第7話:毒親の集金マシン
八月に入ると、猛烈な熱気がアスファルトを焼き焦がし、生温い風が真壁家の古い木造家屋を包み込んでいた。
だが、家の中を支配していた熱気は、夏の気温によるものなどでは断じてなかった。
それは、突然転がり込んできた大金に理性を狂わされた者たちが放つ、濁った欲望の熱狂だった。
カタカタと、リビングの安物のガラステーブルの上で電卓の叩かれる音が鳴り響く。
「……二十五万、四十万、これと合わせたら……今月だけで、六十五万円よ! 信じられる!? お父さんの手取りの二倍以上じゃないの!」
母・恵津子が引き攣ったような歓声を上げ、紙の束を胸に抱きしめてソファの上で身悶えた。
テーブルの上に散乱しているのは、大手食品メーカーとの公式アンバサダー契約を皮切りに、雪崩のように舞い込んできた中小コスメブランド、サプリメント会社、アパレル通販サイトからの案件発注書や請求書の控えだった。
フォロワー十万人を突破したアカウント『Rino_Life』の勢いは、止まることを知らなかった。
私が計算し尽くして投稿し続ける「丁寧な暮らし」と、それに相反するような莉乃の愛らしいビジュアル。
企業にとって、これほど費用対効果の高い広告塔は存在しなかったのだ。
コスメを一本紹介すれば十万円。
エプロンを着用して指定のハッシュタグをつければ十五万円。
そしてアンバサダーの基本契約料として、毎月決まった大金が振り込まれる。
「ねえ、お母さん! 今度の週末、銀座のデパート連れてってよ! この前雑誌で見た新作のジュエリー、どうしても欲しいの!」
ソファにだらしなく寝そべり、ペディキュアを乾かしながら莉乃が甘ったるい声を上げた。
その指先には、すでに先週買い与えられたばかりのハイブランドのリングが複数、これ見よがしに嵌められている。
「いいわよ、もちろんよ莉乃ちゃん! あんたは真壁家の大スターなんだから、それくらい身につけてないと箔がつかないわ! あらいやだ、近所の山下さんにも見せつけてやりたいわねぇ。『うちの莉乃がね、企業から頼まれてモデルをしていて、お小遣いに買ってくれたのよ』って言ってやるの!」
恵津子は下品に口元を歪め、自分の娘をまるで打ち出の小槌のように愛おしそうに見つめていた。
かつて「長女は高卒で働かせて、次女には名門大の看板を」と浅ましい計算を巡らせていた毒母は、今や莉乃が運んでくる札束の匂いに完全に脳を焼かれ、狂乱の拝金主義者へと成り果てていた。
そこへ、残業を終えた父・宗治が、くたびれたビジネスバッグを提げて帰宅した。
玄関の靴を脱ぎ、リビングに入ってきた宗治は、テーブルの上に散らばる書類と札束のメモを見るなり、眼鏡を押し上げて目を丸くした。
「おい、恵津子……これは本当なのか? 本当に、こんな大金が振り込まれるのか?」
「何を寝ぼけたこと言ってるのよ、お父さん!」
恵津子は立ち上がり、宗治の胸元に請求書の束を突きつけた。
「莉乃の才能を、天下の大企業が認めたのよ! あんたが毎日ペコペコ頭を下げて稼いでくる安月給とは格が違うの! これであんたの小遣いも増やしてあげられるし、真壁家はもう将来安泰よ!」
「お、おお……そうか! 莉乃、本当に偉いな! 課の同僚たちにも自慢してやったんだ。『うちの娘は学生の身でありながら、大企業から引っ張りだこなんだ』とな!」
宗治の顔に、下品な笑みが張り付く。
家庭内の理不尽には一切口を挟まず、不都合な現実からは常に目を背けてきた事なかれ主義の父親。
だが、その実態は、努力もせず他人の褌で相撲を取り、見栄を満たすことしか頭にない、母と同類の人種だった。
彼にとって、娘がどうやってその成果を出しているかなど、どうでもよかったのだ。自分の口座に金が入り、会社で自慢できるネタになりさえすれば、すべてが正義だった。
「――それでね、栞」
不意に、恵津子の視線が私へと向けられた。
