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第57話:本物のクリエイターとして――陽光に還る糸と真実の喝采

あの海辺の古い別邸で、潮騒を聞きながら温かい野菜スープを飲み、黒木蓮の胸の中で泣き崩れた夜から、季節は静かに巡っていった。


冬の張り詰めた空気は柔らかな春風へと解け、やがて初夏の若葉が陽光を浴びて青々と輝き始める頃。

渋谷の閑静な住宅街に佇むアトリエ『Atelier Shiori』の二階には、これまでの人生で一度も経験したことのない、穏やかで澄み切った時間が流れていた。


朝、鳥のさえずりで目を覚ます。

窓を開けると、緑の匂いを含んだ清々しい風が吹き抜け、白いリネンのカーテンを軽やかに揺らす。

階下に降りれば、一階の作業場にはオーク材の古材や、藍、茜、刈安といった天然の草木で手染めされた色とりどりの絹糸や亜麻布が、端正に整頓されて出番を待っている。


私は、息を吸い込み、机の前に座った。

手に取ったのは、かつて白紙のまま枕元に転がっていた革表紙のスケッチブックと、一本のデッサン用鉛筆。


(……描ける)


指先に迷いはなかった。

誰かの引き立て役になるためでもない。

妹の虚栄心を満たすためでもない。

そして――憎悪に身を焦がし、相手を破滅の特等席へ誘い込むための「罠」として仕掛けるためでもない。


純粋に、自分が美しいと感じるもの。

触れた人の心が、ふっと解き放たれるような温もり。

長い年月を経て風雨に耐えてきたアンティークの古材が持つ力強さと、現代のしなやかなテキスタイルが織りなす優しい調和。

描きたい景色が、あふれる泉のように次から次へと紙の上へと溢れ出し、鉛筆の先から流麗な線となって紡がれていく。


「いい顔になったな」


いつの間にか背後に立っていた蓮が、淹れたてのアールグレイのカップを作業台に置きながら、フッと目を細めた。

その瞳には、かつて復讐の共犯関係を結んだ時の冷徹な光など微塵もなく、愛おしげに私の手元を見守る深い温もりだけが宿っていた。


「黒木さんのおかげです。……私、やっと分かりました。私が本当に創りたかったものが」


「俺は何もしてねぇよ。お前が元々持っていた才能が、あるべき場所に戻っただけだ」


蓮は私の頭をぽんと軽く撫でると、カウンターに広げられていた展示会の企画書へと視線を落とした。

その書類の最上段には、佐久間湊が持ち込んできた、ある格式あるギャラリーの正式な契約書が置かれていた。


――そして、半年後。


***


初夏の強い日差しが街路樹の緑を鮮やかに照らし出す、六月の上旬。

銀座のメインストリートから一本入った、歴史ある近代建築の赤レンガビル。

国内外の著名な芸術家や工芸家が名を連ねる、都内屈指の格式を誇るアートギャラリー『Galerie d'Art SOU(ギャラリー創)』の正面エントランスには、朝早くから異様な熱気が立ち込めていた。


重厚な真鍮のイーゼルに立てかけられた、一枚の特大ポスター。

淡い生成りの手漉き和紙に、深みのある藍色の活版印刷で刻まれていた文字。


――真壁 栞 初個展『光の還る場所(Homecoming)』。


真壁、栞。

偽りのインフルエンサー名『Rino_Life』でも、誰かのゴーストライターとしての仮名でもない。

長年日陰に閉じ込められ、奪われ続けていた、私自身のたった一つの本名。


開場時間の午前十時。

ガラス張りの自動ドアが開かれた瞬間、待機列を作っていた人々が、波のように展示ホールへと流れ込んできた。


その来場者たちの顔ぶれは、極めて多様だった。

美術専門誌の批評家、大手百貨店のバイヤー、インテリアデザインの重鎮たち。

そして――半年前に日本中を震撼させた、あの帝国グランドホテルでの前代未聞の結婚式炎上劇を記憶している、一般の女性たちやネットユーザーの姿も少なからず混ざっていた。


