第3話:最初のトロイの木馬
春の冷気が残る高校の進路指導室は、どこか埃っぽく、印刷機のトナーと古い紙の匂いが満ちていた。
窓の外では、グラウンド脇に植えられた桜の並木が、まだ固い蕾を冷たい北風に震わせている。
パイプ椅子に浅く腰掛けた私の目の前で、三年間担任を務めた男性教諭が、額に深い皺を刻んで絶句していた。その震える手には、今朝一番で私が提出した一枚の書類――『指定校推薦合格辞退届』が握りしめられている。
「真壁……本当に、これでいいのか? お前がこの大学を目指して、どれだけ血の滲むような努力をしてきたか、俺は知っているぞ。三年間、学年トップを維持し続けて、模試の判定もずっとAだったじゃないか。指定校推薦の辞退なんて、学校の歴史を見ても前代未聞だ。今からでも取り下げられないのか」
担任の声には、純粋な困惑と、教え子を不憫に思う痛切な憐憫が滲んでいた。
真っ当な大人の、真っ当な心配。
一周目の私なら、その言葉を聞いた瞬間に堰を切ったように泣き崩れ、『助けてください、親に無理やり辞退させられるんです』と縋り付いていただろう。
だが、その結果として何が起きたかを、私はすでに痛いほど知っている。
一周目、学校から家庭へ確認の電話が入った途端、世間体を何よりも重んじる母・恵津子は激昂して学校へ怒鳴り込んだのだ。担任を『他人の家庭の経済事情を侮辱した無礼者』と喚き散らして糾弾し、帰宅後は私が『親に恥をかかせた親不孝者』として一週間にわたり暗い物置に閉じ込められ、折檻された。
第三者の善意など、この狂った家庭の檻を壊す役には立たない。自らの手で内側から粉微塵に爆破する以外に、私の真の解放などあり得ないのだ。
「先生、お心遣いありがとうございます」
私は膝の上で両手を揃え、完璧に計算された、哀しくも健気な笑みを浮かべて頭を下げた。
「父の会社の業績が思わしくなく、どうしても私立大学の学費を捻出することが難しくなってしまったのです。下に、手のかかる病弱な妹もおりますので……長女である私が家に残り、働いて家計を支えるのが一番だと、家族全員で話し合って決めました。学校の推薦枠にご迷惑をおかけすることは重々承知しておりますが、どうか、私の意志を尊重していただけないでしょうか」
私の声には、一欠片の恨み言も混ざっていなかった。
ただただ、貧しい家と病気の妹を思いやる、美しく従順な孝行娘の声音。
担任は唇を噛み締め、悔しそうにデスクを拳で叩いた。
「……そうか。お前がそこまで覚悟を決めているなら、学校側としても無理強いはできない。だが真壁、お前のその頭脳と才能は、こんなところで腐らせていいものじゃないぞ。いつか、自分の道を歩める日が来ることを祈っている」
「もったいないお言葉です。先生、三年間、本当にありがとうございました」
私は深く頭を下げ、進路指導室を後にした。
廊下を歩く私の足取りは、驚くほど羽のように軽かった。
これでいい。学校側の記録には「家庭の経済困窮による、本人の意志に基づく円満辞退」として正式に処理された。
私が進学の権利を自ら手放したという公的な事実は、真壁家が用意していた私用の学費五百万円を、完全に浮いた資金として宙に浮かせたことを意味していた。
高校を出た私は、その足で駅前の中央郵便局へと向かった。
春休みに入ったばかりの平日午前、窓口にはそれほど人は多くない。
私は一般の貯金窓口ではなく、奥にひっそりと佇む貸金庫の専用受付へと進んだ。
「個人用の貸金庫を、一年契約でお願いしたいのですが」
提示したのは、高校の卒業証明書と健康保険証、そして先ほどまで通っていた高校の生徒手帳。十八歳という年齢でも、公的な身分証と所定の保証金があれば、自分単独名義の貸金庫を開設することは可能だった。
案内された地下の厳重な保管庫で、私は真新しい真鍮の鍵を受け取った。
小さな金属製の保管箱を開け、私は鞄から取り出した貴重品を丁寧に収めていく。
高校三年間、母の目を盗んで早朝の新聞配達と休日のビル清掃で稼ぎ、自分名義の通帳に隠し続けてきた預金八十万円。
実印、印鑑登録カード、マイナンバー通知カード、そして祖母の遺品整理の際にこっそり引き取っていた、祖母の形見の銀の指輪。
実家の私の部屋など、恵津子や莉乃にとってはいつでも土足で踏み荒らせる物置小屋に過ぎない。一周目では、私がコツコツ貯めていたこの隠し口座すらも、母に引き出しの底から発見され、「家族に隠れてへそくりを作るなんて浅ましい泥棒猫!」と罵倒されて全額奪われ、莉乃の海外旅行の小遣いに消えたのだ。
