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第1話:ウェディングドレスと冷たい石畳

冷たい雨が、容赦なく吹き込んでいた。


都内の一等地に聳え立つ老舗ホテル――その非常階段の踊り場は、華やかな本館の喧騒から切り離された、まるで墓場のような冷気に満ちていた。

コンクリートの壁は湿り気を帯びて黒ずみ、ビルの隙間を縫う夜風が、金属製の手すりを低く震わせている。


カツン、と乾いたヒールの音が響いた。


踊り場の中央に立つ義妹・真壁莉乃は、床に届くほどの豪奢な純白のウェディングドレスを身に纏っていた。幾重にも重ねられた繊細なシルクオーガンジーに、職人の手で縫い付けられた無数のビーズが、非常誘導灯の淡い緑色の光を反射して怪しく明滅している。

明日、このホテルで最も格式の高い大宴会場で執り行われる、相沢航太との披露宴。その主役に相応しい、息を呑むほど完璧な花嫁姿だった。


だが、その豪奢なドレスの裾を雨水で汚さないよう、冷たい石畳に膝をついて必死に押さえている私の姿は、あまりにも対照的だった。

着古した安物のリクルートスーツ。雨に打たれて額に張り付いた髪。両手の指先は、明日使う引き出物の搬入や、莉乃の衣装のアイロンがけ、装花の最終チェックに追われ、擦り傷と火傷の跡で赤く腫れ上がっている。


「ねえ、お姉ちゃん。ちゃんと綺麗に広げてよ。明日の本番でシワになってたら、航太さんに合わせる顔がないじゃない」


頭上から降ってきたのは、鈴を転がすような、あまりにも甘ったるい声だった。


「……ええ、わかっているわ、莉乃ちゃん。裾は汚れていないから、安心して」


私は擦り切れそうな喉から声を絞り出し、冷え切った指先でドレスのトレーンを整えた。

明日、私の最愛の人だった男と結婚する義妹。

かつて私の婚約者だった相沢航太は、半年前、私に向かって平然と言い放ったのだ。


『栞さん、すまない。君は一人でも生きていける強い人だ。でも莉乃ちゃんは……僕が守ってあげないと壊れてしまうんだ』


その言葉を聞いたとき、私の心は一度死んだ。

けれど、家族のため、妹のため、私はその裏切りすらも飲み込んできたのだ。


物心ついた頃から、私の人生はいつも『お下がり』だった。

お気に入りのワンピースも、誕生日にもらった文房具も、祖母が買ってくれた革のランドセルも。莉乃が小さな唇を尖らせて「お姉ちゃん、それ莉乃にちょうだい?」とおねだりすれば、母の恵津子は即座に私の手を叩き、それを奪い取って莉乃に与えた。


『お姉ちゃんなんだから我慢しなさい』

『莉乃は体が弱いのよ。お姉ちゃんが譲ってあげるのは当たり前でしょう?』


それが真壁家の絶対的な掟だった。

大学への進学を諦めさせられたのも、莉乃の私立高校の学費のためだった。

それでも私は、家族の役に立ちたかった。家族に愛されたかった。

だから、莉乃が「インフルエンサーになりたい」と言い出したときも、私は自らの卓越した家事と料理の腕、空間デザインのセンスを惜しみなく差し出した。

毎朝四時に起きて作ったプロ顔負けの朝食、丁寧に引いた出汁の和食、季節の草花を飾ったテーブルコーディネート。そのすべてを、莉乃は自分のスマートフォンで撮影し、さも自分が作ったかのようにSNSへ投稿した。


フォロワー三十万人を誇るライフスタイル系アカウント『Rino_Life』。

その裏で、すべてのレシピを考案し、すべての手芸品を縫い、すべてのスタイリングを手掛けていた「中の人」が自分であることなど、誰にも言わなかった。

莉乃が称賛を浴びることで、家族が笑顔になるなら、それでいいと信じ込んでいたのだ。


それなのに――。


「莉乃ちゃん、明日の段取りはすべて式場のスタッフと共有してきたわ。親族の控え室の場所も、スピーチの順番も。だから、もう部屋に戻りましょう。風邪を引いたら大変よ」


私が立ち上がり、冷たい息を吐きながら告げると、莉乃はふっと表情を消した。


緑色の誘導灯に照らされたその瞳に、ドス黒い、底知れぬ悪意が宿る。


「ねえ、お姉ちゃん。本当にわかってないんだね」


「……え?」


「明日の結婚式のことだよ。航太さんの会社の上司や同僚、それに私のフォロワーの代表も招待してるの。……ねえ、お姉ちゃんが会場にいたら、どうなると思う?」


莉乃は一歩、私へと詰め寄ってきた。高いヒールの音が、非常階段の壁に反響する。


「お姉ちゃんの手、見てよ。指先、傷だらけじゃない。私のSNSの動画で映ってる『手元』と、お姉ちゃんの手……誰かが見比べたら、もしかして中の人はお姉ちゃんなんじゃないかって、疑われちゃうかもしれないでしょ?」


