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第5話:虚飾のアカウント開設

四月も半ばを過ぎると、街を包んでいた桜色の空気はすっかり薄れ、初夏を予感させる青葉の匂いが風に混ざり始めていた。

だが、真壁家の重苦しい空気は、季節の移ろいなど微塵も受け付けない暗闇に閉ざされていた。


ドサリ、と玄関の床に乱暴に投げ捨てられたのは、私が譲ったあのセリーヌのクラシックバッグだった。

不織布に包まれて大切に保管されていたはずの上質なボックスカーフは、雨の日に濡れたまま放置されたのか、革の表面に細かな水膨れのようなシミが浮き、角は早くも擦れて白く毛羽立っている。

靴を脱ぎ散らかし、廊下を踏み鳴らして居間へ飛び込んできた義妹・莉乃は、制服代わりのブランド物のアンサンブルを脱ぎ捨てるなり、ソファに突っ伏して叫んだ。


「最悪! なんなのあいつら! 全員気取っちゃって、私のこと見下してさ!」


金切り声が、リビングの壁を震わせる。

キッチンで夕食の八宝菜の仕込みをしていた私は、包丁の手を止め、濡らした清潔な布巾で指先を拭うと、静かに居間へと足を踏み入れた。


「おかえりなさい、莉乃ちゃん。冷たいハーブティーを淹れましょうか。……大学で、何か嫌なことでもあったの?」


心配そうに眉尻を下げ、小走りで駆け寄る「心優しい姉」。

その声に反応した莉乃は、涙とマスカラで汚れた顔をソファから跳ね上げた。


「嫌なことどころじゃないわよ! 帝都女子大なんて、行かなきゃよかった!」


莉乃の口から溢れ出たのは、絵に描いたような劣等感と被害妄想の塊だった。

私の学費枠五百万円を横取りし、特別寄付金の力で無理やり補欠から滑り込んだ名門・帝都女子大学。

だが、そこに集まるのは、代々続く名家の令嬢や、難関の一般入試を自力で突破してきた本物の秀才たちばかりだった。

彼女たちの身につける仕草、言葉遣い、そして何気ない会話に混ざる教養の深さ。そのすべてが、付け焼き刃のブランド品で着飾っただけの莉乃を、容赦なく疎外していたのだ。


「あいつら、私が話しかけても『まあ、そうなの』って薄笑い浮かべるだけで、全然輪に入れてくれないのよ! それに、あのレポート!」


莉乃は悔しげにクッションを殴りつけた。

第3話で、私が「高卒だから書けない」と断った新入生の事前学習課題――四千字の教養論文と二千語の英語論文要約。

自力で書くことを放棄した莉乃は、ネットの個人ブログの解説文や海外サイトの機械翻訳を適当にコピペして提出したのだ。

結果は、言うまでもなかった。


「ガイダンスの時、担当の教授からみんなの前で呼び出されたのよ! 『真壁さん、この英文の構文はネットの誤訳サイトの文章と完全に一致していますが、ご自身で読解されたものですか?』って! 周囲の連中がクスクス笑って……私、恥ずかしくて死ぬかと思ったわ! クラス編成だって、一番下の補習クラスに落とされたし!」


当然の報いだった。

剽窃を何よりも嫌うアカデミズムの世界において、コピペレポートなど一瞬で見抜かれる。

自業自得の恥辱にまみれ、友人もできず、プライドだけをズタズタに引き裂かれた莉乃は、唇を噛んで爪をガリガリと噛んだ。


「あんな勉強ばっかりの陰気な女たち、絶対に見返してやるんだから……。もっと手っ取り早く、私がどれだけ特別で、可愛いかを世間に分からせたいの。……ねえ、お姉ちゃん」


莉乃が血走った目を私に向けた。


「インフルエンサーになりたいの」


「インフルエンサー、ですか?」


「そうよ! 今、インスタで何十万人もフォロワーがいる可愛い女の子たち、テレビに出たり企業からタダで化粧品もらったりして、ちやほやされてるじゃない! 帝都女子大のスカした連中だって、私が何十万人からもチヤホヤされる有名人になれば、絶対に手のひら返してすり寄ってくるに決まってるわ!」


