第56話:空っぽの部屋と新しい朝――潮騒のスープと魂の融解
すべての法的手続きが結了し、警察署の応接室で過去の因縁に終止符が打たれてから、数日が過ぎていた。
初冬の冷たい雨が止み、乾いた北風が吹き抜ける都心の片隅。
レンダリングされた映像も、怒号も、パトカーのけたたましいサイレンも届かないアトリエ『Atelier Shiori』の二階寝室は、息が詰まるほどの深い沈黙に閉ざされていた。
厚手の遮光カーテンは隙間なく閉め切られ、昼なお暗い室内には、針の落ちる音すら聞こえない静寂が澱んでいる。
ダブルベッドのシーツの真ん中で、私は毛布を顎まで引き上げ、身じろぎひとつせずに横たわっていた。
「……起きなきゃ」
唇を動かし、声に出してみる。
だが、喉から漏れたのは乾いた空気の擦れる音だけで、鉛のように重い肉体は一ミリたりとも動こうとしなかった。
起き上がれない。
目蓋を持ち上げることすら億劫で、指先ひとつ動かす気力が湧いてこない。
枕元には、革表紙のスケッチブックと一本のデッサン用鉛筆が無造作に転がっていた。
二日前、新しいタペストリーの図案を描こうとして、机からベッドサイドへと持ち込んできたものだ。
けれど、ページは真っ白なまま、一本の線すら引かれていなかった。
鉛筆を握ろうとすると、指先が微かに震える。
何を、描けばいいのだろうか。
どんな色を、どんな形を、私は美しいと思っていたのだろうか。
――何も、思い浮かばない。
頭蓋骨の内側が、まるで空っぽの洞窟になってしまったかのようだった。
二年間。
いや、一度目の人生で命を奪われたあの日から数えれば、気の遠くなるような歳月のあいだ、私の脳内を占め続けていたのはただ一つの目的だった。
復讐。
妹・莉乃に奪われたものを取り戻すのではなく、相手の底なしの虚栄心に餌を与えて自滅させること。
モラハラ男・相沢航太に地雷を踏ませ、過干渉姑・静代の檻へ叩き込むこと。
毒親である宗治と恵津子から法的に完全に逃げ切り、自らの手を汚すことなく、あいつら自身の欲望によって自滅の奈落へと突き落とすこと。
そのために、私はあらゆる罠を仕掛けた。
綿密に計算されたタイムスタンプ、公証人役場の確定日付、法的な支援措置、そしてあの結婚式場での冷徹な公開処刑。
復讐という名の巨大な建築物を設計し、寸分の狂いもなく組み上げ、完璧に作動させることだけに、私の全神経、全知性、全生命力が注ぎ込まれていた。
そして――それは終わった。
完璧に。一片の狂いもなく。
莉乃は三十万人の偶像を奪われ、名前を隠して内職と深夜清掃に追われる日陰の檻へと幽閉された。
航太は会社を懲戒解雇され、名家から勘当され、八百万円の横領金返済のために債権回収会社の監視下へと引き渡された。
毒親たちは退職金を溶かし、実家を競売で叩き売られ、泥まみれの離婚届に判を押して一家離散の果てに散り散りとなった。
神崎弁護士からの最終通知によって、すべての親族関係と債権債務は、法的に永久消滅した。
完全なる勝利。
怨敵たちの完全なる社会的抹殺。
だが――その暗黒の熱狂が去った後に残されたのは、甘美な達成感などではなかった。
極度の、虚脱。
燃え尽き症候群という言葉すら生ぬるい、魂の芯が完全に抜け落ちてしまったかのような空虚だった。
(……私は、何だったのかしら)
毛布の中で、冷え切った自らの両手をじっと見つめる。
爪の形を整え、滑らかに手入れされた指先。
そこには、莉乃のようにプラスチックの削り粉や泥がついているわけではない。
だが、私の眼には、その指先がどす黒い汚泥でまみれているように見えて仕方がなかった。