「そんなこと……誰にも言わないわ。今までだって、一度も口外したことはないでしょう?」


「信用できるわけないじゃない!」


突然、莉乃が甲高い声を張り上げた。その声はヒステリックに割れ、剥き出しの狂気が滴っていた。


「お姉ちゃんはいつだってそう! 私より上手に料理を作って、私より上手に服を縫って、いつも『私がやってあげてる』って顔をして! 航太さんだってそうよ! あの人、時々私の手料理を食べて『前の味付けと少し違うね』なんて言うのよ!? あんたの影が、私の完璧な人生にチラつくの! 邪魔なのよ!!」


心臓が、冷たい氷で握りつぶされたように凍りついた。

目の前にいる少女は、私が守り、慈しみ、すべてを譲ってきた「可哀想で病弱な妹」などではなかった。

ただの――肥大化した見栄と承認欲求の化け物だった。


「莉乃、あなた……何を言って――」


「お姉ちゃん、明日、来ないで」


莉乃は冷たく、残酷な笑みを浮かべた。


「でも、欠席なんてしたら、親族や航太さんの親が不審に思うでしょ? だからさ……消えてよ」


「……っ!?」


逃げようと足元を引いた瞬間だった。

純白の手袋をはめた莉乃の両手が、私の胸元を思い切り突き飛ばした。


体が宙に浮いた。

視界が上下に反転する。

コンクリートの急な傾斜。金属製の手すりの冷たさ。

手を伸ばしたが、虚しく空を切った。


――ドガンッ!!


激しい衝撃が、全身の骨を粉砕した。

階段の角に背中を打ち付け、さらに何段も転がり落ち、最後は踊り場の冷たい石畳に頭部を強打した。


「ぐ、っ……あ……」


生温かい液体が、後頭部からとめどなく溢れ出し、冷え切った床へと広がっていく。鉄の匂い。

視界が急速に赤く染まり、体の感覚が足先から消え失せていく。肺が潰れ、呼吸ができない。激痛すらも、急速に遠のいていく。


「……莉乃! 大丈夫なの!?」


階段の上から、ヒステリックな足音とともに駆け下りてくる人影があった。

母の恵津子と、父の宗治だった。


(お母さん……お父さん……助けて……救急車を……)


私は血にまみれた右手を、かすかに持ち上げようとした。

けれど、二人の視線は、倒れ伏す私には一瞥も向けられなかった。


「莉乃! 怪我はない!? 手は!? ドレスは汚れてないでしょうね!?」


恵津子は血だまりの脇を飛び越え、階段の上で立ち尽くす莉乃の体を抱きしめた。


「う、うん……大丈夫。お姉ちゃんが、急に足を滑らせて……私、止めようとしたんだけど……」


莉乃が嘘泣きの声を上げる。

父の宗治は、足元で血を流す私を見下ろした。その瞳にあったのは、娘を失う悲しみなどでは断じてなかった。

安堵と、計算だった。


「……息が、止まりかけているな。救急車を呼んだら警察沙汰になる。明日の式にケチがつくぞ」


「そうね、お父さん! 事故よ、これは! 栞が不注意で階段から落ちた事故! これで安心ね……あの子が余計なことを喋る心配もなくなったわ。世間体も傷つかない」


恵津子の口元に浮かんだのは、冷笑だった。


「莉乃、部屋に戻りましょう。メイクを直さなきゃ。あの子のことは、式が終わった後に『探したら階段の下で倒れていた』とでも証言すればいいわ」


「うん、お母さん……♡」


三人の足音が、階段を上がっていく。

遠ざかる背中。

涙すら出なかった。流れるのは、ただ頭から溢れる血ばかりだった。


ああ――そうだったのか。

私は最初から、家族ですら scaled なかったのだ。

愛されていたことなど、一度もなかった。

私はただ、妹の人生を輝かせるためのスペア。便利に使い潰されるだけの、捨て駒。


(許さない……)


冷え切った石畳の上で、声にならない怨嗟が胸を満たした。


(許さない、絶対に……! 私の人生を、私の努力を、私の尊厳を……ぜんぶ踏み躙ったあんたたちを……絶対に許さない……!!)