安直。あまりにも安直で、どこまでも他力本願な欲望。

地道な努力を一切嫌い、他者からの無条件の賞賛だけを貪り食いたいという、莉乃の内面に巣食う自己愛の怪物が、その醜い顎(あぎと)を開いた瞬間だった。


(ええ、そうでしょうね。一周目でも、あなたはまったく同じことを言い出したわ)


一周目の私は、この莉乃の思いつきに振り回され、睡眠時間を削って料理を作り、撮影をこなす「無料のゴーストライター」として使い潰されたのだ。

だが、二周目の私は、この欲望を破滅への最高の起爆剤として利用する。


私はわざと目を丸くし、それから心底感心したように両手を胸の前で合わせた。


「まあ……! 素敵なアイデアだわ、莉乃ちゃん!」


「えっ……? そ、そう思う?」


「ええ、もちろんよ! だって莉乃ちゃんは、モデルさんみたいに華奢で、お顔立ちもこんなに愛らしいじゃない。大学の狭い教室の中だけで埋もれているなんて、もったいなさすぎるわ。莉乃ちゃんの美しさは、もっと広い世界でたくさんの人に見てもらうべきよ」


完璧な肯定。莉乃の肥大化した自尊心を、これ以上ないほど甘い言葉で撫で回す。

莉乃の瞳に、みるみるうちに高揚の光が満ちていく。


「でしょ!? やっぱりお姉ちゃんもそう思うよね!? 莉乃、絶対に人気者になれるよね!」


「ええ。でもね、莉乃ちゃん」

私は少しだけ声を落とし、親身になって案じるように言葉を継いだ。


「ただ可愛い自撮りを載せるだけじゃ、今のSNSでは埋もれてしまうわ。今一番ウケるのはね、『丁寧で愛らしいおうち時間』よ。朝早く起きて手作りの朝食を作ったり、季節の草花を飾ったり、繊細な手芸を楽しんだり……『こんなに可愛いのに、家庭的で暮らしを慈しんでいる女の子』というギャップこそが、男女問わず爆発的な支持を集めるの」


莉乃は一瞬、げんなりとした表情を浮かべた。


「えー……でも私、お料理なんて目玉焼きくらいしか作れないし、お裁縫なんて針に糸も通せないよ? そんな面倒くさいこと、できるわけないじゃん」


「大丈夫よ」


私は優しく微笑み、莉乃の華奢な肩にそっと手を置いた。


「莉乃ちゃんは、何も心配しなくていいの。お料理も、お部屋のスタイリングも、テーブルコーディネートも、写真の構図の計算も……裏方の作業はぜんぶ、私がやってあげる」


「えっ……本当にお姉ちゃんがやってくれるの!?」


「もちろんよ。莉乃ちゃんは私の自慢の可愛い妹だもの。莉乃ちゃんは毎朝、私が完璧に整えたテーブルの前に座って、エプロンをつけてニッコリ笑ってポーズを取るだけでいいの。カメラのシャッターを押すのも、私がやってあげるわ。莉乃ちゃんは『作品の顔』として、みんなに愛されることだけに集中して?」