人を嵌めるためのシナリオを書き。
人が自滅していく様を冷ややかに観察し。
妹が赤ワインと氷水に塗れて床を這い回る姿を、特等席からシャンパングラス片手に見届けていた私。
私は、被害者だったはずだ。
一度目の人生で理不尽に突き落とされ、殺された哀れな犠牲者だったはずだ。
けれど、二度目の人生で私がやってきたことは――相手を破滅させるための甘い毒を差し出し続けた、冷酷な怪物の所業ではなかったのか。
「……怪物よ」
自嘲の呟きが、暗い部屋の天井に消えていく。
復讐を遂げるために、私は人間としての温もりをすべて捨て去った。
そして復讐が終わった今、残されたのは「復讐のためだけに存在していた空っぽの抜け殻」だけ。
誰かのために料理を作ることも、誰かのために布を縫うことも、すべては罠の小道具だった。
純粋に何かを愛し、純粋に何かを創り出す心が、自分の中にまだ残っているのかどうかすら、もう分からなくなってしまった。
胸の奥がキリキリと痛み、息が浅くなる。
カーテンを開けるのが怖い。
光を浴びるのが怖い。
この暗闇の中で、誰にも見られず、ただ静かに消えてしまいたい――。
カチャリ。
その時、一階のエントランスから、微かな金属音が響いた。
重厚なオーク材のドアが開く音。
靴音がひとつ、ふたつ、静かにホールを横切り、階段を上がってくる。
ゆっくりと、けれど迷いのない足取り。
その規則正しい靴音を聞いただけで、誰がやってきたのかは明白だった。
このアトリエの合鍵を持ち、私に無断で立ち入ることを許された、世界でただ一人の男。
黒木蓮。
トントン、と寝室のドアが控えめにノックされた。
返事をする気力すら湧かず、私は毛布を頭から被って身を丸めた。
入ってこないでほしい。
こんな、抜け殻のように崩れ落ち、自らの手についた泥に怯えている無様な姿を、あの人に見られたくはなかった。
ギィィ……とドアが静かに開き、廊下の淡い光が室内に細く差し込んだ。
蓮は部屋の入り口で一瞬だけ足を止めると、カーテンが閉め切られ、重苦しい静寂が淀む部屋の中を見渡した。
机の上に手つかずのまま置かれた冷めきったハーブティー。
床に転がったスケッチブック。
そして、ベッドの上で小さく丸まっている私の姿。
だが――蓮は、何も問いたださなかった。
「どうしたんだ」とも、「何があった」とも言わなかった。
「元気を出せ」などという薄っぺらな励ましや、「復讐は終わったんだから前を向け」という正論すら、一言も口にしなかった。
蓮は静かに歩み寄ると、ベッドの脇に立った。
衣擦れの音とともに、ふわりと漂ってきたのは――あの聞き慣れた、深い白檀のインセンスの香りと、ビターな煙草の薫香。
世界で一番安心できる、確固たる体温の気配。
蓮は無言のまま、私の頭を覆っていた毛布を、ゆっくりと、けれど抗う隙を与えずに引き下げた。
「……黒木、さん……」
掠れた私の声。
見上げた先には、仕立てのいいチャコールグレーのタートルネックセーターを着た蓮が、彫りの深い端正な顔立ちで私を見下ろしていた。
その切れ長の瞳には、怒りも、失望も、戸惑いすらも浮かんでいなかった。
ただ――傷つき、泥濘に沈みかけた小鳥を見守るような、底知れぬ深さと静けさを湛えた眼差し。
蓮は何も言わず、ベッドの上に片膝をついた。
そして、両腕を私の背中と膝の裏へと滑り込ませると――羽毛のように軽々と、私の身体を抱き上げたのだ。
「え……っ?」
突然の浮遊感に、私の喉から小さな声が漏れた。
「く、黒木さん……何を……放してください……私、こんな……」
