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第54話:真壁家の消滅――泥濘の離婚届と解体される偽りの城

冷え切った初冬の小雨が、世田谷区桜上水の住宅街にしとしとと降り注いでいた。

灰色の雲が低く垂れ込め、濡れそぼったアスファルトの上には、晩秋に散った銀杏の濡れ落ち葉がぐしゃりと踏み潰されて腐臭を放っている。


かつては「閑静な第一種低層住居専用地域に構えた自慢の我が家」として、真壁恵津子が近所の主婦たちに誇らしげに見せびらかし、真壁宗治が三十年間のサラリーマン生活の記念碑として誇っていた、木造二階建ての邸宅。

だが、現在のその建物には、かつての威容など塵芥ほども残されていなかった。


外壁のモルタルには雨水の黒い筋が幾重にも垂れ落ち、雨樋は外れて庭先の枯れ草の上に打ち捨てられている。

門扉の鉄錆びた郵便受けには、ガムテープが十文字に乱暴に貼り付けられ、その上から赤い墨汁のようなインクで『強制執行済』の木札が針金で括り付けられていた。


庭先には、ダークスーツに身を包み、腕章を巻いた東京地方裁判所の執行官と、ヘルメットを被った解体工事業者の男たちが数名、手元のバインダーの図面と建物の境界杭を冷徹に見比べながら立ち会っていた。


「――民事執行法第百六十八条に基づき、不動産明渡執行を完了いたします。債務者・真壁宗治ならびに真壁恵津子に対し、本物件の占有権は正式に買受人へと移転されました。本日午後五時をもって、敷地内への一切の立ち入りを禁じます」


執行官の無機質で事務的な宣告が、雨音の中に乾いて響き渡る。


競売。

そして、強制退去。


第47話において、真壁莉乃のスポンサー企業各社から突きつけられた、総額二千八十万円に及ぶ巨額の損害賠償請求。

その契約書において、世帯主として、そして連帯保証人として自署捺印していた父・宗治と母・恵津子は、当然のことながらその債務を弁済することなど不可能だった。

第27話で莉乃の見栄のために帝国グランドホテルへ前借りして振り込んでしまった退職金五百万円はすでに灰燼に帰し、預金残高はゼロ。

さらに第48話において、相沢航太の代理人弁護士から提訴された、狂言妊娠に伴う三千万円の損害賠償請求訴訟の追撃。


負債総額は、優に五千万円を超えていた。

北関東ロジスティクスセンターへの左遷内示を受け、手取りが半分以下に激減した宗治の薄給で返済できる道理など、どこにもなかった。

二人は地方裁判所へと追い詰められ、弁護士の指示に従って【自己破産】を申請。

破産管財人の冷徹な査定により、真壁実家の土地と建物は即座に競売の対象となり、最低売却価額で不動産業者へと買い叩かれたのだ。


手元に残されたのは、新生活を始めるための当面の自由財産(法律で保護される最低限度の生活費九十九万円)と、粗末な家財道具の残骸のみ。

三十年間の労働の結晶であった持ち家は、自らが甘やかし、怪獣へと育て上げた次女の虚栄心の担保として、完全に国の手によって差し押さえられ、叩き売られたのだ。


***


「……おい、急げ。業者のトラックが待っているんだ」


傘も差さず、泥水で汚れた作業用ジャンパーの襟を立てた真壁宗治が、掠れた声で吐き捨てた。


その顔は、半年間で完全に老いさらばえていた。

白髪が頭部の半分以上を覆い、頬は削げ落ち、落ち窪んだ瞳には光の一片すら宿っていない。

かつて中堅商社の営業第一課長として、部下にふんぞり返り、家庭内の理不尽には一切目を瞑って「ことなかれ主義」を決め込んでいた男のプライドは、北関東の物流倉庫での過酷な肉体労働によって完全に粉砕されていた。