毒入りの林檎を、最高級のクリスタルガラスの皿に載せて差し出すような提案。

努力を嫌い、果実だけを欲しがる莉乃にとって、これ以上魅力的な取引があるはずもなかった。


「お姉ちゃん、最高! 大好き!」

莉乃は飛び上がって喜び、私の腕に抱きついてきた。


その夜、私は莉乃のスマートフォンを借り、新しいアカウントの開設作業を代行した。

アカウント名は『@Rino_Life』。

プロフィール欄には、読者の庇護欲と憧れを完璧に刺激する言葉を並べる。

『帝都女子大文学部生のおうち時間日誌。お料理とお花、手仕事のある丁寧な暮らしを紡いでいます。毎日の小さな幸せを、大切なあなたへ届けられますように♡』


ここで、私は極めて重要な「防壁」を密かに仕込んだ。

アカウントの復旧用メールアドレスと二段階認証の設定画面。

「莉乃ちゃん、大学でお友達にスマホを悪戯されたり、落としたりしたら危ないから、セキュリティの管理用アドレスは私の端末に紐付けておくね」

「うん、よくわかんないからお姉ちゃんに任せるー!」


莉乃は何の疑いもなく端末を私に預け、自分は鏡の前で明日の撮影用のメイクの練習に没頭していた。

これで、アカウントの主導権と最終的な切り離し権限は、完全に私の手中へと収まった。


翌朝、午前四時三十分。

真壁家の古い台所には、まだ夜明け前の冷気が淀んでいた。

私は静かにエプロンを締め、換気扇を回した。


今日の初回投稿用のメニューは、雑誌の表紙を飾れるレベルの『極上スフレパンケーキ・自家製ベリーコンポート添え』。


ボウルに新鮮な卵黄とマスカルポーネチーズ、少量の薄力粉を合わせ、別の銅製ボウルで卵白を氷水で冷やしながら泡立てる。

砂糖を三回に分けて加え、ピンと角が立つ、艶やかな極上のメレンゲを作り上げる。

メレンゲの気泡を一つも潰さぬよう、ゴムベラで手早く、かつ滑らかに生地を合わせ、低温に熱した極厚のフライパンへ高さを出して落としていく。

蓋をして、蒸気でじっくりと火を通すこと八分。


焼き上がるまでの間に、ダイニングテーブルのスタイリングを完了させる。

麻百パーセントのリネンクロスを敷き、そのシワの寄り方一つにまで計算を施す。

庭の片隅から摘んできた無農薬のミントと、薄紅色のラナンキュラスを小瓶に挿して右奥に配置。

朝日が東の窓から斜め四十五度の角度で差し込む位置を正確に割り出し、影が最も柔らかく落ちるスポットに、白い磁器のプレートを置いた。


焼き上がったパンケーキは、触れれば崩れそうなほど繊細に揺れる、黄金色のスフレ。

その上に、グラニュー糖とレモン果汁で煮詰めたばかりの深紅のミックスベリーソースをたらりと垂らし、粉糖を粉雪のように降らせる。

湯気を立てる焼きたてのパンケーキの横には、淹れたてのアールグレイティー。


完璧な、息を呑むほど美しい朝食の風景が完成した。


「……ふわぁ、眠い。もうできたの?」


午前六時十五分。

あくびを噛み殺しながら起きてきた莉乃は、寝癖をヘアアイロンで伸ばし、念入りにチークとリップを塗った「すっぴん風メイク」を施していた。

私が用意した淡いラベンダー色のフリルエプロンを身につけさせ、テーブルの椅子に座らせる。


「莉乃ちゃん、両手でフォークを持って、今まさに食べようとしているように首を少し傾げて。目線はカメラじゃなくて、パンケーキのベリーソースに向けてね」


「こう? ねえ、早く撮ってよ、お腹空いたし冷めちゃうじゃん」


文句を垂れる莉乃の姿を、私は莉乃のスマートフォンで何枚も撮影した。

自然光を浴びて透き通るような肌、華奢な肩、そして目の前にあるプロ級のスイーツ。

誰が見ても「早起きして丁寧にパンケーキを焼いた、可憐なお嬢様」にしか見えない奇跡のショットが、何十枚と収められていく。


だが――私が動かしていたカメラは、莉乃のスマートフォンだけではなかった。


エプロンの胸ポケットから、私自身の私物である安価なスマートフォンを、角度を計算して覗かせていた。

さらには、キッチンのカウンターの陰に設置した定点撮影用の小型端末。


そこには、恐ろしいほど克明な「真実の全記録」が動画として記録されていた。


私が午前四時半から粉をふるい、メレンゲを泡立て、フライパンの火加減を調節している手元のアップ。

撮影データには、自動的に改ざん不能な日付、秒刻みのタイムスタンプ、そしてGPSの位置情報がメタデータとして刻み込まれる。

そして画面の隅には――パジャマ姿でリビングのソファに寝転がり、スマホで芸能ニュースを見ながら鼻をほじり、「早くしてよ使えないな」と暴言を吐く莉乃の無様な姿が、鮮明な音声とともに記録されていた。


