第58話:傷跡の受容――止まった銀の秒針と魂の共鳴
ギャラリー『創』の展示ホールから奥へと続く、関係者専用通路の足音は、驚くほど静まり返っていた。
手元に抱えたテイクアウトの紙カップから、ふわりと立ち上るカフェラテの甘い湯気。
佐久間湊に背中を押されて歩みを進める私の胸の奥では、初個展を大盛況で終えた達成感とはまったく質の異なる、熱く、切ない脈動がトクトクと刻まれていた。
「……黒木さん」
通路の最奥に位置する、重厚なウォールナット材の扉。
真鍮のプレートに『VIP ROOM』と刻まれたその扉の前で、私は小さく息を吸い込み、ノックをした。
トントン。
澄んだ二回のノック音。
だが、中からの返事はなかった。
鍵はかかっていない。私は真鍮のレバーを静かに押し下げ、部屋の中へと足を踏み入れた。
銀座の夜景を見下ろす、三面採光の広々とした控室。
足元には毛足の長いチャコールグレーの絨毯が敷き詰められ、壁一面のガラス窓の外には、初夏の夜空に瞬く無数のビルの灯りと、宝石を散りばめたような大通りのテールランプが果てしなく広がっていた。
その窓辺に、ひとつの長身の影が佇んでいた。
黒木蓮だった。
仕立てのいい漆黒のスリーピーススーツを身に纏い、窓枠に片手を突いて、夜の街を見下ろしている。
けれど――その佇まいは、いつもの気だるげで何事にも動じない『Noir』のマスターの姿とは、明らかに違っていた。
ネクタイの結び目はわずかに緩められ、ポケットに入れた右手は、何かを確かめるように落ち着きなく動いている。
夜景を見つめる背中には、まるでこれから人生で最大の賭けに挑むギャンブラーのような、張り詰めた緊張の糸がピンと張り巡らされていた。
佐久間の言った通りだった。
あの、暴力にも権力にも眉ひとつ動かさず、どんな修羅場でも冷徹に煙草をくゆらせていた男が――私の前で、こんなにも落ち着かない様子を見せている。
「……黒木さん」
私がもう一度、控えめにその名を呼ぶと、蓮の肩がピクリと微かに跳ねた。
彼がゆっくりと振り返る。
窓ガラスの反射光を浴びたその端正な顔立ちには、私を見つめた瞬間、ふっと安堵したような、けれどどこか居心地悪そうな苦笑が浮かんでいた。
「……栞か」
低く、わずかに掠れた蓮の声。
彼は咳払いをひとつすると、窓枠から手を離し、ゆっくりと私の方へと歩み寄ってきた。
「佐久間から聞いたぞ。……大盛況だったそうだな。津田からも直接オファーを貰ったらしいじゃないか」
「はい。東都広告の伝統工芸プロジェクトの統括ディレクターとして、正式な契約を結ぶことになりました。……私の、本名で」
私が手元のカップを掲げて微笑むと、蓮の漆黒の瞳が、深く、優しく細められた。
彼は私の前に立つと、大きな手を伸ばし、私の頭を乱暴に、けれど信じられないほど愛おしげに撫でた。
「そうか。……上出来だ。お前が自分の足で立って、自分の力で勝ち取った結果だ。俺も……誇らしいよ」
その声の温もりに、私の胸の奥がじんわりと熱くなる。
だが――蓮の手が私の髪から離れた時、その指先が、微かに震えているのを私の目は見逃さなかった。
蓮の視線は、私の顔を見つめながらも、その奥にある「何か」を計るように、深く、重く沈んでいた。
「……黒木さん? どうかされたのですか?」
私の問いかけに、蓮は視線を逸らさなかった。
彼はポケットから両手を抜くと、深く、肺の底から息を吐き出した。
そして、部屋の中央に置かれた革張りのソファを指差した。
「座れ、栞。……話さなきゃいけないことがある」
「お話し……?」
「ああ」
蓮の表情から、一切の茶化しが消え去った。
夜の海のように深く、研ぎ澄まされた真摯な光が、その双眸に宿る。
「今まで、あいつらの復讐を最優先にしてきたから……あえて伏せてきた話だ。
俺がお前の共犯者になった理由。
なぜ、俺があの1周目の記憶をお前と共有しているのか。
そして……俺が今まで、どんな人間として生きてきたのかという……俺自身の、過去の傷跡の話だ」
***
ソファに並んで腰掛けると、部屋の照明を落とした室内には、窓の外から差し込む銀座の夜景の青白い光だけが満ちていた。
