎えてくれた。

黒木蓮。

バーテンダーベストを脱ぎ、黒いシルクの開襟シャツの胸元をわずかに寛げた彼は、氷の入ったロックグラスを指先で弄びながら、気だるげに私を見遣った。

だが、その鋭い黒い瞳は、私の足取りや顔色を一瞬でスキャンするように走る。


「顔色が悪いな。あいつらの喚き声に当てられたか?」


「いえ……少し、神経を張り詰めていただけです」


「強がるな。ほら、奥へ入れ。連れを紹介する」


蓮が顎で示したのは、カウンターのさらに奥、普段は施錠されている重厚な防音扉の先だった。

そこは、アンティーク家具の修繕工房とは別に設けられた、蓮のプライベートオフィス兼セーフルーム。

扉を開けると、芳醇な珈琲の香りと共に、青白い光を放つ何台ものマルチモニターと、整然と並ぶラックサーバーのファンが立てる微かな電子音が耳を打った。


そして、部屋の中央に置かれた革張りのアームチェアに、足を組んで深々と腰掛けている一人の青年がいた。


「へえ……。君が、蓮が珍しく囲い込んでるっていう『いわくつきのお嬢さん』か」


クルリと椅子を回転させてこちらを向いたのは、細身の体躯にアイアングレーのノーカラージャケットを羽織った、知性的な風貌の青年だった。

銀縁の眼鏡の奥で、細められた琥珀色の瞳が好奇心に細まる。無造作に伸ばされた前髪の隙間から覗くその眼光は、極めて理知的で、同時にどこか世の中のすべてを斜めから観察しているような皮肉屋の光を湛えていた。


「佐久間湊(さくま みなと)だ」

蓮が私の背後に立ち、短く紹介した。

「俺の古い腐れ縁でね。表向きは新進気鋭のデジタルアートディレクター兼映像作家。……裏の顔は、企業の不正アクセス調査やサイバーフォレンジックを請け負う、情報解析のエキスパートだ」


「エキスパートだなんて、買い被りすぎだよ蓮。僕はただ、嘘つきがネットの海に残した足跡を辿って、首根っこを掴むのが趣味なだけのしがない技術屋さ」


佐久間と名乗った青年は、薄い唇の端を吊り上げて立ち上がると、私に向かって軽く片手を上げた。


「はじめまして、真壁栞ちゃん。話は蓮から大体聞いてるよ。なんでも、妹に自分の手柄も婚約者も全部譲って、豚みたいに太らせてから屠殺場へ叩き落とす計画なんだって? 最高に趣味が悪いね。……もちろん、大好物だけど」


佐久間の歯に衣着せぬ物言いに、私は怯むことなく、静かに頭を下げた。


「はじめまして、佐久間様。真壁栞と申します。夜分遅くにお時間をいただき、ありがとうございます」


「敬語も『様』付けもいらないよ。僕たちは対等な共犯者なんだからさ。……で? 早速だけど、例の『ブツ』を見せてもらおうか。君がこれまで積み上げてきたっていう、虚飾の妹さんの裏付けデータをね」


私は頷き、手提げ鞄から黒いハードディスクを取り出し、佐久間のデスクの上に置いた。


佐久間は眼鏡を押し上げ、手慣れた所作で自身のハイスペックな端末にケーブルを接続する。

キーボードが軽快なリズムを刻み、モニターの上に無数のフォルダツリーが展開された。


その瞬間――。


佐久間のキーボードを叩く指が、ピタリと止まった。


「……は?」


部屋の空気が、一変した。

佐久間の喉から、間抜けな声が漏れた。

彼はディスプレイに顔を近づけ、マウスホイールを猛烈な勢いでスクロールさせ始めた。


「ちょ、ちょっと待って……これ、何テラバイトあるんだ……? おい、蓮、これ見ろよ」


蓮もまた眉を寄せ、佐久間の背後に回ってモニターを覗き込んだ。


モニターに映し出されていたのは、狂気的なまでに整理された、膨大なデジタルアーカイブだった。

アカウント『Rino_Life』が開設された初日から現在に至るまで、投稿されたすべての料理、手芸品、インテリアの記録。


単なる写真ではない。

カメラのRAWデータ(未加工の生データ)はもちろんのこと、料理の仕込み段階――野菜を刻む手元、フライパンの火加減、ソースの調合比率を記した手書きのレシピノートのスキャン。