抵抗しようと、弱々しく蓮の胸板を手で押す。
だが、蓮の腕は鋼のように微動だにしなかった。
彼は私の乱れた髪や、青ざめた素顔を一瞥することもなく、ただ当たり前のことのように私を胸元へと引き寄せ、抱きかかえたまま寝室を出て、階段を降りていった。
「黒木さん……どこへ……」
エントランスを出ると、外には冬の冷たい風が吹き抜けていた。
蓮はアトリエのドアを足先で閉め、カギをかけると、路肩に停めてあった黒塗りのメルセデス・ベンツの助手席のドアを開けた。
シートに私を優しく降ろし、シートベルトを締めると、自分の着ていた厚手のカシミアのロングコートを脱ぎ、私の肩から足元までをすっぽりと包み込むように掛けてくれた。
バタン、と助手席のドアが閉まる。
運転席へと回り込んできた蓮は、無言でエンジンを始動させた。
滑らかに加速する車輌。
アトリエのレンガ造りの建物が後ろへと遠ざかり、見慣れた都心のビル群が、窓の外を流れるように過ぎ去っていく。
私はコートに埋もれたまま、前を見つめた。
カーオーディオからは音楽すら流れていない。
ただ、低く唸るエンジンの鼓動と、タイヤがアスファルトを噛む規則正しいロードノイズだけ。
蓮はハンドルを握ったまま、一度も私に言葉を投げかけなかった。
「どこへ行くのか」と訊ねる気力すら、私には残っていなかった。
けれど――隣に座る男の横顔から伝わってくる絶対的な庇護の重みが、私の凍りついていた心臓を、微かに、けれど確実に温め始めていた。
***
首都高速を抜け、有料道路を走り継ぐこと二時間あまり。
車窓の外の景色は、灰色のコンクリートジャングルから、次第に深い緑の松林と、荒涼とした冬の砂浜へと変わっていった。
ザザァァ……ン……。
窓の隙間から、微かに潮騒の音が聞こえ始めた。
車が細い未舗装の私道を進み、海を見下ろす小高い丘の突端で、静かに車輪を止めた。
「着いたぞ」
蓮がサイドブレーキを引き、エンジンを切った。
沈黙のドライブの中で、彼が初めて発した言葉だった。
車を降りた蓮に促され、私はコートを羽織ったまま外へと足を踏み出した。
吹き抜けてきたのは、鋭利で、けれど驚くほど澄み切った、強い潮風だった。
肺の奥深くまで吸い込むと、鼻腔の奥にツンと走る潮の香り。
目の前に広がっていたのは――冬の午後の陽光を浴びて、銀色に激しく煌めく、果てしない太平洋の海原だった。
白波が砕け散る砂浜の崖の上に、一軒の古い洋館が建っていた。
風雨に晒されて深い飴色に変色した板張りの外壁と、白いペンキの剥げかけたウッドデッキ。
蓮が個人的に所有しているという、海辺の古い別邸だった。
蓮はポケットから古びた真鍮の鍵を取り出すと、軋むエントランスのドアを開け放ち、私を中へと招き入れた。
室内には、古い木と蜜蝋ワックスの芳醇な香りが満ちていた。
高い吹き抜けのリビングの正面には、海を一望できる大きな格子窓。
部屋の中央には、黒い鉄製の薪ストーブが鎮座していた。
蓮は私をリビングの柔らかな革張りソファへと座らせると、手慣れた手つきでストーブの中に薪を組み、マッチを擦った。
パチパチ、と乾いた音を立ててオレンジ色の炎が立ち上がり、冷え切っていた室内に、じんわりとした温もりが広がり始める。
「そこで座ってろ」
蓮は短く告げると、ジャケットを脱ぎ捨て、黒いシャツの袖を肘までまくり上げた。
そして――リビングの奥にあるオープンキッチンへと向かい、冷蔵庫を開けたのだ。
私はソファの上で膝を抱えたまま、茫然とその背中を見つめていた。
蓮が料理をする?
