第55話:清算の完了――抜けるような秋空と解かれた呪縛
都心の中枢に位置する、警視庁麹町警察署。
厚い防音ガラスで外界の喧騒から遮断された刑事課の第一応接室には、無機質な白木調のテーブルを挟んで、重々しくもどこか厳粛な空気が漂っていた。
テーブルの奥に座っていたのは、眉間に深い皺を刻んだ初老の警部補と、記録用のタブレットを手元に置いた若い巡査部長の二人だった。
警察手帳を伏せて置いた警部補の視線の先――テーブルの上には、佐久間湊が解析し、黒木家の法務顧問である神崎弁護士を通じて正式に提出されていた、何百ページにも及ぶ証拠書類の束と、公証人役場の確定日付印が捺されたハードディスクが整然と並べられていた。
そして、その手前には、私――真壁栞と、その隣に座る黒木蓮の姿があった。
私は、手元で指先を静かに揃えていた。
身に纏っていたのは、秋の気配に合わせた柔らかなキャメルベージュのトレンチコート。
その姿勢には寸分の乱れもなく、呼吸は驚くほど深く、穏やかだった。
隣に座る蓮は、仕立てのいいチャコールグレーのジャケットに腕を通し、黙然と組んだ腕の隙間から、刑事の顔を静かに見据えている。
「……真壁栞さん、黒木さん。長らくお時間を取らせてしまいましたね」
警部補が低く、落ち着いた声で口火を切った。
彼は手元の最終捜査報告書を丁寧にめくりながら、眼鏡の奥の鋭い瞳を私たちへと向けた。
「まず、佐久間湊氏より提出されたデジタルフォレンジックデータ、ならびに帝国グランドホテルでの披露宴直前における録音データについてです。
警察庁科学警察研究所における生体声紋照合、ならびに音響空間の波形解析の結果――新婦控室通用口において真壁莉乃氏があなたに対して振るった暴行、および手すり際での突き落とし未遂行為、ならびに『殺してやる』『死ねばよかった』等の明確な殺意を伴う暴言について、完全なる真正性が立証されました」
警察組織の冷徹な事実確認。
警部補は手元の書類を指差し、言葉を続けた。
「刑法第二百八条の暴行罪、ならびに第二百二十二条の脅迫罪について、明白な構成要件該当性が認められます。
本来であれば、殺人予備罪や殺人未遂罪の適用についても捜査本部で慎重に検討が重ねられました。
……しかし、手すり際での身体的制圧があなた自身の正当防衛によって瞬時に完了しており、直接的な落下の物理的結果が発生していない点、ならびに本人の発言が興奮状態における激越な感情吐露の側面を併せ持つという検察側の判断により、今回の事件単体での殺人未遂罪としての即時勾留請求は見送られることとなりました」
法執行機関の、極めて現実的で冷静な判断。
感情論ではなく、刑法と刑事訴訟法の条文を厳格になぞった結論だった。
「ですが」と、警部補は声のトーンを一段落とし、強い視線を私へと向けた。
「警察としては、これを単なる親族間の口論とは一切捉えておりません。
被害者である真壁栞さんからの被害届を正式に受理した上で、真壁莉乃氏に対しては、所轄警察署長名による極めて厳格な【警察警告書】の交付、ならびにストーカー規制法および暴力行為等処罰法に基づく【接近禁止命令】の正式執行を完了いたしました。
莉乃氏の顔写真、指紋、DNAデータは、警察の重要追跡データベースに危険人物として永久登録されております。
今後、万が一にも真壁莉乃氏があなたのアトリエ、住居、あるいは立ち寄り先から半径百メートル以内に接近した場合、事前の警告なしに、その場で【現行犯逮捕】となります。
……彼女の首元には、目に見えない手錠が常に掛けられている状態だとご理解ください」
逃げ場のない、国家権力による絶対的な監視の檻。
法的に、莉乃が再び私の人生に指一本触れることは、完全に不可能となったのだ。
そして――警部補は、もう一つの分厚いファイルへと手を伸ばした。
その表紙には、薄墨のようなインクで『特命再精査事案報告書』と記されていた。
「それから……もう一点。黒木さんから強い申し立てがあり、神崎弁護士を通じて状況証拠が提出されていた、あの事案についてです」
警部補の視線が、蓮へと移った。
「かつて、帝国グランドホテルの非常階段踊り場において発生した……真壁栞さんの『転落死未遂・不審死事案』について」
室内の空気が、ピンと張り詰めた。
蓮の肩が、わずかに強張るのが分かった。
一周目の、あの夜。
私が莉乃に突き落とされ、頭部を石畳に叩きつけられて命を落とした、あの悪夢。
一度目の世界において、蓮が雨に濡れながら駆け寄り、警察に他殺だと訴え続けたにもかかわらず、真壁家の「事故死」の主張と権力によって闇に葬られた、あの未解決の記憶。