撮影が終わると、莉乃はフォークでパンケーキの端をほんの一口だけ削り取って口に含んだ。


「ん、美味しいけど……なんか甘ったるくて太りそう。もういらないや。片付けといてね、お姉ちゃん」


莉乃は皿を押しやり、エプロンを脱ぎ捨ててソファへと戻っていった。

丹精込めて焼き上げた極上のスフレパンケーキは、一口だけ齧られた無残な姿でテーブルに取り残される。


莉乃は、食材の名前すら知らない。

メレンゲの泡立て方も、マスカルポーネチーズの役割も、フライパンの温度管理も、何一つ学ぼうとしなかった。

ただ「映える写真」が手に入れば、料理そのものも、その背景にある技術も、彼女にとってはゴミ同然だったのだ。


(ええ、それでいいわ。何も知らなくていい。何も学ばなくていい)


私は冷めたパンケーキを静かに見つめ、冷徹な確信を深めた。


(あなたが無知であればあるほど……私が手を引いた瞬間、あなたの虚構は音を立てて崩れ落ちるのだから)


私は莉乃のスマートフォンを手に取り、撮影した最高の一枚をセレクトした。

色調の彩度をわずかに上げ、光のコントラストを柔らかく調整する。

そして、フォロワーの心を掴むためのキャプションを打ち込んだ。


『今朝は少しだけ早起きして、大好きな家族のためにふわとろスフレパンケーキを焼きました♡

マスカルポーネを隠し味に入れたら、口の中でとろけるような優しい甘さに。

お庭のミントを添えて、朝の光と一緒にいただきます。

今日もみなさんにとって、あたたかな一日になりますように……✨

#おうちカフェ #手作り朝食 #丁寧な暮らし #スフレパンケーキ #女子大生の日常 #真壁莉乃』


完璧な、嘘に塗れた偶像の産声。


「莉乃ちゃん、これで投稿していいかしら?」


「あ、うん! 文章めっちゃそれっぽいじゃん! 投稿しといて!」


画面の向こうでテレビを見て笑っている莉乃を確認し、私は指先を画面に滑らせた。


――投稿完了。


青い光とともに、虚飾のアカウント『Rino_Life』の記念すべき第一歩が、インターネットという広大な海へと放たれた。


数分もしないうちに、机の上に置かれた莉乃のスマートフォンが、チロリン、と小気味よい電子音を立てて震え始めた。


画面を見る。

見知らぬアカウントからのハートマーク。

【わあ、すごく美味しそう! お店のかと思いました!】

【朝からこんな素敵なパンケーキ焼けるなんて女子力高すぎます♡】

【フォローしました! 次のお料理も楽しみにしてます!】


通知は止まらなかった。

チロリン、チロリン、チロリンと、絶え間なく鳴り響く承認のファンファーレ。


「えっ……!? うそ、もうコメントついてる!?」

莉乃が飛び起き、血相を変えてスマートフォンへと駆け寄ってきた。

画面に並ぶ絶賛の言葉を見るなり、その瞳孔が歓喜で大きく見開かれる。


「すごい……! みんな私のこと褒めてる! 美味しそうって、可愛いって言ってる!!」


莉乃の顔に浮かんだのは、他人の努力を自分の手柄にして貪る者の、甘美で下品な陶酔の笑みだった。

その姿を、私はキッチンの物陰から、冷たく静まり返った瞳で見つめていた。


(喜ぶのは、まだ早いわよ、莉乃)


胸の奥の貸金庫の鍵が、私の肌の上で静かに冷えていく。

私はポケットの中のサブ端末をタップし、先ほど撮影した「莉乃の暴言と私の調理風景」の動画ファイルを、安全な暗号化フォルダへと転送した。

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