第6話:バズの甘い罠
五月の爽やかな風が湿り気を帯び、やがて街を濡らす梅雨の長雨を経て、日差しが肌を刺す本格的な夏へと季節が巡るまでの三ヶ月間。
世間が何気なく消費していく日常の裏側で、私が仕掛けた『Rino_Life』という名の蜘蛛の巣は、恐ろしいほどの速度と精度で獲物を絡め取り、肥大化を続けていた。
スマートフォンの画面に並ぶ、暴力的なまでの数字。
一万人、三万人、五万人――そして、今まさにその桁が跳ね上がろうとしていた。
この急成長は、決して偶然の産物などではない。すべては私が、アンティークサロン『Noir』の奥の工房で夜な夜な研究し尽くした、緻密なアルゴリズム戦略とマーケティング心理学の結晶だった。
第一に、色彩設計の徹底。
人間が無意識に「清潔感」「憧れ」「安心感」を抱くカラーパレットを厳密に定義した。ベースカラーには柔らかなエクリュホワイト(生成り色)、アソートカラーには温かみのあるウッドブラウンとリネンベージュ、そしてアクセントには季節のハーブや果実の自然な原色をわずか五パーセントだけ配置する。蛍光灯の青白い光は徹底して排除し、太陽光が最も美しく乱反射する午前七時十五分から四十五分までの自然光のみで撮影を敢行した。
第二に、キャプション(投稿文)における心理誘導。
レシピの手順は、誰でも真似できるように平易な言葉を選びつつも、プロならではの「ひと手間」――例えば「玉ねぎを炒める際に塩をひとつまみ振って水分を均一に引き出す」「メレンゲの最後にコーンスターチを少量加えて気泡を安定させる」といった、本物の料理人しか知らない隠し技をさりげなく散りばめた。
これにより、読者は「ただの写真映え」ではなく、「本当に暮らしを愛している本物の令嬢」という強固な錯覚を抱くのだ。
そして第三に、コメント欄の返信代行。
莉乃はファンのコメントを読むことすら面倒くさがったため、数千件に及ぶ返信のすべてを私が引き受けていた。
【いつも見てくださって本当にありがとうございます♡ 〇〇さんの昨日のお弁当の投稿も、彩りがとても素敵でしたね✨ お互い、優しい一日になりますように】
フォロワー一人ひとりのプロフィールや直近の投稿に目を通し、相手の自尊心をくすぐる言葉を添えて、謙虚かつ上品に返す。
その結果、『Rino_Life』のファンのエンゲージメント率(親密度・拡散率)は、同規模のアカウントの三倍以上に跳ね上がっていた。
「ねえ、聞いてよお姉ちゃん!」
七月の中旬、真夏の日差しが照りつける日の夕方。
冷房の効いたリビングのドアを乱暴に蹴り開けて帰宅した莉乃は、手にしたハイブランドの紙袋を床に放り投げ、興奮で紅潮した顔を輝かせた。
「今日ね、大学の学食でランチ食べてたらさ、あの意気地なしの令嬢グループの取り巻きがわざわざ話しかけてきたのよ! 『真壁さんって、もしかしてインスタの莉乃ちゃんですか? いつもレシピ参考にしてます』って! もうね、すっごくペコペコしてきてさ、私の前に座るのも恐れ多いって顔してたわ!」
莉乃は高いヒールを脱ぎ散らかし、冷えた麦茶を求めて冷蔵庫を開けた。
四月当初、帝都女子大学の厳格な空気と周囲の知的な教養に打ちのめされ、「行かなきゃよかった」と泣き喚いていた面影は、そこには微塵も残っていなかった。
「やっぱり私って、生まれついてのスターなのよね! あんな堅苦しい講義で難しい顔してる連中なんて、ネットの世界じゃ誰も見向きもしないブスばっかり。それに比べて私は、顔も可愛くてセンスも抜群で、何万人ものファンに毎日崇拝されてるんだもん。格が違うのよ、最初から!」
「そうね、莉乃ちゃん。本当に素晴らしいわ」
私はキッチンで、夕食用のトウモロコシの冷製ポタージュを丁寧に裏ごししながら、穏やかに微笑みかけた。
「莉乃ちゃんの天性の華やかさがあるからこそ、みんな惹きつけられるのよ。私の作ったお料理なんて、莉乃ちゃんが引き立ててくれなければ、ただの地味なご飯に過ぎないもの」
「あはは! まあね! お姉ちゃんもたまには良いこと言うじゃん!」
莉乃はふんぞり返り、グラスの麦茶を一気に飲み干した。
他人の労力を貪り食い、虚構の数字を自らの実力だと信じ込む寄生虫の、見事なまでの肥大化。
彼女はもう、足元に広がる底なし沼の深さに気づくことすらできなくなっていた。
実際、莉乃の大学生活は、学問という観点においてはすでに完全に崩壊していた。