さらには、撮影前に私が描いたミリ単位の構図設計スケッチ、自然光の入射角とレフ板の配置を記した照明プランシート。

そして、それらすべてのファイルに、撮影機材の固有シリアルナンバー、撮影秒数までの正確なタイムスタンプ、自宅キッチンの緯度経度を示すGPSログが、一分の狂いもなく埋め込まれていた。


「……おいおいおい、冗談だろ……?」


佐久間が椅子の背もたれに倒れ込み、両手で頭を抱えた。

その瞳には、呆れを通り越した、純粋な戦慄と感嘆が渦巻いていた。


「これ……本当に君が一人で作ったのか? 撮影準備からレシピ開発、構図設計、カラーグレーディング(色彩補正)のプリセット構築まで……全部一人で?」


「はい。妹が起きてくる前に、すべて私が準備しておりましたので」


「信じられないな……」

佐久間は震える指先でモニターを指差した。


「これだけで、プロの映像制作会社が一本丸ごと立ち上げられるレベルの資産だよ。大手の広告代理店のクリエイティブディレクターだって、ここまで完璧な制作管理台帳は作れない。……何より恐ろしいのは、君の徹底ぶりだ。普通、素人がこういう記録を残す時って、せいぜいスマホの動画を撮るくらいなんだよ。でも君は、機材のメタデータからカラープロファイルまで、最初から『法的な著作権係争』を見越して、改ざん不能な証拠として残してる」


佐久間は眼鏡を外し、私をじっと見つめ直した。その眼差しには、先ほどまでのからかいの色は微塵も残っていなかった。


「真壁栞ちゃん……君、本当に十八歳か? まるで、一度法廷で証拠不十分で負けた人間が、二度目は絶対に負けないように完璧な罠を張ったみたいじゃないか」


心臓が、鋭く跳ねた。

鋭い。この男もまた、蓮と同じように、常人とは隔絶された知性と観察眼を持っている。

一度殺されたからこそ、二度目は一片の言い逃れも許さない。その私の執念の深さを、佐久間はデータを通じて正確に読み取っていた。


「……私のすべてを、奪われたくなかっただけです」

私は短く、それだけを答えた。


佐久間は数秒間、私の顔を見つめていたが、やがて口元を緩め、楽しげに笑い声を漏らした。


「気に入った。最高だよ、君。この依頼、喜んで引き受けさせてもらう」


佐久間は再び眼鏡をかけ、猛スピードでキーボードを叩き始めた。


「さて、それじゃあ僕の仕事に入ろうか。君が集めたこの完璧な素材を、誰にも手出しできない『神の領域』へ避難させる作業だ」


「避難、ですか?」


「そう。今の時代、いくら手元にハードディスクがあっても、相手側が『姉が妹の端末からデータを盗んで捏造した』と主張してきたり、警察や悪徳弁護士を使って押収されたりしたら面倒だからね。だから、この全データを『改ざん不可能な公証データ』に変える」


佐久間の画面上で、複雑なコマンドラインが走り出した。


「まず、すべてのファイルに対して暗号学的ハッシュ値(SHA―256)を生成する。このハッシュ値っていうのは、データの電子的な指紋みたいなものだ。一文字でも、一ピクセルでも改ざんされたら値が変わる。

そして、そのハッシュ値を含めたアーカイブを、僕が管理しているスイス、アイスランド、エストニアの三カ国のセキュアなプライベートクラウドサーバーへ、暗号化して分散バックアップする」