(もう二度と、私の汗と涙の結晶を一円たりとも触らせはしない)
ガチャン、と重い金属音が響き、貸金庫の扉が施錠される。
鍵をチェーンに通し、制服のシャツの内側、肌に直接触れる位置へと身につけた。
冷たい金属の感触が、私の覚悟を研ぎ澄ましていく。
さらに私は、郵便局のロビーに設置された公衆電話と持参したノートを使い、通信制の専門教育機関へと受講申し込みの書類を郵送した。
申し込んだのは、二つの講座。
実務レベルの『Webデザイン・グラフィック制作講座』と、『日商簿記および企業経理実務講座』。
受講料の計十五万円は、先ほど下ろした現金から即座に払い込んだ。教材の送付先は実家ではなく、駅前の私書箱受け取りサービスを指定してある。
真壁家を破滅させるためには、ただあいつらの自滅を待つだけでは足りない。
何者にも依存せず、私一人の力で莫大な富を生み出し、社会的に確固たる地位を築くための「本物の牙」を、水面下で完璧に研ぎ澄ましておかなければならないのだ。
準備を終えて実家に戻ると、時刻はちょうど正午を回ったところだった。
玄関のドアを開けた瞬間、甘ったるい酢飯の匂いと、居間からのけたたましい笑い声が耳に飛び込んできた。
「あら、栞。ずいぶん遅かったじゃないの」
リビングのソファにふんぞり返った母・恵津子が、出前の高級寿司の桶をつつきながら、眉を吊り上げて私を見下ろした。
隣には、すでにセリーヌのバッグを膝の上に抱え、嬉しそうに中トロを頬張る莉乃の姿がある。
「高校で進学辞退の手続きを、正式に完了させてまいりました」
私が靴を揃え、居間の敷居の手前で深く頭を下げると、二人の顔に下品な安堵が広がった。
「そう、ご苦労様。これでようやく、真壁家の未来が開けたわ」
恵津子は誇らしげに胸を張り、テーブルの上に置かれた一通の速達封筒を指差した。
「さっきね、大学の後援会から連絡があったのよ! あんたが辞退して浮いた学費枠の五百万円を、莉乃の補欠順位繰り上げのための『特別寄付金』として即日振り込む約束をしたら、一発で合格通知が届いたわ! 名門・帝都女子大学の文学部よ! これであの子も、一流のお嬢様たちの仲間入りだわ!」
「お母さん、すごーい! 莉乃、本当に女子大生になれちゃうんだね!」
莉乃が黄色い歓声を上げ、寿司桶の上で飛び跳ねるように喜ぶ。
帝都女子大学――伝統ある名門校だが、裏を返せば、資産家や良家の子女が集まる、極めてプライドと水準の高い閉鎖的な学舎だ。
親の寄付金の力で無理やり滑り込んだところで、講義のレベルも周囲の学生の教養も、莉乃の薄っぺらな頭脳では太刀打ちできるはずがない。
五百万円という大金を注ぎ込んで買ったのは、栄光のチケットなどではない。自らの無能さを毎日晒し上げるための、公開処刑台の入場券だ。
「莉乃ちゃん、本当におめでとう。お母さんも、長年のご苦労が報われましたね」
私は微笑みを絶やすことなく、優しく二人に寄り添った。
「私は高卒としてこの家に残り、家の家事全般と、莉乃ちゃんが大学生活を快適に送れるよう、身の回りのサポートを全力で務めさせていただきます。お父さんのお仕事の支度も、これからは私がすべて引き受けますから、お母さんはどうぞ、ゆっくりなさってください」
完璧な、無私の奉仕者の言葉。
恵津子は満足そうに鼻を鳴らし、残っていたマグロの赤身を口に放り込んだ。
「ふん、最初からそうやって殊勝にしていれば可愛げがあるのよ。あんたは昔から勉強ばかりして、親をバカにしているような目つきをしていたからね。これからは妹のために、しっかり家政婦として働きなさい」
「はい、お母さん」
疑い深かった毒親の警戒心は、私の完璧な「従順な敗北宣言」によって、跡形もなく霧散していた。
その夜、帰宅した父・宗治もまた、退職後の老後資金が目減りしたことには一抹の不安を覗かせながらも、「栞が納得して家に残るなら、家庭も丸く収まるだろう」と、いつもの事なかれ主義で全てを肯定した。
真壁家の中で、私は完全に「無害で従順な影」としての擬態を完成させたのだ。
――だが、その平穏が偽りであることを、莉乃自身が露呈させるまでに、一週間もかからなかった。
四月の入学式を目前に控えた、ある日の午後。
自分の部屋で、私書箱から回収してきた簿記のテキストを開き、猛スピードで演習問題を解いていた私の耳に、ドタドタと階段を駆け上がってくる不快な足音が届いた。
バンッ!!
蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで、襖が開け放たれる。
「お姉ちゃん!! 大変、大変なの!!」
飛び込んできた莉乃の顔は、見事なまでに真っ青に染まっていた。
肩で激しく息をし、手には大学から届いたばかりの、重々しい厚紙のバインダーが握られている。
「どうしたの、莉乃ちゃん? そんなに慌てて」
私はテキストを素早く机の引き出しの書類の山の下へ滑り込ませ、心配そうに眉尻を下げて立ち上がった。
莉乃は涙目になりながら、バインダーを私の机の上に乱暴に叩きつけた。
「これ! さっき大学から届いたんだけど、なんなのこれ!? 意味わかんない!」
開かれたバインダーの表紙には、厳格なフォントでこう印刷されていた。
『新入生事前学習課題:教養基礎論文および英文学術論文の要約・批評リポート』
提出期限:四月五日(入学式当日、ガイダンス会場にて提出)
分量:日本語リポート四千字、英文学術論文要約二千語。
※本課題の評価は、入学直後に行われるクラス編成テストの成績に直結します。
莉乃は震える指先で、同封されていた英文論文のコピーを指差した。
「見てよこれ! 全部英語だし、文字が小さくてぎっしり詰まってるの! 日本語の課題だって『近代文学における自己同一性の変遷について論ぜよ』とか、意味不明な言葉ばっかり並んでる! こんなの、高校の授業でもやったことないよ!」
当然だ。帝都女子大学の文学部は、一般入試を突破した秀才たちであれば、高校の段階で基礎的な小論文対策を叩き込まれている。だが莉乃は、推薦入試の小論文ですら他人の解答を丸写しして提出し、それすらも不合格になったレベルの学力しかない。英文の読解など、一行たりともできるはずがなかった。
莉乃は私の腕にすがりつき、一周目でも何度も見せてきた、あの身勝手極まりない甘え声を上げた。
「ねえ、お姉ちゃん! これ、お姉ちゃんが代わりにやってよ! お姉ちゃんなら英語得意だし、本もいっぱい読んでるから、こんなの二、三日で書けるでしょ? お願い! 莉乃、明日からお友達とお買い物の約束があるの!」
他人の時間と労力を奪うことを、息を吸うのと同じくらい当然のことだと思っている。
一周目の私は、ここで断れば母に怒鳴られる恐怖から、徹夜で辞書を引き、四千字の論文と二千語の英語要約を完璧に書き上げて渡した。その結果、莉乃は最上位クラスに入り、そこで授業に一切ついていけなくなって、結局「課題の代行」を卒業まで私に押し付け続けることになったのだ。
だが、今の私は違う。
私はすがりついてくる莉乃の手を、優しく、しかし確固たる力でそっと押し戻した。
そして、この上なく困り果てたように眉根を寄せ、申し訳なさそうに視線を落とした。
「……ごめんなさい、莉乃ちゃん。私には、とても無理だわ」
「え……? なんでよ! お姉ちゃんならできるでしょ!?」
「だって、私……高卒だもの」
私は自嘲するように、弱々しく首を横に振った。
「大学の推薦を辞退してからは、家の掃除やお料理の勉強ばかりしていたの。高校の勉強なんて、もうすっかり忘れちゃったわ。それに、帝都女子大学の論文なんて……私みたいな高卒の頭じゃ、専門用語が難しすぎて一行も理解できない。せっかく名門大学に入った莉乃ちゃんの大切な課題を、私が適当に書いて台無しにしてしまったら、お母さんに顔向けできないもの」
一分の隙もない、完璧な「無能力」の主張。
悪意もなければ、皮肉もない。ただ、自らの立場を極限まで低く見積もり、相手の課題の重要性を持ち上げることで、一切の反論の余地を封じ込める高度な防壁。