前期末の試験期間が目前に迫っているというのに、莉乃が大学へ行くのは週に二日か三日、それも「インフルエンサーとして周囲にチヤホヤされるため」だけだった。
机の上に放り出された大学の学生ポータルサイトのログイン画面を、私は深夜、莉乃が寝静まった後に確認していた。
必修科目である『基礎英語』『日本文学概論』『哲学演習』――そのすべてが、規定の出席日数を大幅に下回り、すでに「受講資格喪失(落第確定)」の警告フラグが赤々と点滅していた。
しかし、私はその事実を、莉乃本人にも、両親にも一切告げなかった。
『莉乃ちゃん、大学の課題は大丈夫?』などという親切な忠告は、一言たりとも口にしない。
落第すればいい。留年すればいい。除籍になればいい。
私の進学枠と五百万円の学費を奪って手に入れた名門大学の学籍など、自らの怠惰と傲慢でドブに捨ててしまえばいいのだ。
親切な顔をして黙って見守ることこそが、最大の猛毒になる。
「あーあ、明日の朝の撮影、何にするの?」
莉乃がソファに深々と腰掛け、スマートフォンをスクロールしながら傲慢な声を飛ばしてきた。
「明日は、天然酵母のブリオッシュを使ったフレンチトーストを予定しているわ。昨夜から特製のバニラビーンズ入りアパレイユ(卵液)にじっくり漬け込んであるから、中はプリンのようにとろける仕上がりになるはずよ」
「はぁ? フレンチトースト? 地味じゃない? そんな茶色いパンの塊なんか載せても映えないでしょ!」
莉乃はあからさまに不快そうな顔をして舌打ちした。
「もっとさ、ドカンと目を引くやつにしてよ! シャインマスカットとか無花果とか、高そうなフルーツを山盛りにトッピングして、粉砂糖も雪みたいに降らせてさ! フォロワーが『うわ、お金持ちのお嬢様の贅沢ブランチだ』って一目でわかるようにしてよね!」
「……わかりました。仕込み直しておくわね」
「あとさ、撮影の時間だけど、明日は十時からにして。朝早く起きるのダルいから。十時に完璧な状態でテーブルに並んでなかったら怒るからね。……遅いんだよ、お姉ちゃんはいつも行動が。本当に気が利かないし、使えないな」
莉乃は私を一瞥もせず、スマートフォンに届く何百件ものファンからのメッセージを眺めながら、鼻を鳴らした。
召使い。
いや、それ以下の、意思を持たない都合の良い家電製品を見るような目。
一周目でも、まったく同じだった。
妹のためにすべてを捧げ、身を粉にして尽くせば尽くすほど、相手は感謝するどころか、搾取される側の尊厳を削り取ることに快感を覚えていく。
これが、他人の努力を無償で奪い続けた人間の、救いようのない末路の心理だった。
「ごめんなさい、莉乃ちゃん。明日は十時ちょうどに、一番綺麗な状態でフルーツを飾っておくわね」
私は深く頭を下げ、乱れのない所作でキッチンの片付けに戻った。
背筋を伸ばし、伏せた瞼の裏側で、冷徹な数式を組み立てる。
(ええ、存分に威張り散らしなさい、莉乃)
胸元の奥、肌の上で冷たく鎮座する貸金庫の鍵の輪郭を確かめる。
(私の手を煩わせるまでもなく、あなた自身の口から吐き出されるその傲慢さが、いずれ全世界へ晒される時の最高の燃料になるのだから)
エプロンのポケットの中で、私のサブ端末が微かに熱を持っていた。
キッチンの飾り棚の陰に偽装設置された小型高画質カメラは、今この瞬間も、莉乃の怠惰な姿と「使えないな」という罵声を、鮮明な音声とともに記録し続けている。
すべては、佐久間湊が構築してくれた海外クラウドサーバーへ、リアルタイムで暗号化転送されていた。
そして――運命の夜が訪れた。
時刻は、深夜十一時四十五分。
真壁家のリビングには、異様な熱気とシャンパンの泡の弾ける音が満ちていた。
「すごいわ、莉乃! 本当に凄い! 真壁家から、本物の有名人が誕生したわ!」
母・恵津子が甲高い声を上げ、スーパーで買ってきた安物のスパークリングワインのグラスを掲げて踊るように笑っていた。
テーブルの上には、莉乃のスマートフォンが恭しく置かれ、その画面には『Rino_Life』のプロフィールページが表示されていた。
【フォロワー:99,982】
刻一刻と、数字が更新されていく。
九万九千九百九十。
九万九千九百九十五。
父の宗治も、普段の事なかれ主義の無気力な顔を緩ませ、上機嫌でビールを喉に流し込んでいた。
「課の連中に、娘がネットで大人気なんだと自慢したら、みんな羨ましがってな。莉乃、お前は大したものだよ。うちの誇りだ」
「当たり前でしょ! 莉乃のセンスを、日本中が認めたのよ!」