路肩に停まっていたのは、地方の格安運送業者から借りてきた、サビだらけの軽トラックが一台。

その荷台の上には、薄汚れた段ボール箱が数箱と、ペラペラの煎餅布団が一組、青いビニールシートで雑に覆われて積まれているだけだった。

三十年間の家庭の営みの残骸が、軽トラック一台の荷台にすら余るほどのみすぼらしさ。


「急げって言われたって、体が動かないのよ!!」


玄関から、足を引きずるようにして現れた母・恵津子の金切り声が響いた。


その姿もまた、かつて近所を睥睨していた傲慢な専属主婦の面影など微塵もなかった。

額の右側には、第49話で莉乃に陶器の花瓶を叩きつけられた際の、赤黒く盛り上がった引き攣れた傷痕が生々しく残り、歪な禿げを作っている。

着ているのは、近所のディスカウントショップで買った毛玉だらけの安物のフリース。

腰を曲げ、ボロボロのビニール傘を差しながら、手元にはスーパーのレジ袋に詰め込まれた数着の衣服を抱えていた。


「あんたがもっとしっかりしていれば、こんな屈辱的な目に遭わずに済んだのよ!!」

恵津子は泥水を撥ね散らかしながら、軽トラックの荷台の脇に立つ宗治へと詰め寄った。

その目は真っ赤に血走り、理性を失った狂犬のように濁りきっていた。


「私の実家……私の誇りだった家が、競売ですって!?

近所中が見てるのよ! カーテンの隙間から、あの奥さんたちが私を指差して笑ってるのよ!!

『真壁さんのところ、夜逃げ同然で追い出されたわね』って!!

全部、全部あんたが無能だからよ!! 父親のくせに、一家の主のくせに、家一つ守れない甲斐性なし!!」


「……何だと!?」


宗治の喉から、低く濁った怒号が漏れ出た。

彼は積み込みの手を止め、荷台のあおりをバンッ!と力任せに叩きつけた。

錆びた鉄板が鈍い音を立てて震える。


「誰が無能だと言ったんだ、恵津子!!」


宗治は血走った目を剥き出しにし、恵津子の胸ぐらに掴みかからんばかりの勢いで詰め寄った。

口から唾を飛ばし、雨水に濡れた顔を歪める。


「俺が無能だと!? ふざけるなッ!!

この家が競売にかけられたのは、俺のせいか!?

違約金の連帯保証人に俺の名前を書かせたのは、誰だ!!

『莉乃ちゃんは真壁家の自慢の宝よ』『将来何倍にもなって返ってくる先行投資よ』って、俺を言いくるめて、俺の三十年間の退職金五百万円を前借りさせてドブに捨てさせたのは、他ならぬお前だろうがッ!!」


致命的な急所への打撃。

失われた五百万円。

もしあの退職金が手元に残っていれば、たとえ会社を左遷されようと、小さくとも借家を借り、老後の最低限の蓄えを維持することはできたはずだった。

それを、娘の「格落ちしたくない」という見栄のためだけに全額を溶かさせ、自分を無一文の破産者へと叩き落とした元凶。


「お前が!! お前が莉乃を甘やかして、何一つ我慢を教えずに育てたからこうなったんだ!!」

宗治は拳を振り上げ、雨の空に向かって叫んだ。


「掃除も料理もできない寄生虫に育て上げ、他人の作品を盗んで嘘をつく怪獣にしたのはお前だ!!

そのツケを全部俺に背負わせやがって!!

返せ!! 俺の退職金を返せ!! 俺の三十年間の人生を返せぇぇッ!!」


「何よ!! 私のせいにする気!?」

恵津子も負けじと、傘を放り出して宗治の胸板を両手で突き飛ばした。

雨水が恵津子のボサボサの白髪交じりの頭に容赦なく降り注ぎ、額の古傷を濡らしていく。


「あんたが普段から家庭のことに関わろうとせず、逃げてばかりいたからでしょうが!!

私が一人で莉乃ちゃんの面倒を見て、どれだけ苦労したと思ってるのよ!!

あんたは給料を運んでくるだけで、家の中の空気なんて一度だって気にしたことがなかったじゃない!!

栞のこともそうよ!!

あんた、栞が莉乃ちゃんのために裏方やってるのを知ってて、見て見ぬ振りをしてたじゃない!!

『お姉ちゃんが妹を助けるのは美談だ』なんて言って、美味しい汁だけ吸ってたのはあんたも同じでしょうが!!