莉乃の顔が苛立ちに歪んだ。
「な、何言ってるのよ! お姉ちゃん、高校の時は学年トップだったじゃない! ちょっと辞書引けば書けるでしょ!? 意地悪しないでよ!」
「意地悪なんかじゃないのよ、莉乃ちゃん」
私は懇願するように両手を胸の前で組んで見せた。
「本当に、分からないの。もし私が間違った英語で書いて、莉乃ちゃんが入学早々恥をかいたらどうするの? 名門大学の先生方は目が肥えているわ。他人に書かせた文章なんて、すぐに見破られて退学になってしまうかもしれないのよ? 莉乃ちゃんのためを思うからこそ、私なんかが手を出してはいけないの」
「っ……! 使えない!!」
莉乃は激昂して足を踏み鳴らし、机の上のバインダーを乱暴にひったくった。
「お姉ちゃんのくせに、何一つ役に立たないじゃない! もういい! お母さんに言いつけてやるんだから!」
莉乃は怒鳴り散らしながら、階段を駆け下りていった。
階下から、「お母さーん! お姉ちゃんが意地悪して課題手伝ってくれない!」という甘えた叫び声が響く。
だが、続いて聞こえてきたのは、母・恵津子の意外な声だった。
「ちょっと莉乃、何を甘えてるの! 高卒の栞にそんな難しい論文が書けるわけないでしょう! あの子に書かせてヘマをやらかされたら、真壁家の恥になるわよ! あんたが自分でネットで検索して、適当にそれらしいのをまとめなさい!」
階下のやり取りを聞きながら、私は冷たい笑みを深く刻んだ。
恵津子の歪んだ見栄とプライドが、見事に莉乃の逃げ道を塞いでくれたのだ。
「高卒の長女は無能でなければならない」という母自身の思い込みが、莉乃への助け舟を自ら叩き折った。
ドスドスと足音を響かせ、自分の部屋に閉じこもった莉乃の気配が伝わってくる。
あの子が取る行動など、手に取るように分かっていた。
自力で辞書を引いて勉強するなどという骨の折れる作業を、莉乃ができるはずがない。
せいぜい、ネット上に転がっている無名ブログの解説記事や、海外サイトの翻訳文を適当に切り貼り(コピペ)し、語尾だけを少し変えて提出するのが関の山だ。
(せいぜい、お粗末な切り貼りレポートを提出しなさい)
帝都女子大学の文学部教授陣は、剽窃(盗作)に対して極めて厳格だ。
入学直後のクラス編成テストと照らし合わされれば、提出されたレポートの語彙力と本人の実力の乖離など、一瞬で露呈する。
莉乃を待っているのは、最下位の補習クラスへの配属と、教員たちからの冷ややかなマーク。
自力で立つことのできない寄生虫が、最初に味わうべき当然の報いだ。
静まり返った部屋の中で、私は机の引き出しから、隠していた一冊の黒い革表紙のノートを取り出した。
ペンを走らせる。
『第1段階:進学枠および学費の投棄・譲渡完了』
『第2段階:家庭内における完全無害化の達成』
『第3段階:自立資金の防衛(貸金庫開設完了)』
ノートのページに並ぶチェック項目に、黒いインクで横線を引いていく。
すべては、狂いなく、予定通りに進んでいた。
そして、次の行に記された文字――。
『第4段階:資金源の確保、および黒木蓮との接触』
私は窓の外、夕暮れに染まり始めた街並みを見つめた。
雑居ビルの合間、路地裏の奥深くに佇む、あの古びたアンティークサロン『Noir』。
一周目のあの日、冷たい雨の石畳の上で、私の手を強く握りしめてくれた男。
警察に再捜査を訴え、私の死を唯一悼んでくれた、あの青年の元へ向かう時が来たのだ。
「待っていて、黒木さん」
私はノートを静かに閉じ、貸金庫の鍵を胸の奥で確かめた。
復讐の歯車は、確実に、そして残酷に噛み合い始めている。