彼女たちの多くは、最初は半信半疑だった。

あるいは、野次馬的な好奇心だったのかもしれない。

『あの稀代の詐欺インフルエンサー・真壁莉乃の裏で、本当にすべての作品を作っていたとされる姉』。

『ゴーストライターの被害者として話題になった人物が、本当にプロのクリエイターとして通用する実力を持っているのか』。

世間の好奇の目は、往々にして冷ややかで、ゴシップの残滓を求める残酷さを孕んでいるものだ。


――だが。


展示ホールのエントランスを一歩くぐり抜けた瞬間、ざわめいていた来場者たちの声が、潮が引くようにピタリと止まった。


「……っ」


誰かが、息を呑む音が響いた。


ホール全体に広がっていたのは、息を呑むほど静謐で、けれど圧倒的な生命力に満ちた「空間」だった。


高い天井からは、手紡ぎの亜麻糸を幾重にも編み込んだ巨大なファブリックインスタレーションが吊り下げられ、初夏の柔らかな自然光をフィルターのように透過して、床の上に波紋のような美しい陰影を投げかけている。

中央に設えられたリビングスペースには、百年前のヨーロッパの廃材から削り出された重厚なオークのテーブルと、日本の伝統的な刺し子技法を現代風に再構築した手縫いのクッションチェア。

荒削りな木の温もりと、ミリ単位で狂いなく縫い留められた精緻なテキスタイルが、奇跡のような調和をもって融合していた。


壁面には、草木染めの絹糸で縫い上げられた、四季の移ろいを描いたタペストリーの数々。

近寄って見れば見るほど、布の重なり、糸のテンション、色のグラデーションの計算され尽くした美しさに、圧倒的な技術の厚みが宿っていた。

写真のレタッチやフィルターによる誤魔化しなど、そこには一ミリも存在しない。

生の素材が放つ力強い質感と、作り手の魂が注ぎ込まれた確かな仕事の痕跡。


「す……すごい……」

美術雑誌の年配の批評家が、眼鏡を外してタペストリーの前に膝をつき、震える指先を布地の数ミリ手前まで近づけて感嘆の声を漏らした。

「これは……単なるハンドメイドの域を遥かに超えている。民俗工芸の伝統技法を完璧に咀嚼した上で、最先端の空間デザインへと昇華させている。……本物だ。本物の表現者の仕事だ」