『Noir』の厨房で、手慣れた手つきでグラスを磨き、簡単な乾き物や酒の肴を出す姿は見たことがあった。
だが、今、彼がキッチンで手に取ったのは――丸ごとの人参、泥のついた玉ねぎ、セロリ、小カブ、そして厚切りのベーコンだった。
コト、コト、トントントン……。
静まり返ったリビングに、リズミカルな包丁の音が響き始めた。
蓮の手つきは、プロの料理人のような華麗さではなかったが、無駄がなく、驚くほど丁寧だった。
人参の皮を剥き、大きめの乱切りにする。
玉ねぎをじっくりと炒め、甘い香りを引き出す。
厚手の鋳物鍋にオリーブオイルを引き、ベーコンの脂をじっくりと滲ませてから、根菜たちを投入していく。
ジュゥゥ……という心地よい炒め音。
続いて、コトコトと、スープが静かに煮立つ音が部屋を満たしていく。
窓の外では、冬の海が白い波頭を立ててうねり、薪ストーブの炎が爆ぜる。
その穏やかな時間の中で、蓮は一度も振り返らず、ただ鍋の灰汁を丁寧に掬い、弱火でじっくりと時間をかけて煮込み続けていた。
四十分ほどが経過した頃。
部屋中に、息を呑むほど滋味あふれる、野菜と肉の甘い芳香が立ち込めていた。
「よし」
蓮が火を止め、白い陶器の深皿にスープを注ぎ分けた。
木製のカッティングボードの上には、オーブンで軽く温められた、素朴な田舎風のハードパンが並べられている。
蓮はそれらをトレイに乗せ、私の前のローテーブルへと静かに置いた。
「……食え」
湯気を立てるスープ皿。
中には、スプーンで崩れるほど柔らかく煮込まれた人参やカブ、玉ねぎが、琥珀色に透き通ったコンソメスープの中にたっぷりと沈んでいた。
私は伏し目がちに、震える声で呟いた。
「……お腹、空いていません……」
本当だった。
胃の腑が固く引き攣り、何も受け付けないような気がしていた。
私は罪人で、怪物で、誰かの破滅の上に立っているだけの空っぽな存在なのだから、温かい食事を受け取る資格などない――そんな歪んだ強迫観念が、胸を締め付けていた。
だが、蓮は引き下がらない。
彼は私の正面のラグの上に胡座をかいて座ると、木製のスプーンを私の右手に無理やり握らせた。
骨太の温かい掌が、私の冷たい指先を包み込む。
そして――蓮は、私の目を真っ直ぐに見据えて言ったのだ。
「食え、栞。……今は何も考えなくていい」
低く、深く、迷いのない声。
「お前が何を後悔してようが、どんな泥を被ったと思ってようが、そんなことはどうでもいい。
……お前は、生き残ったんだ。
一度目のあの日、冷たい階段の上で奪われた命を……二度目の人生で、お前自身の知性と意志で、泥水の中から掴み取って生き残ったんだよ。
それだけで……十分すぎるほど、十分だ」
「……っ」
私の喉が、小さく鳴った。
生き残った。
その四文字が、私の胸の奥深くに突き刺さる。
「あいつらは、自滅しただけだ。お前が無理やり階段から突き落としたわけじゃない。
あいつらが勝手に欲をかき、勝手に罪を重ね、勝手に破滅の特等席へ登って自爆したんだ。
お前が責任を感じる筋合いなんて、一ミリもねぇよ」
蓮は私の手元を指差し、フッと笑った。
「冷めるぞ。……俺が作ったんだ、一口くらい味わえ」
促され、私は震える指先でスプーンを持ち上げた。
琥珀色のスープをすくい、湯気を吹き消して、そっと唇を湿らせる。
――じわり。
舌の上に広がったのは、調味料のトゲのない、野菜そのものの滋味あふれる甘みだった。
時間をかけて煮出された玉ねぎのコク、セロリの爽やかな苦味、そしてベーコンの燻製の香り。
温かい液体が喉を通り、冷え切っていた食道を経て、胃の腑へと染み渡っていく。
温かい。
信じられないほど、温かい。
二口目。柔らかく煮崩れたカブを口に含む。
舌の上でトロリと溶け、身体の芯から、冷え切っていた血が巡り始める感覚。
(……あ……)
その瞬間だった。
私の視界が、急速に歪んだ。
テーブルの上に置かれた白いスープ皿の縁に、ポタリ、と大粒の雫が落ちて波紋を作った。
