第2話:18歳の春、毒の芽吹く朝
湿り気を帯びた古い畳の匂いと、障子越しに差し込む白々とした春の光。
肌を撫でる空気は冷たく、けれどあの非常階段の踊り場で私の全身を苛んだ、死の氷雨とは明らかに違っていた。
私は布団の上に正座し、自分の両手をじっと見つめた。
傷一つない、白く滑らかな皮膚。
爪の先は桜色で、火傷の跡も、重い荷物を運び続けて骨が太くなった無骨さもない。十代の少女特有の、柔らかさを保ったままの手だった。
枕元の机に置かれた小さなカレンダーへ、恐る恐る手を伸ばす。
二〇××年、三月二十五日。
高校の卒業式を終えてから一週間が過ぎた、あの日の朝だ。
(本当に……戻ってきたんだ)
胸の奥底で、冷え切った炎が静かに爆ぜる音がした。
あれは悪夢などではなかった。私は確かに二十代半ばまで生き、義妹の引き立て役として家事とSNSの裏方を押し付けられ、最愛だと思っていた婚約者・相沢航太を寝取られ、そして結婚式前夜の非常階段から突き落とされて殺されたのだ。
後頭部を石畳に打ち付けた瞬間の鈍い音、溢れ出す血の温かさ、そして駆け寄ってきた見知らぬ青年――黒木蓮が私の手を握りしめ、魂を削るように叫んだ声。そのすべてが、昨夜のことのように鮮烈に焼き付いている。
ドンッ、と乱暴な音を立てて、部屋の襖が開け放たれた。
ノックなどあるはずもない。この家において、長女である真壁栞の領域にプライバシーなどという概念は存在しなかった。
敷居を跨いで入ってきたのは、淡いピンク色のパジャマを着た義妹・真壁莉乃だった。
高校を卒業したばかりの彼女は、まだ垢抜けない幼さを残しながらも、すでに周囲の大人の庇護欲をそそる「儚げな美少女」の仮面を巧みに使いこなしていた。
その華奢な両手には、昨夜私の机の上に届いたばかりの、分厚いパンフレットと封書がしっかりと握りしめられている。
「ねえ、お姉ちゃん。起きてた? ちょうどよかった」
莉乃は足音を立てて私の机に近づくと、封筒から引っ張り出した艶やかなパンフレットを、私の鼻先に突きつけてきた。
表紙には、誰もが知る都内最難関の私立名門大学のシンボルマークが金色に輝いている。
高校三年間、私が睡眠時間を削り、学年トップの成績を維持し続けて勝ち取った『指定校推薦合格通知書』だった。
「これさ、お姉ちゃんの大学のパンフでしょ? すっごい綺麗。キャンパスも表参道の近くだし、通ってる学生もみんなお金持ちでキラキラしてるんだってね」
莉乃は無邪気さを装った瞳を輝かせ、信じられないほど図々しい言葉を、いとも自然に紡ぎ出した。
「あのさ、この大学の枠とお祝いのセリーヌのバッグ、莉乃にちょうだい?」
――一周目と、一言一句違わない台詞。
私の喉の奥から、乾いた笑いが込み上げてきそうになった。
人間というものは、環境が変わらなければ、本当に同じ選択を繰り返すらしい。
一周目の私は、この言葉を聞いた瞬間、血の気が引いて激しく取り乱した。
『何を言っているの!? これは私が三年間必死に勉強して取った推薦なのよ! バッグだって、おばあちゃんが合格祝いにって買ってくれた大切なものなのに!』と、涙を流して必死に抗議したのだ。
だが、その叫びは真壁家において、何の意味も持たなかった。
「ちょっと、朝から何を騒いでるの」
廊下からスリッパの足音を響かせ、エプロン姿の母・恵津子が部屋に入ってきた。
手にはフライパン返しのヘラを持ったまま。眉間には深い皺が刻まれ、その苛立ちの矛先は、最初から私一人だけに定められていた。
