第4話:共犯者との邂逅
繁華街の喧騒から二筋ほど外れた、古いレンガ敷きの路地裏。
頭上を覆う雑居ビルの隙間から差し込む春の光は細く、街の喧騒は水底の音のように遠く霞んでいた。
湿った風が、路地の奥から微かに運んでくるものがある。
深煎り珈琲の香ばしい薫香。蜜蝋ワックスの甘く重い匂い。そして、長い年月を生き抜いてきた古木と革が放つ、独特の静謐な気配。
足元に目をやると、控えめに磨かれた小さな真鍮の看板が、苔むした壁に掛けられていた。
『Antique Salon & Café Noir』
昼はアンティーク家具の修繕工房を兼ねた喫茶サロン。
そして夜は、限られた政財界人や文化人だけが集う会員制バーへと姿を変える、知る人ぞ知る隠れ家。
何より――一周目のあの冷たい雨の夜、血だまりの中に崩れ落ちた私の手を握り締め、狂ったように叫んでくれた男、黒木蓮がオーナーを務める城だった。
私は着古した紺色のステンカラーコートの襟元を整え、胸元に手を当てた。
シャツの内側、肌に直接触れる位置にある貸金庫の鍵が、体温を吸って微かに熱を持っている。
手提げ鞄の中には、昨夜から今朝にかけて準備した「切り札」が収められていた。
カラン、と澄んだ真鍮のベルの音が、静かな店内に響く。
木製の重厚なドアを押して一歩足を踏み入れた瞬間、外界の時間が断ち切られたような錯覚に囚われた。
高い天井には飴色に燻された梁が走り、柔らかな琥珀色の間接照明が、並べられた調度品を照らし出している。
ヴィクトリア朝のマホガニー製ダイニングテーブル、アール・ヌーヴォーの曲線を描くフロアランプ、壁一面に並ぶ革装丁の洋書。そのどれもが、単なる骨董品ではなく、専門の職人の手によって完璧な手入れを施され、今もなお呼吸を続けている本物ばかりだった。
「いらっしゃい。……悪いが、喫茶の営業は午後一時からだ。仕込みの最中でね」
カウンターの奥から、低くかすれた、耳朶を震わせる声が投げかけられた。
心臓が、トクンと跳ねた。
カウンターの天板に片肘をつき、気だるげにこちらを見遣っている長身の青年。
無造作に流された漆黒の髪。白シャツの袖を肘まで捲り上げ、その上から黒いバーテンダーベストを纏っている。彫りの深い端正な顔立ちの奥にある瞳は、夜の湖のように深く、冷ややかで、どこか世のすべてを見限ったような退屈の色を漂わせていた。
黒木蓮。
あの日の記憶が、脳裏を灼くように蘇る。
血に染まる冷たい石畳、頭部を砕かれた激痛、息絶えようとする私を抱き起こし、雨に打たれながら『死ぬな! 頼むから目を開けろ! 栞!!』と叫び続けた、あの男の顔。
一周目では、遠い世界の住人だったはずの人が、今、目の前に立っている。
私は指先が震えそうになるのを、掌を強く握りしめることで押し殺した。
ここで取り乱してはならない。今の私は、彼にとって見ず知らずの、ただの小娘に過ぎないのだから。
「恐れ入ります。喫茶の利用ではなく、求人の件でお伺いいたしました」
私は歩み寄り、カウンターの前で立ち止まって、完璧な角度で頭を下げた。
「店頭に貼り出されていた『昼帯:家具・ファブリック修繕補助およびホールスタッフ』の募集を拝見しました。真壁栞と申します。面接をお願いできますでしょうか」
蓮は怪訝そうに片眉を持ち上げた。
その切れ長の瞳が、私の頭の先から足元までを、値踏みするように素早く走る。
「求人? ……ああ、あの工房の爺さんが腰を痛めて辞めた穴埋めか。だが、募集要項に書いてあったはずだぞ。『経験者優遇』とね。高校を出たばかりの小娘に務まるような、生半可な仕事じゃない」
蓮は手元にあったクロスでグラスを拭きながら、冷淡に言葉を続けた。
「うちは安物の合板家具を組み立てる店じゃない。百年前のフランスのサロンチェアや、擦り切れたゴブラン織りのタペストリーを、当時の風合いを壊さずに蘇らせる作業だ。爪にニスを塗りたくるような若い娘が触っていい代物じゃないんだよ。悪いが、他を当たってくれ」
門前払い。当然の反応だった。
高校を卒業したばかりの十八歳の少女が、高度な修繕技術を要する専門サロンの門を叩くなど、常識的に考えれば世間知らずの冷やかしにしか見えない。
だが、私は引き下がらなかった。
静かに手提げ鞄を開け、中から布に包まれた二つの物体を取り出し、カウンターの上のフェルトマットの上に置いた。
「おっしゃる通り、私には専門工房での実務経歴はございません。ですが、口先で弁明するよりも、こちらをご覧いただきたく存じます」
布を解く。
現れたのは、一つの真鍮製燭台と、手のひらサイズの革張りのスツールの座面サンプルだった。
蓮の手が、ピタリと止まった。
「……ほう」
蓮の瞳から、退屈の色がスッと消え失せた。