その声のトーンは、莉乃に向ける猫撫で声とは打って変わり、冷酷で居丈高な、底辺の召使いを見下すそれに急変していた。
キッチンのシンクで、夕食用の食器を洗っていた私は、泡だらけの手を止めて静かに振り返った。
「何でしょうか、お母さん」
恵津子は腕を組み、顎をしゃくって私を値踏みするように見つめた。
「あんた、莉乃のマネージャーとして、これまで以上に身を粉にして働きなさい。朝の撮影の仕込みはもちろん、企業から送られてくる商品の受け取り、梱包、莉乃の着る服のアイロンがけ、部屋の掃除……全部あんたの責任よ。莉乃ちゃんは肌が命なんだから、家事なんかで指先を荒れさせるわけにはいかないの」
「……はい、承知しております」
「それとね」
恵津子は財布から、くしゃくしゃになった千円札を三枚、テーブルの上に放り投げた。
「これ、今月のお小遣いよ。三万円あげる予定だったけど、あんたは実家にタダで住まわせてもらって、ご飯も食べてるんだから、手元に現金をたくさん持たせるのは教育上よくないわ。三千円で十分でしょう? 感謝しなさいよね。高卒で家にいるだけのあんたに、こんなお恵みをくれる親なんて他にいないんだから」
三千円。
月数十万円の利益を、私の血の滲むような労働と技術で叩き出しておきながら、その対価として投げつけられたのは、雀の涙以下の端金だった。
一周目の私なら、この屈辱に唇を噛み締め、涙を流して『そんなのあんまりです!』と訴えていただろう。
そしてその反論は、毒親たちによって『親の恩を忘れた強欲な娘』というレッテルを貼られ、さらなる精神的虐待の口実に使われたはずだ。
だが、今の私にとっては――これ以上ないほど都合の良い展開だった。
(ええ、それでいいわ。もっと私からお金を取り上げなさい。もっと私を無一文にして、蚊帳の外へ追い出しなさい)
胸の奥で、冷徹な方程式が音もなく組み上がっていく。
私は顔を伏せ、心底申し訳なさそうに、そして従順そのものの仕草で深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、お母さん。私のような無能な娘に、そんなお心遣いをいただけるなんて……身に余る光栄です」
「ふん、分かればいいのよ。少しは分を弁えるようになったじゃない」
恵津子は満足そうに鼻を鳴らした。
私は顔を上げ、ごく自然な、純粋な疑問を装って言葉を紡ぎ出した。
それは、真壁家という名の泥舟を、二度と浮上できない深海へと沈めるための、決定的な一撃だった。
「……あの、お母さん。少しだけ、ご相談があるのですが」
「何よ、藪から棒に」
「企業様との今後の契約についてです」
私はキッチンのタオルで手を拭き、テーブルの前に歩み寄った。
「これから企業案件が増えるにあたって、契約書の取り交わしや、報酬のお振込み口座の指定が必要になりますよね。……私は高卒で世間知らずですし、あくまで妹の裏方に過ぎません。そんな私が契約書に名前を書いたり、私の口座を経由したりしたら、企業様から『このアカウントは誰が運営しているのか』と不審に思われてしまうかもしれません」
恵津子と宗治が、ピクリと眉を動かした。
「ですから……企業様とのすべての契約名義、そして報酬が振り込まれる銀行口座は、すべて莉乃ちゃんと、真壁家の世帯主であるお父様の名義に統一していただいた方がよろしいかと思うのです」
二人の瞳に、あからさまな強欲の炎が燃え上がった。
「その方が、税金や確定申告の管理もしやすいですし、何より、お父様とお母様が直接すべてのお金を管理できた方が、安心でしょう? 私は家事とマネージャー業務に専念いたしますので、お金の管理には一切関わりたくないのです」
完璧な論理武装。
一切の私利私欲を放棄し、親を立て、富の全権を両親に差し出すという、毒親にとってこの上なく甘美な提案。
恵津子の顔が、ぱあっと明るくなった。
「まあ……! 栞、あんた、たまには気の利いたことを言うじゃないの!」
宗治もまた、身を乗り出して頷いた。