「莉乃が大きな声を出したら、心臓に障るでしょう。栞、あんたまた妹をいじめてるんじゃないでしょうね?」
「いじめてなんかないよ、お母さん」
莉乃が素早く恵津子の背中に回り込み、パジャマの袖を掴んで上目遣いに訴えかける。
「私ね、お姉ちゃんに相談してただけなの。私、行きたい大学全部落ちちゃって……滑り止めの短大の補欠しか残ってないでしょ? でも、あんな地味な短大に行ったら、高校の友達に笑われちゃうもん。お姉ちゃんの大学、すっごく素敵だから、私が行きたいなって思っただけなのに……」
ぽろぽろと、計算され尽くした涙が莉乃の頬を伝う。
それを見た恵津子の顔が、一瞬で鬼のように険しくなった。
「当たり前じゃないの。栞、あんた何をもったいぶってるの?」
恵津子は私の机の上に置かれた合格通知書を乱雑にひったくると、値踏みするように眺めた。
「真壁家の家計はね、お父さんの安月給のせいで火の車なのよ。私立大学の学費なんて、子供一人分払うのが限界なの。それはあんたも知ってるでしょう?」
「……ええ、知っています」
私は伏し目がちに、静かに答えた。
恵津子の言う「火の車」の半分以上は、見栄っ張りな彼女が近所の主婦仲間に対抗して買い漁るブランド品のローンと、莉乃の「気晴らし」のための贅沢な外食費によるものだった。父の宗治は中堅企業の課長で、決して貧しいわけではない。だが母は、世間体のために家庭内を常に貧困の危機に仕立て上げ、その皺寄せのすべてを長女である私に押し付けていた。
「莉乃は体が弱くて、繊細な子なのよ。学歴や世間体という看板がなかったら、この先どうやって生きていくっていうの? その点、あんたは昔から図太くて要領がいいんだから、高卒でどこかの事務にでも就職すればいいじゃない。女の子が高学歴になったって、生意気配りされるだけよ」
恵津子はため息混じりに、まるでそれが世界の普遍的な真理であるかのように言い放った。
「日本の大学はね、他人の名義で通うことなんてできないわ。そんなことくらい私だって分かってる。だからね、あんたがこの名門大学の合格を『家庭の経済的理由』で正式に辞退するのよ。そうすれば、真壁家が用意していたあんたの入学金と四年間の学費――五百万円が丸々浮くでしょう?」
恵津子の瞳に、浅ましい打算の光がぎらぎらと宿る。
「その浮いた学費を、莉乃の補欠待ちの大学の繰り上げ納付金と、後援会への特別寄付金枠に全額スライドさせるのよ! 寄付金を積めば、莉乃だって名門の補欠から一発で繰り上がるわ。そうすれば真壁家の名誉も保たれるし、莉乃も傷つかずに済む。家族のために、それくらいするのが長女の務めでしょう?」
恐ろしいほどの詭弁だった。
他人の合格枠を直接奪うことはできない。だからこそ、長女の進学の道を完全に断ち切らせ、そのために用意されていた資金のすべてを、無能な妹の下駄を履かせるための金に換える。
妹のために、姉の人生を丸ごと踏み台にする。
この人たちは、それを「家族の助け合い」と呼んで疑わなかった。
一周目の私は、この理不尽に激しく泣き崩れた。
『嫌よ! どうして私ばかり我慢しなきゃいけないの!? 莉乃は勉強もサボって遊んでばかりいたじゃない!』と訴えたのだ。
その結果どうなったか。
父の宗治は『妹を思いやれない冷酷な娘だ』と軽蔑の目を向け、母の恵津子は『誰のおかげでここまで育ててもらったと思ってるんだ』と一週間にわたって食事を抜く制裁を加えた。そして衰弱した私を精神的に追い詰め、無理やり進学辞退届に署名させたのだ。