画面上に、緑色のプログレスバーが次々と伸びていく。


「さらに、信頼できるタイムスタンプ局(TSA)の電子署名を付与する。これで、『このデータは、〇年〇月〇日〇時〇分の時点で、真壁栞の管理下で確実に存在し、以降一切の変更が加えられていない』という事実が、国際的な司法機関においても百パーセント法的に証明される。……これで完璧だ。妹さんが将来どれだけ喚こうが、どんな敏腕弁護士を雇おうが、法的に『真の創作者』が君であるという真実は、神様だって覆せない」


淡々と、しかし恐ろしいほどの精度で組み上げられていく、デジタルの防壁。

私の復讐計画の、最も脆い部分――「悪役側からの逆ギレや証拠隠滅」に対する絶対的な盾が、今、完璧に完成したのだ。


画面に映る無数のコードを見つめながら、私は張り詰めていた肩の力を、微かに緩めた。

安堵の息が漏れそうになった、その時――。


視界が、ふっと揺れた。


「……っ」


立ちくらみ。

ここ数ヶ月、朝四時起きの仕込みと、昼間の『Noir』での勤務、深夜の通信講座の勉強、そして実家での神経を削るような心理戦。

張り詰めていた緊張の糸が、安全な場所に辿り着いたことで一瞬だけ緩み、蓄積されていた過労が津波のように押し寄せてきたのだ。


膝が折れそうになり、デスクの端に手を伸ばした瞬間。


ぐっと、強い力で肩を抱き寄せられた。


「おっと……危ないな」


低く、落ち着いた声。

鼻腔をくすぐる、ビターな煙草と白檀のインセンスの香り。

倒れ込みそうになった私の体を、蓮が片腕で軽々と支えていた。

彼の胸板の硬さと、シャツ越しに伝わってくる高い体温が、私の冷え切った意識を急速に現実へと引き戻す。


「……すみません、黒木さん。少し、眩暈がしただけで――」


「黙れ」


蓮の声は低く、容赦がなかった。

彼は私をデスクから引き離すと、部屋の隅にある革張りの三人掛けソファへと半ば強引に座らせた。


「佐久間、作業は一人でできるな」


「もちろん。あとは自動スクリプトが回るだけだから、放置で大丈夫だよ。……蓮、あんまりいじめてやるなよ?」

佐久間がニヤリと笑い、モニターに向き直る。


蓮はため息をつきながらオフィスのミニキッチンへ向かうと、マグカップを一つ手に取り、湯を沸かし始めた。

カチャカチャとスプーンが触れ合う音が響き、やがて甘く濃厚な香りが部屋に満ちる。


「ほら。両手で持て」


目の前に差し出されたのは、湯気を立てる大きなマグカップだった。

中には、表面にきめ細かな泡が浮かぶ、濃いココア。


「……ありがとうございます」


私が受け取ると、蓮は私の隣、ソファのすぐ隣に腰を下ろした。

沈み込む革の感触。彼の肩が、私の肩とわずかに触れ合う。

マグカップを両手で包み込むと、陶器の温もりが、冷え切っていた私の指先へじんわりと染み渡っていった。


一口、口に含む。

舌の上に広がる、深いカカオの苦味と、濃厚なミルクの甘み。隠し味に加えられた微量のシナモンが、強張っていた喉の奥を柔らかく解きほぐしていく。


「……美味しいです」


思わず零れた本音に、蓮はフンと鼻を鳴らした。


「当たり前だ。うちのバーで出してる最高級のヴァンホーテンだからな。……お前、昨日から何食った?」


「え……朝は、フレンチトーストの味見を少し。昼は、お店の賄いのサンドイッチを……」


「夜は?」


「……」


答えに詰まる私を見て、蓮はあからさまに不機嫌そうに眉を寄せた。


「食ってないな。あいつらの前で毒見役を演じるのに夢中で、自分の胃袋に飯を入れることすら忘れてたわけだ」


蓮は長い脚を組み、私の顔を横からじっと見下ろした。

その瞳には、隠しきれない苛立ちと――それ以上に、胸を抉るような熱い感情が宿っていた。


「言ったはずだぞ、栞。勝手に壊れるな、と」