展示ホールの奥、ラウンジスペースに用意されたレセプションコーナーもまた、来場者たちを驚嘆させていた。

テーブルの上に美しく並べられていたのは、栞自身がレシピを開発し、自らの手で仕込みを行った特製のフィンガーフードの数々。


旬の無花果と自家製リコッタチーズを乗せたハーブブレッド。

季節の山菜と白身魚をジュレで固めた、ガラス細工のように透明な一口テリーヌ。

そして、ほのかに柑橘の香りが広がる、焼き立ての小さなスコーン。


かつて莉乃が『今朝自分で作りました♡』と偽装して投稿し、世界中を騙していたあの料理たち。

だが、今、目の前にある料理は、冷たい仕出し弁当の詰め替えなどでは断じてなかった。

口に含んだ瞬間、素材本来の滋味が優しく舌の上に広がり、喉を通るたびに心まで温かくなるような、本物の手仕事の味。


「……あ」

一般の女性客の一人が、一口タルトを口に運んだ瞬間、その場に立ち尽くした。

その瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちる。


「私……ずっと、あのアカウントをフォローしてたんです」

女性は震える声で、連れの友人に語りかけた。

「あの時は、騙されたって知って本当にショックで……悲しくて仕方がなかった。でも、今、この空間を見て、このお料理を食べて……分かりました。

私が本当に好きだったのは、あの偽物の女の子なんかじゃなかった。

この布を縫って、この空間を作って、このお料理を考え出した……このお姉さんの心そのものに、私はずっと惹かれていたんだって……」


「ええ……本当に温かいわね。胸が苦しくなるくらい、優しい空間だわ」


ざわめきは、瞬く間に会場全体へと波及していった。

ゴシップ目当てでやってきた野次馬たちの冷やかしの空気は完全に消え去り、そこにあったのは、純粋な感動と、作品への深い敬意だった。

手帳を開いて熱心にメモを取るバイヤーたち。

展示されている家具や小物の前で、購入希望の予約票に次々と名前を書き込んでいく来場者たち。

ネットの数字という泡のようなものではない。

実体のある作品を通して、作り手の魂と受け手の心が、確かに結びついていく本物の手応え。


展示ホールの中心に立つ私の胸の奥底に、熱い熱いものが、噴水のように込み上げてきた。


(……私の、名前)


誰の顔色を窺う必要もない。

誰かの引き立て役として身を縮こまらせる必要もない。

『真壁栞』という、この世にたった一つしかない私の名前で、私の創り出した世界が、正当に愛され、評価されている。


一度目の人生で踏みにじられ、二度目の人生の復讐劇の中で削り落としてきた尊厳のすべてが、今、白日の下で完全に報われたのだ。

私の背筋は寸分の狂いもなく伸び、その瞳には、一点の曇りもない誇りと喜びの光が満ち溢れていた。


「――見事な空間ですね、真壁さん」


その時。

背後から、低く、引き締まった男の声がかけられた。


振り返ると、そこにはチャコールグレーのスリーピーススーツを端正に着こなした、見覚えのある男性が立っていた。

知的なメタルスクエアの眼鏡。

大手広告代理店『東都広告』第一営業局筆頭シニアディレクター――津田貴志だった。


「津田様……本日はお忙しい中、足をお運びいただきありがとうございます」

私が優雅に一礼すると、津田は薄い唇を微かに緩め、静かに首を横に振った。


「礼を言うのはこちらの方です。……素晴らしいものを見せていただきました」


津田は展示ホールの天井を見上げ、深く息を吐き出した。

その視線は、業界の第一線で数々の巨大プロジェクトを統括してきた、極めて厳格なプロフェッショナルのそれだった。


「半年前に相沢と真壁莉乃が引き起こしたあの不祥事は、我が社にとっても、広告業界にとっても最大の汚点でした。

虚構の数字を買い、見栄で中身を偽装し、他人の褌で相撲を取るような薄っぺらな連中が、業界を腐らせていた。

……だが、今日、あなたの作品を拝見して、確信いたしました」


津田は眼鏡の奥の鋭い双眸を、真っ直ぐに私へと向けた。


「本物のクリエイティブとは、技術と、誠実さと、人間性そのものからしか生まれないのだと。

数字で人を騙すことはできても、本物の手仕事の前に立てば、メッキなど一瞬で剥がれ落ちる。

……真壁栞さん。我が東都広告の文化事業部において、来期から展開する伝統工芸リブランディングの大規模プロジェクトがあります。ぜひ、あなたに空間デザイン統括ディレクターとして参画していただきたい。