結果として私はすべてを奪われ、そのくせ家庭内では「恩着せがましい穀潰し」として扱われ続けた。
だが――今の私には、怒りすら湧いてこなかった。
胸にあるのは、北極の氷床のように冷徹で、静謐な計算だけだった。
(どうぞ、お好きに)
莉乃の頭脳では、名門大学の講義など一分たりとも理解できるはずがない。
一般教養のレポート一本すら自力で書けず、語学の単位を落とし、いずれ惨めな自滅を迎えるだけだ。
五百万円という、真壁家のなけなしの教育資金。それを丸ごとドブに捨てるための特攻隊長に、莉乃自らが名乗りを上げているのだから、止める理由がどこにあるだろう。
「……それに、お母さん」
莉乃が追い討ちをかけるように、私の部屋のクローゼットの棚を指差した。
そこには、白い不織布に丁寧に包まれた、革のハンドバッグが置かれていた。
「あのお祝いのセリーヌのバッグも、お姉ちゃんが高卒で就職するなら必要ないよね? 莉乃が大学に持っていったら、みんなに『お洒落だね』って褒めてもらえると思うの!」
そのバッグは、半年前、他界した母方の祖母が「栞ちゃん、推薦合格おめでとう。大学に行ったら、きちんとした良いものを持ちなさいね」と、なけなしの年金を崩してプレゼントしてくれた、上質なボックスカーフレザーのクラシックバッグだった。
水濡れに弱く、毎日の丁寧なブラッシングと定期的なオイルケアを欠かせば、あっという間に傷んでしまう、繊細で本物の名品。
莉乃はブランドのロゴと見栄えしか見ていない。
革の手入れの仕方など知りもしないし、知ろうともしないだろう。
雨の日に振り回し、床に直置きし、ファンデーションの手で触り、数ヶ月もすれば見るも無惨なゴミ屑に変えるに決まっている。
祖母の形見を奪われる痛みが、胸の奥をチクリと刺した。
けれど、私はその感情すらも、冷たい理性の底へと沈めた。
形見を汚されるのは悔しい。だが、このバッグこそが、莉乃が「本物を扱う器量のない偽物」であることを衆目に晒すための、最初の撒き餌になる。
恵津子が勝ち誇った顔で、私に最後通告を突きつけてくる。
「決まりね。栞、今日の午前中に高校へ行って、進学辞退の手続きをしてきなさい。先生には『家庭の事情で就職することになりました』とだけ言えばいいわ。余計なことを言ったら承知しないからね」
恵津子も莉乃も、私がいつものように泣き叫び、懇願し、抵抗することを予想して身構えていた。
無理やりねじ伏せるための罵倒の言葉を、口元に蓄えて待ち構えていた。
だからこそ――。
私は布団から静かに立ち上がり、乱れたパジャマの裾を整えると、二人に向かって深々と、完璧な角度でお辞儀をした。
そして、顔を上げ、この上なく穏やかで清らかな、春の陽だまりのような微笑みを浮かべた。
「わかりました、お母さん」
「……は?」
恵津子の口から、間抜けな声が漏れた。
莉乃も目を白黒させ、突き出していたパンフレットを持ったまま固まっている。
「ええ、お母さんの言う通りです。真壁家の長女として、家計を支えるのは私の役目ですものね。莉乃ちゃんは体が弱いですし、名門大学の学歴があれば、将来きっと素敵な殿方とご縁があるはずです。私の学費枠がそのお役に立てるなら、喜んでお譲りします」
一分の淀みもない、滑らかな言葉。
怒りの色も、皮肉の響きも、絶望の涙すらもない。
あまりにも完璧な「物分かりのいい娘」の態度に、恵津子は拍子抜けしたように眉をひそめた。
「あ、あんた……本当にいいのね? 後からやっぱり大学に行きたかったなんて、泣き言を言っても絶対に許さないわよ?」