一度目の人生。
家族から「お姉ちゃんなんだから我慢しろ」と奪われ続け、冷え切った残り物ばかりを食べさせられていた日々。
元婚約者の航太から「僕の好みの手料理を作れ」「男を立てろ」と、家庭的な偶像を押し付けられ、評価されるためだけに台所に立ち続けていた日々。
そして二度目の人生、復讐の罠を仕掛けるためだけに、神経をすり減らして美しい料理を作り続けていた日々。
誰も――。
私のために、食事を作ってくれたことなどなかった。
「私が私であること」を求めず、何の見返りも求めず、ただ私が凍えているという理由だけで、こうして時間をかけて野菜を切り、煮込み、温かいスープを差し出してくれた人間など、私の人生に誰一人として存在しなかった。
航太は、私に「尽くすこと」を求めた。
家族は、私に「犠牲になること」を求めた。
けれど――蓮は。
壊れかけ、泥にまみれ、何も生み出せなくなった私の弱さそのものを、何一つ否定せず、丸ごと肯定して、ただ「生き残っただけで十分だ」と包み込んでくれたのだ。
プチンッ、と。
心の中で、二十余年にわたって張り詰め続けていた最後の防壁の糸が、完全に、音を立てて千切れ飛んだ。
「……う……っ、うわぁぁ……っ……」
スプーンを取り落としそうになる私の手を、蓮が素早く受け止めた。
皿をテーブルの奥へと押しやり、蓮は両腕を伸ばすと――ソファの上で崩れ落ちそうになった私の身体を、自らの胸元へと力強く引き寄せたのだ。
タートルネックのセーターの温もり。
白檀の香りと、力強い心臓の鼓動。
「……泣け」
耳元に落ちてきた、蓮の掠れた声。
「全部、吐き出せ。……ここはもう、誰も見てねぇよ」
その一言が、最後の引き金だった。
「あああああ……っ、うわああああああああんッッ!!」
私は蓮のセーターの胸元を両手で力任せに握りしめ、顔を埋めて、声を上げて泣きじゃくった。
子どものように。
生まれて初めて産声を上げる赤ん坊のように。
涙と鼻水で蓮の服を汚すことも構わず、喉を枯らして、全身を激しく痙攣させながら泣き叫んだ。
一度目のあの夜、冷たい雨の中で死んでいった私の無念。
二度目の日々の中で、誰にも言えずに抱え込み続けてきた恐怖と孤独。
復讐という暗黒の炎に身を焦がしながら、自らを怪物だと責め苛んでいた罪悪感。
そのすべてが、激しい涙の濁流となって、私の内側からとめどなく溢れ出ていく。
蓮は何も言わなかった。
ただ、大きな両手で私の背中を包み込み、ゆっくりと、何度も、壊れ物を慈しむように優しくさすり続けてくれた。
その確固たる掌の温もりだけが、嵐の中の灯台のように、私の魂を現実の世界へと繋ぎ止めていた。
どれほどの時間が流れただろうか。
薪ストーブの炎が静かに揺れ、窓の外の海が、夕暮れの茜色から深い群青の夜へと溶け込んでいく。
泣き叫び続けた私の呼吸は、次第に小さくなり、やがて途切れ途切れのしゃくあげへと変わっていった。
張り詰めていた緊張が完全に解け、温かいスープの滋養と蓮の体温に包まれる中で、私の意識は、心地よい疲労感の海へとゆっくりと沈んでいった。
蓮の胸元に頬を預けたまま、静かに寝息を立て始める栞。
蓮は小さく息を吐き出すと、ぐったりと脱力した栞の身体を抱き直し、ソファの上の毛布をそっと掛け直した。
涙で濡れた栞の長い睫毛。
赤く腫れた目頭。
その無防備な寝顔を、蓮は痛ましいほど愛おしげな瞳で見つめた。
蓮の大きな手が伸び、栞の額に張り付いた乱れた前髪を、指先でそっと払いのける。
窓の外では、静かな冬の潮騒が、ザザァン、ザザァンと規則正しく鳴り響いていた。
波の音に紛れるように、蓮の薄い唇から、低く、誓いのような呟きが零れ落ちた。
「……取り戻すんだ、栞」
蓮の指先が、栞の柔らかな頬を優しく撫でる。
「あいつらに奪われる前の……お前自身の、本当の才能を」
夜の帳が、海辺の洋館を静かに包み込んでいく。
長く暗かった悪夢の夜は、今、確実に明けようとしていた。