視界が真っ暗に閉ざされようとした、その時だった。


――バァァァンッ!!


暴力的な破砕音とともに、非常階段の重厚な鉄の扉が蹴破られた。

吹き込む暴風雨の中、一人の男が転がるように階段を駆け下りてくる。


誰だ。ホテルのスタッフか? それとも――。


「おい! 目を開けろ!!」


耳元に響いたのは、胸を掻き裂くような、悲痛な叫び声だった。

雨に濡れた漆黒のコート。端正な顔立ちを苦悶に歪ませた見知らぬ青年が、私の血だまりの中に躊躇なく膝をついていた。高価そうなスーツの裾が、私の血で赤黒く染まっていくのも構わずに。


男は震える両手で、私の冷え切った右手を強く、骨がきしむほど強く握りしめた。


「死ぬな……! 頼むから目を開けろ! 栞!!」


なぜ、この人は私の名前を知っているのだろう。

一度も会ったことのないはずの青年。

けれど、男の手から伝わってくる熱だけが、冷たく凍りついた私の世界で、唯一本物の温もりだった。


「誰か来い! 救急車を呼べ!! 早くしろッ!!」


男の怒号が、遠ざかる意識の彼方で反響する。

視界は完全に光を失い、私の心臓は、最後の弱々しい鼓動を打って――止まった。


最後に耳元に残ったのは、男の絶望に満ちた叫び声と、私の手を握りしめる熱い感触だけだった。


暗闇。

永遠の静寂。


――ジリリリリリリリリリリリッ!!!


鼓膜を破らんばかりの、耳障りな金属音が鳴り響いた。


「っ……!?」


私は跳ね起きるようにして上体を起こした。

激しい動悸。喉が張り付き、ヒューヒューと掠れた呼吸が漏れる。

冷や汗が全身を濡らし、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく鐘を打っていた。


手首を押さえる。脈がある。

頭に手をやる。血は流れていない。石畳の冷たさも、骨が砕ける激痛もない。


荒い息を吐きながら、私は呆然と周囲を見渡した。


六畳間の和室。

壁に貼られた、高校の年間行事予定表。

机の上に置かれた、小さな目覚まし時計。

ベルをけたたましく鳴らし続けるその時計を、震える手で止める。


時計の針は、午前六時三十分を指していた。

そして、卓上カレンダーに赤ペンで丸がつけられた日付――。


『二〇××年 三月二十五日』


「……嘘」


声が震えた。

高校の卒業式を終えて数日後。

私が推薦入試で勝ち取った、難関私立大学の合格書類が届いた――あの春の朝だった。


ドンッ、と乱暴に部屋の襖が開いた。


ノックもなしに入ってきたのは、パジャマ姿の義妹・真壁莉乃だった。

まだ化粧もしていない、幼さの残る顔。

手には、昨夜私の机の上に届いていたはずの、分厚い大学の入学案内パンフレットが握られていた。


莉乃は一周目とまったく同じ、無邪気で残酷な、あの甘ったるい笑みを浮かべて口を開いた。


「ねえ、お姉ちゃん。起きてた? あのさ……その大学の枠とお祝いのセリーヌのバッグ、莉乃にちょうだい?」


全身の血液が、一瞬で沸騰し、次の瞬間には絶対零度へと凍りついた。


夢ではない。

私は――戻ってきたのだ。

あの日、あの冷たい石畳の上で命を奪われた、すべての始まりの場所へ。


私は俯いたまま、ゆっくりと拳を握りしめた。

爪が手のひらに食い込み、確かな痛みが現実を教えてくれる。


もう二度と、泣いて縋る哀れな姉にはならない。

もう二度と、家族の愛を求めて自分を差し出す愚か者にはならない。


欲しいなら、あげましょう。

私の合格枠も、お気に入りのバッグも、いずれ現れるあの薄っぺらい男も、虚飾に塗れた栄光も。

ぜんぶ、ぜんぶ譲ってあげる。


――破滅への特等席ごと。


私は顔を上げ、唇の端を吊り上げて、かつてないほど清らかで完璧な笑みを浮かべた。


「ええ、いいわよ。ぜんぶ莉乃ちゃんにあげる」

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