「ええ、言いません。すべて私の意志で辞退いたします。高校の担任の先生にも、家庭の経済状況を理由に、円満に辞退する旨をお伝えしてきますね」
私はさらに歩み寄り、クローゼットの棚からセリーヌのバッグを両手で恭しく取り出した。
不織布のカバーを外し、美しい艶を放つ黒い革のバッグを、両手で莉乃の前へと差し出す。
「莉乃ちゃん、このバッグも使って。おばあちゃんが選んでくれたとても上質な革だから、大切に使えば一生ものよ。名門大学に通う莉乃ちゃんにこそ、相応しいわ」
「えっ……! ほ、本当に!? いいの!?」
莉乃の顔に、下品なまでの歓喜の色が広がった。
彼女は私の手から乱暴にバッグをひったくると、鏡の前に駆け寄り、パジャマ姿の肩に掛けてポーズを取った。
「わあ、すっごく可愛い! やっぱり似合う〜! お姉ちゃん、物分かり良くなって嬉しい! ありがとう!」
飛びついて抱きついてくる莉乃の体。
甘ったるい香水の匂いと、華奢な少女の体温が伝わってくる。
その背中に、私はそっと手を添えた。慈愛に満ちた姉を演じながら、指先一つ震わせることなく。
(ええ、喜んでくれてよかったわ、莉乃)
私の腕の中で無邪気に笑う妹の耳元に、声には出さず、心の中で静かに囁きかける。
(せいぜい今のうちに、奪った勝利の美酒に酔いしれなさい。
努力もせず、身の丈にも合わないものを手に入れた人間が、どうやって破滅していくか……特等席で見せてあげるわ。
あなたが手に入れたその大学も、そのバッグも、これから奪う男も、手柄も……ぜんぶ、ぜんぶ。
あなたの首を絞め上げる、猛毒の縄になるのだから)
恵津子は、不気味なほど従順な私の態度に一瞬だけ居心地悪そうな視線を彷徨わせたが、すぐに「最初からそうしていれば可愛げがあるのに」と鼻を鳴らし、リビングへと戻っていった。
莉乃もまた、鏡の前でバッグを抱きしめたまま、早くもスマートフォンで友達に自慢のメッセージを打ち始めている。
部屋に残された私は、静かに学習机の引き出しを開けた。
奥の底板をずらし、隠してあった一通の封筒を取り出す。
高校三年間、早朝の新聞配達と休日の清掃アルバイトで、親に内緒で貯め続けてきた『私名義の秘密口座』の通帳と届出印。
残高は、約八十万円。
親に知られれば即座に没収される、私の血と汗の結晶だ。
(まずは、このお金を安全な場所へ移すこと)
郵便局の貸金庫を契約し、通帳と印鑑を実家から完全に隔離する。
そして、高卒で就職したふりをしながら、通信制の講座でWebデザイン、マーケティング、そして商業簿記の資格を取得する。
莉乃が大学という名の見栄の檻で窒息していく間に、私は着実に、誰にも奪われない「本物の力」を蓄えるのだ。
そして――。
私の脳裏に、あの冷たい雨の夜、私の手を骨がきしむほど強く握りしめてくれた、漆黒のコートの青年が蘇った。
『死ぬな……! 頼むから目を開けろ! 栞!!』
黒木蓮。
一周目では名前すら知らなかった、けれど私の死に唯一涙を流し、真相を追おうとしてくれた男。
彼は今、どこにいるのだろう。
記憶が確かなら、彼はこの街の片隅で、古いアンティークを扱う店を開いているはずだ。
「待っていて、黒木さん」
私は窓の外、まだ冷たい春風に揺れる桜の蕾を見つめ、静かに呟いた。
「二度目の人生、私は絶対に死なない。
奪われたものすべてを、あの人たちの破滅と引き換えに……私の手で、完璧に取り戻してみせるから」
机の上の合格通知書を、私は迷うことなく、自らの手で真っ二つに引き裂いた。
破滅のドミノが、音を立てて倒れ始めた。