テーブルの上に置かれたカフェラテから、微かに湯気が揺れている。
蓮は組んだ指先を見つめながら、ぽつり、ぽつりと、これまで誰にも語ることのなかった己の半生を紡ぎ始めた。
「俺は元々……黒木財閥の直系、本家の次男として生まれた」
静かな告白。
だが、その名が持つ重みは、日本の経済界において誰もが知る巨大複合企業のそれだった。
「物心ついた時から、俺の周りにいた大人たちは全員、嘘と計算で塗り固められていた。
祖父の莫大な遺産、グループ企業の株式の配分、親族同士の醜い足の引っ張り合い。
『家族』という看板を掲げながら、誰もが相手の背中に刃を隠し持ち、誰かを蹴落とすことしか考えていなかった。
実の親ですら……俺を愛していたんじゃない。『後継者争いに勝つための道具』としてしか見ていなかったんだ」
蓮の薄い唇が、苦い自嘲を刻む。
「お前の実家……真壁家を見ていた時、反吐が出るほど既視感があったよ。
妹のために長女を使い潰し、都合のいい身代わりにして平然としているあの毒親どもの顔。
形は違えど、俺が幼少期から叩き込まれてきた『家族の欺瞞』そのものだったからな」
蓮は十八歳の時、親族のドロドロとした利権争いと、互いを陥れ合う血族の呪縛に耐えかね、財閥の籍を捨てて出奔したのだという。
親族からの捜索を裏社会のコネクションを使って遮断し、海外を放浪し、辿り着いたのが――古い家具やファブリックを修繕するアンティークの世界だった。
「古い家具は嘘をつかないからな」
蓮は窓の外を見つめながら、静かに言った。
「百年前に作られた椅子も、手入れをしてやれば百年先まで生き残る。人間の言葉みたいに裏切らないし、打算で擦り寄ってくることもない。
俺はあの『Noir』の店を作って、人間を信じることを完全に放棄した。
誰も愛さず、誰にも期待せず、ただ世界の片隅で世捨て人として死んでいけばいい……本気でそう思っていたんだ」
「黒木さん……」
胸が痛んだ。
いつも気だるげで、何者にも執着しないように見えていた男。
その魂の奥底に、私と同じ――いや、それ以上に深く、孤独な「家族への絶望」が横たわっていたのだと知ったから。
「だがな、栞」
蓮の横顔が、ゆっくりと私へと向けられた。
その切れ長の瞳が、熱い光を帯びて私の視線を射抜く。
「そんな俺の前に……あの日、お前が現れたんだ」
「あの日……?」
「ああ。……1周目の、あの結婚式前夜だ」
蓮の声が、一段低くなった。
それは、物語のすべての始まりであり、最大の謎であったパズルの最後のピースが、音を立てて嵌まり込もうとする瞬間だった。
「あの日、俺は帝国グランドホテルの本館に入っている高級アンティークサロンとの買い付け交渉のために、あのホテルに滞在していた。
商談を終え、タバコを吸おうとしてリネン搬入用の非常階段の踊り場を通りかかった時……俺は、偶然見かけたんだ。
妹の荷物を両手に抱え、ボロボロのリクルートスーツを着せられて、それでも背筋を伸ばして立っていた……お前の姿をな」
蓮の視線が、遥かな過去の記憶をなぞるように揺れる。
「一目で分かったよ。
理不尽な家族に搾取され、婚約者までも奪われ、すべてを奪われながら……それでも、自分の魂の気品だけは決して売り渡そうとしていなかった、お前の孤独な横顔が。
俺は……あの時のお前の中に、かつて家族の欺瞞に絶望し、一人で抗おうとしていた『かつての俺自身』を見ていたんだ」
蓮の胸元が、激しく上下した。
「救いたかった。
声をかけようとした。その腕を掴んで、あの場から連れ去ろうとした。
……だが、間に合わなかった」
蓮の奥歯が、ギリと音を立てて噛み締められた。
その瞳に宿ったのは、一度目の世界で味わった、生々しいまでの無力感と後悔。
「莉乃がお前の胸を突き飛ばし、お前が階段を転がり落ちていったあの瞬間。
俺は非常扉を蹴破って駆け下りた。
だが……後頭部を石畳に叩きつけられたお前の身体からは、すでに大量の血が溢れ出ていて、呼吸は止まりかけていた。
両親が駆け寄ってきて『事故死なら世間体も傷つかない』と安堵したあの瞬間、俺はお前を抱き起こし、手を強く握りしめながら……叫んだんだ。『死ぬな、目を開けろ』ってな」
第1話の記憶。