彼は持っていたグラスを置き、吸い寄せられるようにカウンター越しに身を乗り出すと、素手で真鍮の燭台を手に取った。
その燭台は、数日前、実家の物置の奥で赤錆と緑青に塗れて放置されていた、明治期の古い調度品だった。
私はそれを、薬剤で無理やりピカピカに剥離するような無粋な真似はしなかった。重曹と植物油、そして超極細の研磨布を使い、百年以上の年月が醸し出した古色――パティナと呼ばれる深みのある飴色の被膜を完璧に残したまま、表面の腐食だけをミリ単位で除去し、金属本来の鈍い光沢を蘇らせていた。
さらに蓮の視線は、もう一つの革のサンプルへと移った。
ひび割れ、繊維が崩壊しかけていたアンティークレザーの裏側に極薄の補強布を圧着し、蜜蝋とオイルを独自の比率で浸透させて柔軟性を取り戻させた上で、擦り切れたエッジ部分を手縫いのサドルステッチで精緻に補修したもの。ステッチのピッチは狂いなく均一で、使用した麻糸の色は、経年変化した革の色調と完全に同化していた。
「……薬剤は何を使った」
蓮の声から、先ほどまでの小馬鹿にしたような調子が完全に消えていた。
「蜜蝋、椿油、テレピン油を三対二対一で湯煎調合した自家製の保革バームです。真鍮の研磨には、還元作用を促すために微量のクエン酸と珪藻土の微粉末を用いました。素材の歴史を削り落とすのではなく、呼吸を取り戻させることだけを意識しております」
淡々と答える私を、蓮は食い入るように見つめた。
その瞳の奥で、鋭い光が明滅している。
この技術は、一周目で私が身につけざるを得なかったものだった。
莉乃がSNSで「丁寧な暮らし」を演出するため、骨董市で見つけてきたボロボロのアンティーク小物を買い漁っては、「お姉ちゃん、これ明日までに綺麗にしてインスタに載せられるようにしといて!」と丸投げしてきたのだ。
失敗すれば母に罵倒され、食事を抜かれる恐怖の中で、私は専門書を読み漁り、夜を徹して試行錯誤を繰り返しながら、独学でプロ顔負けの修繕技術を叩き込まれた。
妹のために血反吐を吐いて身につけた技術が、今、私を救うための武器になっていた。
「……独学か」
蓮が燭台を置き、腕を組んだ。
「はい。手先を動かすことだけが、私の唯一の取り柄でしたので」
「嘘をつけ」
低く、硬い声が落ちてきた。
蓮の切れ長の瞳が、私の目を真正面から射抜いていた。
その視線は、骨董品の真贋を鑑定する時のように冷徹で、人間の内面の奥底に隠された澱みを、容赦なく抉り出す刃のようだった。
「技術の出どころはどうでもいい。確かに腕は本物だ。工房の爺さんより丁寧なくらいだ。……だがな、問題はそこじゃない」
蓮はカウンターの天板を指先でトン、と叩いた。
「お前、本当に十八歳か? さっきから一度も視線が揺れない。声のトーンも、呼吸の深さも、まるで何十年も修羅場を潜り抜けてきた年寄りみたいだ。……いや、それだけじゃないな」
蓮の唇が、皮肉げに歪む。
「その目だ。人を何人か殺して、裏山に埋めてきたような目をしてる。復讐か、それとも誰かを道連れにして破滅する企みでも抱えてるのか?」
空気が凍りついた。
背筋を冷たいものが駆け抜ける。
鋭い。あまりにも鋭すぎる。
母の恵津子も、父の宗治も、十八年間一緒に暮らしてきた家族の誰一人として気づかなかった私の本質を――この男は、出会ってわずか数分で見抜いてみせたのだ。
一周目で、警察や親族全員が「不注意による転落事故」で片付けようとした私の死を、唯一「他殺」だと見抜き、真相を追おうとしてくれた男。その慧眼は、二周目の今も健在だった。
だが、私は怯まなかった。
目を逸らすことも、取り乱すこともなく、静かに唇の端を持ち上げ、微笑んでみせた。
「埋めたことなど、ございません」
「じゃあ、なんだ」
「埋められた側です」
私は一歩も退かずに、蓮の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「すべてを奪われ、踏み躙られ、暗い土の底に生きたまま埋められました。……だから今度は、二度と誰にも埋められない場所を、自分の手で作るために参りました」
私の言葉に、蓮は息を呑んだ。
店内に、重苦しい静寂が満ちる。柱時計の振り子が時を刻むコチコチという乾いた音だけが、二人の間に響いていた。
やがて――。
「……ッ、ハハッ!」
蓮が片手で額を押さえ、低く喉を鳴らして吹き出した。
可笑しくてたまらないといったように肩を揺らし、やがて顔を上げると、その瞳には獲物を見つけた猛獣のような、獰猛で純粋な光が宿っていた。
「傑作だな。埋められた側、か。十八の小娘が吐く台詞じゃない」
蓮はカウンターの下から一枚の用紙を取り出し、ボールペンとともに私の前へ滑らせた。