莉乃はソファの中央にふんぞり返り、陶酔しきった笑みを浮かべていた。
そして――時計の針が深夜零時を回った、その瞬間。
パッと画面がリロードされた。
【フォロワー:100,014】
「キャァァァァァッ!! いったぁぁぁぁぁッ!!」
莉乃の耳をつんざくような黄色い悲鳴が、夜の住宅街に響き渡った。
恵津子が抱きつき、宗治が手を叩き、真壁家の狂宴は最高潮に達した。
十万人。
一般人がインフルエンサーとして「明確な社会的影響力」を獲得したと見なされる、決定的な境界線。
「お母さん、見た!? 十万人だよ! 十万人の人間が、私のファンなの! 明日から大学で、誰が私に逆らえるっていうのよ!」
莉乃は勝ち誇った顔で、キッチンの片隅で静かにグラスを洗っていた私を指差した。
その瞳には、哀れな敗者を見下す絶対的な優越感がぎらついていた。
「お姉ちゃん、見てた? これが莉乃の本当の実力なの! お姉ちゃんみたいに、真面目に勉強して名門大学に行こうとしてたって、誰にも知られずに終わるだけでしょ? 世の中で本当に価値があるのはね、こういうことなのよ!」
「ええ、本当におめでとう、莉乃ちゃん。私にはとても真似できない、素晴らしい快挙だわ」
私は両手を胸の前で合わせ、心からの祝福を装って微笑んだ。
完璧な、引き立て役の笑顔。
その時だった。
ピロン、と、今まで聞いたことのない、重厚で特別な電子通知音が、莉乃のスマートフォンから鳴り響いた。
通常のいいねやコメントの通知ではない。
公式認証されたアカウントからのみ届く、ダイレクトメッセージ(DM)の受信音。
「……え? なにこれ」
莉乃が訝しげに眉を寄せ、画面をタップした。
青白いディスプレイの光が、莉乃の瞳を照らし出す。
その瞬間――莉乃の息が、喉の奥でヒュッと止まった。
「……う、嘘……でしょ……?」
「どうしたの、莉乃? 誰からなの?」
恵津子が身を乗り出して画面を覗き込もうとする。
莉乃は震える両手でスマートフォンを握りしめ、信じられないものを見るように目を見開き、やがて狂喜に満ちた叫び声を上げた。
「お母さん!! 大企業だよ!! テレビのCMで毎日流れてる、あの超大手食品メーカー!!」
莉乃の指先が指し示した画面。
青い公式認証バッジのついたその企業のアカウントから届いていたメッセージには、こう記されていた。
『拝啓 真壁莉乃様。
突然のメッセージにて失礼いたします。
弊社マーケティング本部より、貴方様の素晴らしい世界観と、心温まる手料理の数々を常々拝見し、深く感銘を受けておりました。
つきましては、フォロワー十万人突破を記念いたしまして、弊社が今秋より展開いたします大型ブランドプロモーションの【公式アンバサダー】へのご就任を、ぜひご相談させていただきたく存じます。
詳細な契約内容および条件につきましては、追って弊社担当広告代理店のディレクターよりご連絡を差し上げます――』
公式アンバサダー。
それは、数あるインフルエンサー案件の中でも、年間契約で数百万円の報酬が発生し、全国規模の広告展開やテレビタイアップに直結する、最高峰の特等席だった。
「アンバサダー……! テレビのCMに出られるかもしれないの!? 真壁家から、芸能人が出るわ!!」
恵津子が卒倒しそうな勢いで叫び、宗治と手を取り合って狂乱のステップを踏む。
「あはははは! やっぱりね! 大企業も、私の才能に気づいちゃったんだわ!」
莉乃はスマートフォンを胸に抱きしめ、天井を仰いで哄笑した。
その狂騒の輪から遠く離れた、キッチンの暗がり。
洗ったばかりのグラスの水を、麻のクロスでキュッ、と拭いながら、私は伏せた瞳の奥で、冷たく澄み切った刃を研ぎ澄ませていた。
(食いついたわね)
すべては、私の計算通りだった。
この大手食品メーカーのターゲット層が好む「無添加」「丁寧な朝食」「家族への愛情」というキーワードを、過去三ヶ月間の投稿に完璧な比率で散りばめてきたのだ。
彼女たちが欲しがる「理想のアイコン」を、私が丹精込めて作り上げ、莉乃という名の肉人形に着せ替えて差し出した。
そして――この大型案件の背後に控える、担当広告代理店。
その名を、私はすでに知っている。
(いらっしゃい、毒入りの林檎へ)
歓喜の絶頂で跳ね回る家族の背中を見つめながら、私は誰にも聞こえない声で、静かに呟いた。
(肥え太りなさい、莉乃。
天高く舞い上がり、誰もが羨む場所へ立ちなさい。
……あなたが落ちていく底が、深ければ深いほど、その衝撃は心地よいのだから)