冷たい雨の降る非常階段の踊り場で、意識が暗転していく私の耳元に響いた、あの見知らぬ青年の悲痛な叫び声。
あの声の主は――間違いなく、目の前にいる黒木蓮だったのだ。
「お前の呼吸が止まった時、俺の心の中で何かが完全に叩き壊されたよ」
蓮の声が震えていた。
「俺は警察に他殺だと何度も訴えた。相沢家と真壁家の証言はおかしい、あの妹が突き落としたんだと、血を吐く思いで叫び続けた。
だが……警察は動かなかった。相沢家の名家の看板と、東都広告の圧力、そして『事故死』を主張する実の親たちの証言によって、お前の死はただの足踏み外しとして処理されたんだ。
俺は……救えなかった。
目の前で理不尽に殺されたお前を、何一つ守ってやることができなかったんだよ……!」
蓮の両手が、固く握りしめられていた。
爪が手のひらに食い込み、白く鬱血するほどに。
「あの夜、俺はお前の死骸の前で誓ったんだ。
もう二度と、大切なものから目を逸らさない。
もう二度と、理不尽に踏みにじられる命を見殺しにはしない、とな。
……そして、目覚めたら――あの日だった」
「……え?」
「お前が十八歳の春に目覚めたのと同じ朝……俺もまた、十八歳の時の自室で目を覚ましていたんだよ」
蓮がフッと、切なげに息を吐き出した。
「最初は狂ったかと思った。夢を見たのかと。
だが、胸の奥に残っていたあの激痛と後悔は、本物だった。
俺は即座に『Noir』の店を立ち上げ、お前を探し回った。
そして……あの春の昼下がり、お前が自ら俺の店のドアを押し開けて、面接にやってきたんだ。
人を何人も埋めてきたような、あの冷徹で美しい復讐者の瞳をしてな」
第4話の、あの邂逅。
初対面のはずの蓮が、なぜ一目で私の纏う闇を見抜き、「俺の店を好きなだけ隠れ蓑に使え」と無条件の庇護を申し出てくれたのか。
その理由のすべてが、今、完璧な一本の糸となって私の胸の奥で結ばれた。
蓮は、偶然の協力者などではなかったのだ。
一度目の人生において、世界の誰一人として私の死を悼まなかったあの暗闇の中で、ただ一人、私のために涙を流し、私のために警察へ怒りをぶつけ、私の死を背負って二度目の人生へと降り立ってくれた――唯一無二の共犯者だったのだ。
「黒木、さん……」
私の視界が、涙で滲んだ。
言葉が出なかった。
彼が私に注ぎ続けてくれていた無償の庇護、あの過保護なまでの甘やかしの裏側に、これほどまでに重く、深い贖罪と愛が眠っていたのだという事実に、胸が締め付けられて息ができなかった。
だが――蓮の告白は、まだ終わっていなかった。
「……これを見てくれ」
蓮は静かに息を吸い込むと、スーツの上着の内ポケットへと手を差し入れた。
そして、そこから取り出したものを――私の前のテーブルの上へと、そっと置いたのだ。
カチリ。
静かな金属音が、テーブルのガラス天板に響いた。
そこに置かれていたのは――手のひらに収まるほどの、古びた銀製の懐中時計だった。
蓋にはアール・ヌーヴォー調の繊細な百合の彫刻が施されている。
だが、その銀の表面には、無数の擦り傷と、硬い石畳に激突したような深い窪みが刻まれていた。
文字盤を覆う風防ガラスは斜めにヒビが入り、その奥で――三本の針が、ある特定の時刻を指したまま、永久に停止していた。
午後十一時四十七分。
「……あ……」
私の喉から、声にならない吐息が漏れた。
見覚えがあった。
あまりにも、鮮烈に。
それは――亡き祖母が、私が高校を卒業した時に「いつか自分の時間を刻みなさい」と遺してくれた、母や妹に奪われることなく、私が唯一肌身離さず持っていた懐中時計だった。
そして――一度目のあの夜。
非常階段から突き落とされた瞬間、私のスーツのポケットから零れ落ち、石畳の上で砕け散った、あの時計。
「あの日……お前が息絶えた現場で、お前の冷たくなった手から零れ落ちたものを、俺が拾い上げたんだ」
蓮の指先が、傷だらけの銀の蓋を優しく撫でた。
「二度目の世界で目覚めた時……俺の手元には、なぜかこの時計だけが残っていた。
時間を巻き直そうとしても、リューズは回らない。針は二度と動かない。
……お前の命が止まった、あの時刻を指したままな」