「採用だ。真壁栞」
「……よろしいのですか? 素性も定かでない者を」
「腕がある。度胸もある。何より、退屈しない」
蓮はボールペンを指先で回しながら、事務的な口調で条件を並べ立てた。
「勤務時間は午前九時から午後五時まで。昼の喫茶営業のホールと、奥の工房での家具修繕の補助だ。時給は千二百円、交通費全額支給、昼の賄い付き。……ただし、夜のバー営業はお前には触らせない。酒類を扱う深夜業に十八歳を立たせるほど、俺も法令違反を甘く見ちゃいないんでね。お前の仕事は、陽が出ている間だけだ」
完璧な労働条件だった。
労働基準法を完全に遵守し、高校新卒の身分であっても法的に何一つ後ろ暗い点がない。
何より、真壁家から「高卒で家に残り、家事をする」という名目で抜け出す時間として、午前九時から午後五時という枠はあまりにも都合が良かった。朝晩の家事さえこなしておけば、恵津子も宗治も、私が昼間にどこで何をしていようと詮索などしてこない。
「ありがとうございます。誠心誠意、務めさせていただきます」
私が一礼すると、蓮のスマートフォンが短く震えた。
蓮は画面を一瞥し、億劫そうに通話ボタンを押す。
『――黒木さんですか? 例の大手出版社の役員との会食の件、セッティング完了しました。それから、先日のITベンチャーの事業譲渡の件ですが……』
スピーカーから漏れ聞こえてくるのは、大手メディアや企業買収に関する生々しいビジネスの会話。
蓮は適当に相槌を打ちながら、「ああ、適当に進めておけ。夜に店で話す」と短く切った。
単なるアンティークカフェの店主ではない。
この男は、莫大な資産を持つ旧家の出でありながら、表のメディア業界や裏のビジネスネットワークに深く根を張る、知る人ぞ知るフィクサーの一面を持っている。
一周目の私の死の真相を追うことができたのも、その強大な情報網と資金力があったからこそだ。
(最高の隠れ蓑であり……最強の共犯者)
私の復讐計画において、これ以上の拠点は存在しない。
手に入れた給与は貸金庫の資金と合わせ、独立のための資本金にする。
そしてこの店の奥の工房で、誰の目にも触れずに、私の技術を本物の作品へと昇華させていくのだ。
「さて、契約成立だ。明日から早速来てもら……おい」
書類にサインを終え、ペンを置いた私の顔を、蓮が至近距離から覗き込んできた。
カウンターの天板越しに、彼の上体がぐっと近づく。
微かに漂う、白檀のインセンスと煙草のビターな香り。
蓮は無骨で長い指先を伸ばすと、私の顎先にそっと触れ、逃げられないようにクイと持ち上げた。
「……黒木さん?」
息がかかるほどの距離。
蓮の黒い瞳が、私の瞳の奥底をじっと覗き込んでいた。
その瞳に宿る熱は――あの日、冷たい雨の非常階段で、私の手を握りしめていた時の熱と、まったく同じだった。
「一つだけ、条件がある」
「何でしょうか」
「俺の店にいる間は、勝手に壊れるな」
蓮の声は低く、どこか苛立ちを含んだような、けれど絶対的な熱量を帯びていた。
「復讐だか何だか知らんが、自分の体を削ってまで突っ走るような真似は許さない。お前がボロボロになって使い物にならなくなったら、俺が損をするからな。……いいな?」
不器用で、乱暴で、けれど芯まで温かい、牽制の皮を被った保護の言葉。
一周目の人生で、家族の誰一人として私に向けてくれなかった言葉。
『我慢しなさい』『妹に譲りなさい』『役に立ちなさい』としか言われなかった私の人生に、初めて投げかけられた、「私の生存」を求める声。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
けれど、私はその痛みを悟られないよう、いつもの穏やかな微笑みで覆い隠した。
「承知いたしました。オーナーのご期待に沿えるよう、大切に扱わせていただきます」
「……可愛げのない奴」
蓮は呆れたように息を吐き、私の顎から指を離した。
そして背を向けると、再びグラス磨きへと戻っていった。
「奥のスタッフルームに使っていない作業机がある。好きに使え。私物も置いていっていい。……明日の朝九時、遅刻するなよ」
「はい。失礼いたします」
私はもう一度深く頭を下げ、重厚な扉を開けて路地裏へと出た。
春の柔らかな風が、私の頬を撫でていく。
見上げた空は青く澄み渡り、街の喧騒が再び耳に戻ってきた。
手に入れた。
誰にも邪魔されない、私だけの城。
そして、私を人間として見つめてくれる、唯一の共犯者。
(待っていてね、莉乃。お父さん、お母さん)
私は歩き出しながら、冷たい確信に満ちた笑みを零した。
(あなたたちが私の価値に気づいた時には……もう、すべてが手遅れよ)
破滅の舞台は、着実に整いつつあった。