自分だけ被害者面するんじゃないわよ、この役立たずの給料泥棒がぁぁッ!!」


醜悪極まりない、泥沼の責任のなすり合い。


他人の人生を搾取し、長女を「妹のスペア」として使い潰すことで成り立っていた共依存の家庭。

その偽りの平和のメッキが剥がれ落ちた今、残されたのは互いを食い破り、互いに毒を吐きかけ合うだけの、浅ましい二匹の怪物の残骸だけだった。

そこには、自分たちが長女・栞に対して犯してきた二十年間の虐待に対する反省など、塵芥ほども存在しなかった。

あるのはただ、「なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか」という、果てしない自己愛と他責のドロドロとした怨嗟のみ。


「うるさい!! 黙れ、この悪魔め!!」

「あんたこそ死になさいよ!! 私の人生を返せぇぇッ!!」


冷たい雨の中、二人は軽トラックの荷台の前で、互いの胸ぐらを掴み合い、罵声を浴びせ合いながら泥水を撥ね合っていた。


だが――その二人の悲壮な怒号に、耳を傾ける者は誰もいなかった。


周囲の住宅街。

両隣の瀟洒な住宅の窓には、厚手の遮光カーテンがぴっちりと閉ざされていた。

かつて回覧板を回し、立ち話をしていた近隣の住民たちは、誰一人として外に出てこない。

関わり合いになりたくない。

ネットで大炎上し、殺人未遂と詐欺で破滅した一家の「負の遺産」から、目を背けるようにして家の中に閉じこもっている。

見送りも、同情の言葉も、惜別の涙もない。

ただ、近隣一帯から「害虫がようやく立ち退く」と冷淡に見下ろされているだけの、完全なる孤立無援の終焉。


「……おい、お前ら」


その時、雨合羽を着た運送業者の運転手の男が、運転席の窓から面倒くさそうに顔を出した。


「もう時間だぞ。次の現場があるんだから、さっさと乗るか諦めるかしろ。……役所から預かってきた書類、忘れてんじゃねえだろうな」


運転手の冷たい一言に、取っ組み合っていた宗治と恵津子の動きが、ピタリと止まった。


二人の荒い息遣いが、白い煙となって冬の空気に溶けていく。

掴み合っていた手が、互いに汚らわしい汚物を払い落とすかのように、パッと離された。


宗治はポケットから、濡れた茶封筒を取り出した。

震える手で封を破り、中から引き出したのは――一枚の、緑色の枠線が印刷された用紙だった。


『離婚届』。


すでに、区役所の戸籍課で手に入れておいたものだった。

自己破産の手続きが完了し、実家が競売にかけられた時点で、もはや二人が「夫婦」として共に暮らす理由は、地球上のどこを探しても残されていなかったのだ。


「……書け」

宗治は擦り切れたボールペンを恵津子へ突きつけた。


「言われなくても書くわよ!!」

恵津子はペンをひったくると、軽トラックの濡れたボンネットの上に用紙を押し広げた。

雨粒が紙の上に落ち、緑色の罫線が滲んでいく。

恵津子の震える指先が、自らの氏名を殴り書きする。

真壁、恵津子。

続いて、宗治がペンを奪い取り、自署欄に乱暴にペン先を走らせた。

真壁、宗治。


二人はポケットから、それぞれの認印を取り出した。

泥水で濡れた用紙の押印欄に、グッと、渾身の力で朱肉を押し付ける。


ジュッ、と紙が潰れる音。


その瞬間――三十年間にわたって続いていた「真壁家」という名の共同体は、法的に、完全に消滅した。


親子の情など最初からなかった。

夫婦の絆など、金と世間体という接着剤が乾いた瞬間に崩れ去る砂上の楼閣だった。

互いに顔を見合わせることもなく、二人は濡れた離婚届を二つに折り、運転手へと手渡した。


「……二度と、私の前にその面を見せるな」

宗治は前を向いたまま、冷酷に吐き捨てた。


「こっちのセリフよ!! 地獄の底で野垂れ死になさい!!」

恵津子も振り返ることなく、憎悪を込めて叫び返した。


二人の行く先は、完全に分断されていた。


父・真壁宗治は――この運送業者の軽トラックの助手席に乗り込み、北関東の物流倉庫の敷地内に建てられた、プレハブのタコ部屋宿舎へと向かう。

冷暖房もない埃まみれの四畳半で、見知らぬ日雇い労働者たちと肩を寄せ合い、手取り十数万円の薄給から借金の残債と生活費を削りながら、定年まで重い段ボールを運び続ける、孤独な強制労働の日々。