「……壊れてなど、いません。計画はすべて順調です。口座の分離も、データの保全も、すべて予定通りに――」


「計画の話なんかしてない」


蓮の手が伸びてきて、私のカップを持つ両手を、上から包み込んだ。

無骨で、大きくて、驚くほど温かい手。

その熱が、私の冷えた皮膚を通して、心臓の奥底まで直接届くようだった。


「あいつらに全部くれてやるのはいい。復讐のために罠を仕掛けるのも勝手にしろ。だがな……その代償にお前自身の命を削るな」


蓮の声が、低く掠れた。


「お前があいつらを地獄に叩き落とした後、抜け殻になって倒れてたら……俺が一番つまらないんだよ。俺はお前が、あいつらの破滅を特等席で見下ろして、その後に笑う顔が見たいんだ。……分かるか?」


不器用で、乱暴で、けれど底なしに真っ直ぐな執着。


家族の誰一人として、私に向けてくれなかった眼差し。

『もっと働きなさい』『もっと我慢しなさい』『莉乃のために尽くしなさい』。

そうやって私の体と心をすり減らすことしか要求しなかった世界の中で――この男だけが、私の生存を、私の幸福を、誰よりも傲慢に要求してくる。


胸の奥底で、氷漬けになっていた何かが、ピシリと音を立てて罅割れた。

目頭が熱くなり、視界が滲みそうになるのを、私は必死に堪えた。

ここで泣いてしまっては、復讐者としての仮面が剥がれてしまう。


「……狡い人ですね、黒木さんは」

私はカップを見つめたまま、震える声を絞り出した。


「何がだ」


「そんな風に言われたら……私、死ぬこともできなくなってしまうじゃないですか」


蓮は一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。

そして、フッと口元を緩めると、私の頭の上にポンと大きな手を置いた。乱暴に、けれど慈しむように、私の髪をくしゃりと撫でる。


「死なせるかよ。俺が許さない」


その言葉の重みに、私は静かに目を閉じた。

温かいココアの熱が、私の五臓六腑を満たしていく。

この温もりがある限り、私は二度と、あの冷たい石畳の上で絶望に呑まれることはない。確信が、魂の芯に根を張った。


カタカタカタ、ッターン!


部屋の向こうで、派手なエンターキーの打鍵音が鳴り響いた。


「はい、お取り込み中失礼! 完璧に完了したよ!」


佐久間が椅子を回転させ、両手を広げて満面の笑みを浮かべた。

モニターには、世界地図を模したグラフィックの上で、三つの拠点が緑色のラインで強固に結ばれた画面が表示されていた。


【暗号化分散バックアップ:正常終了】

【タイムスタンプ認証:完了】

【アクセス権限:真壁栞・生体認証キー設定完了】


佐久間は眼鏡のブリッジを押し上げ、私と蓮に向かって不敵に笑ってみせた。


「準備は完全に整ったよ、栞ちゃん。これで、妹さんがどれだけ喚こうが、法的に『真の創作者』が君である証拠は絶対に消せない。……いつでも引き金を引けるよ」


私は蓮の手からそっと離れ、カップを置いて立ち上がった。

背筋を伸ばし、佐久間へ、そして蓮へと向き直る。

私の瞳からは、先ほどの迷いも脆さも完全に消え去っていた。


宿るのは、氷の炎。

自らの手で未来を切り拓く者だけの、研ぎ澄まされた光。


「ありがとうございます、佐久間さん。黒木さん」


私は深く、完璧な角度で頭を下げた。


「これで、最初の布石はすべて打ち終えました。……ここからは、あの子が自ら首を絞めるのを、ただ見守るだけです」


虚栄という名の豚は、今や丸々と肥え太り、自ら処刑台への階段を登り始めている。

だが、その滑稽な舞台に――まもなく、思いがけない「ノイズ」が紛れ込もうとしていた。

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