「うむ、その通りだ! 世帯主である私の名義にしておけば、対外的にも信用がある! 会社の給与口座とは別に、私名義の新しい口座を開設して、そこに莉乃の売上をすべてプールすればいいんだな!」
「そうよ、お父さん! そうすれば、栞に変な欲を出される心配もないし、私たちが自由にお金を使えるわ!」
二人は手を取り合って歓喜した。
莉乃もまた、「パパの名義なら安心〜! お小遣いいっぱい頂戴ね!」と無邪気に笑っている。
誰一人として、気づいていなかった。
日本の税制と法律というものが、いかに冷酷で、いかに逃げ場のないものであるかを。
(本当に、哀れな人たち)
私は二人の歓喜を冷ややかな目で見つめ、心の中で完璧な計算を完了させていた。
通信講座で学んだ簿記と税務の実務知識。
インフルエンサーの売上は、税法上、明確な『事業所得』または『雑所得』に分類される。
企業から支払われる報酬は、源泉徴収されているものもあれば、満額がそのまま振り込まれるものも多い。
そして、年間の売上が数百万円、数千万円に達した場合、そこには莫大な『所得税』『住民税』『個人事業税』が発生する。
さらに、彼らが手を出そうとしているステマ(ステルスマーケティング)や、誇大広告、薬機法違反のリスク。
もしトラブルが発生し、企業側から契約違反による違約金や損害賠償が請求された場合――その責任は法的に誰が負うのか?
契約書に署名捺印した者。
そして、その不当な利益を受け取っていた口座の名義人。
すなわち――真壁宗治と、真壁莉乃の二人だけだ。
私は一切の契約書に名前を書かず、印鑑も押さず、報酬を一円たりとも正規に受け取らない。
「無償で妹の身の回りの世話をしていた同居の親族」という法的なポジションを完璧に維持し続ける。
そうすることで、将来訪れるであろう税務署の強制調査、重加算税の追徴課税、そして数千万円に及ぶ損害賠償請求の刃は、一ミリの狂いもなく、両親と莉乃の首元だけに突き刺さるのだ。
私には、何の請求も届かない。
法的に、私は完全に無傷のまま、対岸の火事を眺めることができる。
「よし、決まりだ! 明日、早速銀行に行って口座を作ってくる!」
宗治が上機嫌で立ち上がり、冷蔵庫から二本目のビールを取り出した。
「お父さん、明日の夕飯は回らないお寿司にしましょうよ! 前祝いよ!」
「賛成〜! 莉乃、ウニとアワビ食べたーい!」
狂乱の宴が再開される。
リビングを満たす、豚のような咀嚼音と、浅ましい笑い声。
私は静かに一礼し、自分の部屋へと戻った。
襖を閉めると、居間の喧騒が微かに遮断される。
六畳間の静寂の中、私は机の引き出しから、暗号化されたサブ端末を取り出した。
画面を開き、メッセージアプリを立ち上げる。
連絡先には、ただ一人――『Noir』のオーナー、黒木蓮。
私は指先を滑らせ、簡潔に、しかし決定的な事実を綴った。
《企業案件の名義および振込口座の分離が完了しました。すべての法的責任と税務上の債務は、父と妹の名義に集約されています。罠の土台が完成しました》
送信ボタンを押す。
わずか数秒後。
画面の上に、蓮からの返信がポップアップした。
《了解した。抜け目ないな、相変わらず。
……だが、お前、夕飯はちゃんと食ったのか? あいつらに付き合って冷飯を食わされてるなら、今すぐ店に来い。工房の奥で、美味いビーフシチューを温めてある》
画面を見つめたまま、私の胸の奥が、トクンと温かい音を立てた。
乱暴で、ぶっきらぼうで、けれど決して私を飢えさせない男。
家族の誰一人として気にも留めない「私の体温」を、遠く離れた場所から見守ってくれる唯一の共犯者。
私はスマートフォンを胸に抱きしめ、窓の外、暗い夜空を見つめた。
街の灯りの向こうで、着実に破滅の歯車が回り始めている。
(ありがとう、黒木さん)
私は静かに微笑み、返信を打った。
《すぐに向かいます。……お腹が空きました》
夜の帳が、真壁家の狂乱を呑み込んでいく。