老後の平穏も、退職金も、家族の温もりも何一つない、死ぬまで終わらない泥水の日常。


一方、母・真壁恵津子は――数分後に路地の入り口に現れる、山梨の山奥に住む遠縁の親類の軽トラに引き取られていくことになっていた。

親戚中から「真壁家の恥晒し」「借金を踏み倒した詐欺師の母親」「二度と敷居を跨ぐな」と罵倒され、絶縁状を叩きつけられた末に。

唯一、哀れみ半分で「うちの納屋(農機具置き場)の隅なら寝泊まりしていい」と情けをかけてくれた、人里離れた寒村の物置小屋。

かつてデパ地下の高級惣菜を買い漁り、娘のフォロワー自慢で近所を見下していた女が、山奥の隙間風の吹き込む納屋で、親戚の冷遇と蔑視に耐えながら、一人で朽ち果てていく余生。


「行くぞ」

運転手がエンジンをかけた。


ブルルルンッ……と、黒い排気ガスを撒き散らしながら、軽トラックがゆっくりと動き出す。

宗治は助手席のシートに深く沈み込み、一度として後ろを振り返ることはなかった。

恵津子もまた、ボロボロの傘を差したまま、背を向けて泥道をトボトボと歩き去っていった。


別々の車。

別々の破滅。

長女の人生を貪り食うことでしか維持できなかった家族は、自らの撒き散らした業火によって互いを焼き尽くし、跡形もなく地上から離散していったのだ。


***


雨脚が、次第に強くなっていた。


誰もいなくなった真壁実家の敷地。

開け放たれたままの門扉の脇に、解体工事業者の男たちが、木製の太い杭を地面へと力任せに打ち込んでいた。


カケヤの鈍い打撃音が、静まり返った住宅街に響き渡る。

ドスッ、ドスッ、ドスッ。


泥の中に深く打ち込まれた杭の上に、雨除けのビニールシートで覆われた一枚の白い看板が、針金で固く固定された。


看板の中央に、黒い太文字で印刷されていた文字。


――【解体工事のお知らせ】。

【建築物名称:旧真壁邸】

【工事期間:来週月曜日より着工】

【発注者:○○不動産開発株式会社】

【解体完了後:宅地分譲地(二区画)として更地売却予定】


消滅。

建物すらも、この地上から跡形もなく取り壊され、瓦礫として処理される。

かつてそこで誰が暮らし、誰が誰を虐げ、誰が誰の人生を奪っていたのか――その痕跡の一片すら、この街に残ることは許されない。


解体業者たちがトラックに乗り込み、去っていく。

エンジン音が遠ざかり、路地には再び、冷たい雨の音だけが戻ってきた。


ザー……ッ。


雨水が、解体予告看板の表面を激しく洗い流していく。


その看板の遥か頭上。

二階の北側に位置する、薄暗い小さな部屋。


そこは――かつて、真壁栞が二十年間にわたって閉じ込められ、妹のお下がりの服を着せられ、日陰の家政婦として息を潜めていた、あの六畳間だった。


机も、ベッドも、すべて撤去され、がらんどうになった部屋。

その薄汚れた窓ガラスの外側に、冷たい冬の雨粒が、無数に、叩きつけるように打ちつけていた。


パチパチ、パチパチと音を立てて窓を濡らし、ガラスを伝い落ちていく雨の滴。

それはまるで、この呪われた館が自らの罪の重さに耐えかねて流す、最後の血涙のようでもあり。

あるいは――長年この部屋に閉じ込められていた哀れな生贄が、二度目の人生において完全に解き放たれ、光の世界へと飛び去っていったことを祝す、冷徹なる清算の雨のようでもあった。


室内には、もう誰もいない。

憎しみも、怒りも、悲しみすらも、ここには残されていない。

悪役たちが自らの欲望のままに破滅し、自らの手で築き上げた城を自らの手で粉砕した、完全なる静寂。


冷たい雨は、ただ淡々と降り続き、すべてを泥濘の彼方へと押し流していった。

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