超自然的な「死に戻り」という現象そのものを、現代の警察組織や法廷にそのまま持ち込むことは不可能だ。
だが、佐久間と神崎弁護士は、莉乃の自白音声――『1周目みたいに死ねばよかったのよ! あの時みたいに、階段から落ちて頭割って死ねばよかったのよ!』というあの決定的な発言をテコにして、当時のホテルの警備日誌、防犯カメラの死角の配置、そして家族側の不審な保険金照会記録を、法的な「過去の未解決事案の状況証拠」として警察へ再精査させていたのだ。
警部補は、静かに首を横に振った。
「結論から申し上げますと……過去の事案そのものについて、現時点で公訴を提起することは極めて困難である、という最終判断に至りました。
当時の現場保存の不備、客観的物理証拠の散逸、ならびに被疑者本人の精神鑑定における供述の変遷を考慮した際、公判を維持することは法的に不可能であると、東京地方検察庁より正式に通達が下りております」
静寂。
蓮の奥歯が、ギリと微かに鳴った。
一度目の世界で栞を救えなかった男の、魂の奥底に刻まれた悔恨。
だが――警部補は、手元のファイルをパタンと閉じると、私と蓮の目を真っ直ぐに見据えて言ったのだ。
「しかし、捜査官個人として、そして一人の人間として申し上げます。
……真壁栞さん。あなたがこれまで耐え忍んできた恐怖と、理不尽の重み。そして、あなたが提出してくださったすべての証拠の信憑性について、私たちは一欠片も疑っておりません。
過去の事件を法廷で裁くことは叶いませんでしたが……その闇があったからこそ、私たちは今回、真壁莉乃という危険な存在を法的に完全に封じ込めることができました。
あなたの戦いは……無駄ではなかった。警察として、あなたを二度とあのような危険に晒さないことを、固くお約束いたします」
深く、頭を下げる警部補と巡査部長。
その言葉を聞いた瞬間。
私の胸の奥底で、何かが静かに、音を立てて解けていくのを感じた。
超自然の記憶を、現実の法体系の中でどう着地させるのか。
オカルトの復讐ではなく、現実の正義としてどう清算するのか。
その答えが、今、この警察署の応接室の中で、完璧な形で結実したのだ。
過去の死は、もう怨霊のような呪いではない。
自らの知性と、共犯者たちの絆によって、未来の安全を勝ち取るための確固たる礎となって昇華されたのだ。
「……ありがとうございました」
私は立ち上がり、深く、丁寧に一礼した。
蓮もまた、静かに頭を下げた。
「以上で、本件に関するすべての警察手続きを終了いたします。お気をつけてお帰りください」
刑事たちの敬礼に見送られ、私たちは応接室を後にした。
***
警察署の重厚な自動ドアが開いた瞬間。
サァァ……と、心地よい風が、私の頬を優しく撫で抜けていった。
外に広がっていたのは――息を呑むほど抜けるような、どこまでも高い、満天の秋の青空だった。
雲ひとつないスカイブルーの天蓋。
街路樹の銀杏が黄金色に色づき始め、午後の柔らかな木漏れ日が、アスファルトの上に金色のモザイクを投げかけている。
乾いた秋風が吹き抜けるたび、澄み切った大気が胸の隅々まで満ちていき、かつて実家や式場で嗅がされていたあの饐えた腐臭など、世界のどこにも存在しないかのような清々しさ。
ピロン。
トレンチコートのポケットの中で、私の私用スマートフォンが、澄んだ電子音を響かせた。
立ち止まり、端末を取り出す。
画面に表示されたのは――黒木家の法務顧問、神崎弁護士からの新着メッセージだった。
通知を開く。
そこには、極めて端正で、一分の隙もない法律家の文面が並んでいた。
『真壁栞様
お疲れ様でございます。
本日午後一時をもちまして、東京家庭裁判所ならびに公証人役場における、以下の全法的手続きが完全に完了・結了いたしましたことをご報告申し上げます。
一、真壁宗治・恵津子・莉乃に対する、民法第八百七十七条に基づく【扶養義務完全免除】の家庭裁判所審判の確定。
二、真壁栞様と上記三名との間における、親族関係断絶ならびに将来の一切の接触・金銭的要求を永久に禁ずる【公正証書(債務不存在確認・接近禁止条項付)】の作成完了。
三、真壁莉乃の全企業損害賠償債務(約二千八十万円)、ならびに相沢航太からの損害賠償債務(三千万円)について、真壁栞様が一切の連帯責任を負わないことの公的確認、および全債権者への通知完了。
四、相沢航太氏との過去の全関係性に関する法的一括清算、および債権回収会社への引継ぎ完了。
これにより、貴殿と旧真壁家、ならびに相沢航太氏との間の法的な紐帯、債権債務関係、および親族関係は、名実ともに【完全消滅】いたしました。
貴殿のこれからの人生は、誰にも侵されることのない、完全に独立した一個人のものとなります。