相沢のような私情や打算ではなく、純粋に、一人の卓越したプロフェッショナルとして、あなたに正式なオファーを差し上げたく存じます」


名刺入れから差し出された、東都広告の最重要プロジェクトのオファーシート。


それは、かつて航太が見栄で持ちかけてきたような「妹のオマケ」としての仕事などでは断じてなかった。

業界の頂点に立つ人間が、真壁栞という一人の創作者の実力を認め、頭を下げて求めてきた、正真正銘のプロフェッショナルとしての契約。


「……光栄でございます、津田様」

私は両手でその書類をしっかりと受け取った。

「喜んで、お引き受けいたします」


津田は満足そうに深く頷くと、もう一度会釈をして、人混みの中へと静かに去っていった。


大盛況の波は、夕方になっても途切れることはなかった。

用意されていた図録は完売し、展示作品の八割以上に「成約済」の赤丸シールが貼られ、芳名帳は来場者たちからの熱いメッセージで何冊も埋め尽くされた。


午後八時。

展示ホールの全照明が落とされ、閉館のベルが静かに鳴り響いた。


すべての来場者が去り、スタッフたちが後片付けを終えて退館した後。

広大なギャラリーの中央に、私は一人、静かに佇んでいた。


静寂。

けれど、それはあの暗い実家の六畳間や、復讐直後の冷え切ったアトリエの沈黙とは、まるで違っていた。

何千人もの人々の感動と熱気が染み込んだ、温かく、誇らしい静寂。


私は壁にかけられた、草木染めのタペストリーの端にそっと指先を触れた。

滑らかな絹の感触。

自分の両手で染め、自分の両手で織り上げた、誰のお下がりでもない、世界でたった一つの作品。


(……私、生きてる)


胸の奥底から、震えるような多幸感が込み上げてくる。

復讐という暗い外科手術を終え、私の人生は今、本当の意味で新しく生まれ変わったのだ。


――パタパタ。


その時、静まり返ったホールの入り口から、軽快なスニーカーの足音が響いてきた。


「やあやあ、主役のお姉さん! 大・大・大成功、おめでとう!」


現れたのは、仕立てのいいカジュアルジャケットを着崩し、銀縁眼鏡を鼻梁にかけた青年――佐久間湊だった。

その両手には、近所のカフェからテイクアウトしてきた紙カップが二つ提げられていた。


「佐久間さん!」

私が振り返ると、佐久間は人懐っこい笑みを浮かべ、温かいカフェラテのカップを私へと手渡してくれた。


「いやぁ、外の反響も凄まじいことになってるよ。アート系のインフルエンサーだけじゃなくて、大手のカルチャーメディアが一斉に記事を上げ始めてる。『真壁栞の圧倒的才能、偽りのインフルエンサー騒動に完全なる終止符を打つ』ってさ。……ざまぁみろ、だよね」


佐久間は悪戯っぽく笑うと、眼鏡のブリッジをクイと押し上げた。


「復讐の手伝いをした時も面白かったけどさ、こうやって君の本当の才能が世間をひれ伏せさせる瞬間を見るのは、もっと痛快だよ。僕が仕掛けたプロモーションの何倍も、作品自体の説得力が勝ってた。完敗だよ、栞ちゃん」


「ふふ、佐久間さんのサポートがあったからこそです。本当にありがとうございます」


私が微笑んで礼を言うと、佐久間はフッと表情を緩め、カップを傾けながら、展示ホールの奥――関係者専用のVIP控室のドアへと視線を向けた。


その口元に、意味深で、からかうような笑みが浮かぶ。


「……ところでさ、栞ちゃん」


「え?」


佐久間は声をワントーン落とし、控室のドアを親指で指し示した。


「蓮のやつ、さっきから奥の控室で、ずっと落ち着かない様子で待ってるぞ。

あの普段は世捨て人みたいに気だるげな男がさ、ネクタイを緩めたり締めたり、窓の外を見たり時計を見たり……あんなにソワソワしてる蓮、生まれて初めて見たよ」


「黒木さんが……?」


私は目を瞬かせた。

蓮が、落ち着かない?

どんな修羅場でも眉一つ動かさず、暴力や権力すら冷徹にねじ伏せてきたあの男が、一体何を緊張しているというのだろうか。


「さ、行ってきなよ」

佐久間が私の背中を軽く小突いた。

その瞳には、旧友の幸福を心から祝福するような、温かな光が宿っていた。


「二人の、本当の時間の始まりだ」


私は手元のカフェラテのカップをぎゅっと握りしめ、静かに頷いた。


トクン、と。

胸の奥で、新しい鼓動が小さく跳ねる。


展示ホールの柔らかな灯りに見送られながら、私は奥の控室へと向かって、一歩、足を踏み出した。

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