蓮は顔を上げ、私の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、張り詰めていたすべての迷いが吹き飛んだ、澄み切った熱情が宿っていた。
「俺はな、栞。この時計を見るたびに、自分を戒めてきたんだ。
二度目はお前を一人で地獄に行かせない。
お前が復讐を遂げるその瞬間まで、俺のすべてを賭けて、お前の盾になってみせる、と。
……この時計は、俺がお前を救えなかった悔恨の証拠であり……お前を二度と離さないと誓った、俺の魂のアンカー(錨)だったんだよ」
「黒木、さん……っ……!」
私の震える指先が、テーブルの上の銀の時計へと伸びた。
触れる。
ひんやりとした金属の冷たさ。
けれど――その冷たさの奥深くに、蓮がこの数年間、片時も離さずポケットに忍ばせ、握り締め続けてくれていた、確固たる体温の残滓が宿っていた。
涙が、止まらなかった。
ボロボロと、大粒の雫が私の目から溢れ出し、傷ついた風防ガラスの上へと落ちて、光を乱反射させる。
超自然的な「死に戻り」という奇跡。
私一人だけが背負わされた呪いだと思っていた。
誰にも理解されず、誰にも打ち明けることのできない、孤独な悪夢だと思っていた。
けれど――違ったのだ。
この人は。
黒木蓮という男は、最初から私の隣で、同じ痛みを、同じ記憶を、同じ悔恨の質量を、その身ひとつで背負い続けてくれていたのだ。
共犯者。
そんな便利な言葉では、到底言い表せない。
互いの魂の傷跡を、互いの闇の深さを、言葉を交わす前から分け合い、慈しみ合ってきた――この世界のどこを探しても二つとない、唯一無二の伴侶。
「う……っ、うわぁぁ……っ……」
私の嗚咽が、静まり返った部屋に響いた。
蓮は立ち上がると、私の隣へと膝をついた。
そして――両腕を大きく広げると、震える私の身体を、その逞しい胸元へと力強く抱き寄せたのだ。
ドサリと、私の顔が蓮の胸元に埋まる。
スーツの生地越しに伝わってくる、激しく、力強い心臓の鼓動。
深い白檀の香りと、ビターな煙草の匂い。
「栞……」
蓮の太い腕が、私の背中に回され、骨が軋むほどの力で抱きしめられる。
壊れ物を抱きしめるような慎重さと、二度と誰にも奪わせないという狂おしいほどの執着が、その腕の強さの中に同居していた。
「もう……泣くな。お前は生き残ったんだ。
俺の目の前で、生きて、息をして……世界で一番美しい作品を作って、ここにいる」
蓮の掠れた声が、私の耳元を熱く撫でる。
「過去の傷跡も、お前が被った泥も、俺が全部引き受けてやる。
……だから、もう二度と、一人で怯えるな」
「はい……っ、はい……! 黒木さん……っ……!」
私は蓮の背中に両手を回し、そのスーツの生地を強く、強く握りしめ返した。
互いの過去を暴き合うのではない。
互いの過ちを責め立てるのでもない。
ただ、互いが背負ってきた痛みの記憶を、その傷跡ごと丸ごと抱きしめ、慈しみ合うこと。
その絶対的な受容の温もりの中で、私の魂の奥底に残っていた最後の棘が、完全に、溶けて消え去っていくのを感じていた。
私たちは、共犯関係を超えたのだ。
復讐という暗黒の契約で結ばれた関係から、魂の根底で傷を分かち合える、完全に対等なパートナーシップへと――今、この光の中で昇華したのだ。
どれほどの時間、二人はそうして抱き合っていただろうか。
やがて、蓮はゆっくりと腕の力を緩めると、私の身体をわずかに引き離した。
蓮の大きな手が伸び、私の濡れた頬を、親指の腹でそっと、優しく拭う。
夜景の光が、二人の重なる影を青白く照らし出していた。
蓮の表情は、これまでの人生で一度も見たことがないほど、静かで、凛としていた。
迷いも、照れも、一切の躊躇もない。
ただ、一人の男が、生涯を賭けて愛する女に対峙する時の、崇高なまでの決意の光。
スッ……と。
蓮は、スーツの上着の内ポケットへと、静かに右手を差し入れた。
その指先が、何かを取り出そうとしている。
蓮の視線が、私の瞳の奥を、魂の芯を射抜くように見つめた。
そして――低く、澄み切った声で、運命の言葉を紡ぎ出したのだ。
「栞」
蓮の唇が、静かに動く。
「……俺の人生のすべてを、お前に預けたい」