長きにわたるご心労、誠にお疲れ様でございました。
――神崎法律事務所 代表弁護士 神崎』
画面を見つめる私の瞳から、ふっと、熱いものが込み上げてきた。
終わったのだ。
本当に、すべてが。
第1話、あの冷たい雨の非常階段で突き落とされたあの日から。
第2話、十八歳の春に目覚め、「ぜんぶあげる」と微笑んで復讐のチェス盤を広げたあの日から。
相手の底なしの虚栄心に餌を与え、高く持ち上げ、自らの欲望のままに首を括らせるための罠を配置し続けてきた日々。
料理のレシピを譲り、進学の枠を譲り、ブランド品を譲り、フォロワーの偶像を譲り、モラハラの元婚約者を譲り、過干渉の姑を譲り、豪華絢爛な結婚式という破滅の特等席を譲り渡した。
そして、悪役たちは私の期待通りに、自らの醜悪な本性を全世界へ晒し、自らの手で互いを食い破り、自滅の奈落へと転落していった。
莉乃は三十万人の偶像を失い、顔を隠して内職と深夜清掃に追われる日陰の檻へと幽閉された。
航太は会社を懲戒解雇され、名家から勘当され、借金取りに追われる底辺へと消え去った。
毒親たちは退職金を失い、家を競売で叩き売られ、泥まみれの離婚届に判を押して一家離散の果てに散り散りとなった。
千佳は友人の死肉を喰らって一時的な数字を手に入れたが、他人の不幸を燃料にする世界から一生抜け出すことはできない。
誰も殺さなかった。
毒を盛ることも、脅迫することもなかった。
私はただ、自分の手足を一ミリも汚すことなく、法と真実の光の下で、彼女たちが自ら蒔いた猛毒の種を、彼女たち自身の身体へと刈り取らせただけ。
そして今――。
手元にあるスマートフォンの画面が示す通り。
私を縛り付けていたすべての見えない鎖が、すべての呪いの糸が、完璧に、不可逆の彼方へと断ち切られたのだ。
「……栞」
隣から、低く、温かい声が降ってきた。
顔を上げると、黒木蓮が立ち止まり、私を優しく見つめていた。
その切れ長の瞳には、かつてアンティークサロン『Noir』の薄暗いカウンターの奥で私を見つめていた、あの気だるげな世捨て人の影はもうどこにもなかった。
あるのはただ――痛いほどの熱量と、すべてを包み込むような、深く揺るぎない慈愛の光。
蓮の唇が、穏やかに弧を描いた。
「……終わったな、栞」
その一言が、私の胸の奥深くに染み渡った。
終わった。
私の復讐が。
私の戦いが。
そして――お下がりばかりを与えられ、誰かの身代わりとして日陰に閉じ込められていた、私の長かった悪夢のすべてが。
「……はい」
私の声が、微かに震えた。
ポロポロと、大粒の涙が私の頬を伝い落ちていく。
それは、一周目で殺された時の悔し涙ではなかった。
二周目の日々の中で耐え忍んできた怒りの涙でもなかった。
復讐という暗い執念から完全に解き放たれ、生まれて初めて「自分のためだけの人生」を取り戻したことへの、震えるほどのカタルシスと、圧倒的な安堵の涙。
私は空を見上げた。
深く、深く、肺の隅々まで満たすように息を吸い込む。
胸の奥底に、二十数年間にわたって居座り続けていた、あの冷たい鉛の塊。
「お姉ちゃんなんだから我慢しろ」
「あんたは莉乃ちゃんの引き立て役よ」
「一人でも生きていける強い人だ」
毒親たちや航太から投げつけられ、心を蝕み続けていた呪いの言葉たちが――今、この温かな秋風の中に、粉々になって溶けて消えていくのを感じていた。
心の中が、空っぽになった。
けれど、それは虚しさではなかった。
これから、私が本当に愛するもの、本当に美しいと思う作品、そして本当に大切な人との思い出で満たしていくための――光に満ちた、まっさらなキャンバス。
蓮が、ポケットから右手を抜いた。
そして――私の目の前へと、その大きな、骨太の掌を差し出した。
「さあ、行こう」
蓮の瞳が、秋の陽光を浴びて琥珀色に輝いていた。
「俺たちの……新しい場所へ」
差し出された手。
それは、かつて航太が求めてきたような「支配」の手ではなかった。
莉乃が求めてきたような「搾取」の手でもなかった。
自立した一人の人間として、対等に、魂の傷跡を分かち合い、未来を共に歩むための――世界でたった一つの、本物の愛の手。
私は涙を指先で拭うと、満面の笑みを浮かべた。
「はい、黒木さん」
私は迷うことなく、自らの右手を伸ばした。
そして――蓮の大きな掌の上へと、しっかりと、力強く重ね合わせた。
ギュッと、指先が絡み合う。
蓮の体温が、力強い脈動が、私の手を通じて全身へと温かく広がっていく。
二人は並んで歩き出した。
黄金色に輝く銀杏の並木道を、秋晴れの光の中へと向かって。
振り返ることはない。
過去の亡霊たちの声など、もう風の音ほどにも届かない。




