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第52話:航太の末路――泥に塗れた救世主と冷徹なる清算

都心から電車を乗り継いだ郊外の線路沿い、トタン屋根が軋む築四十年を超える木造二階建ての風呂なしアパート。

湿った埃と黴、そして安酒の饐えたアルコール臭が充満する四畳半の畳の上で、相沢航太は薄汚れた煎餅布団に突っ伏していた。


「……う、あ……っ……」


喉の奥から、乾いた空気の漏れるような呻き声が零れる。

頭蓋骨の内側を金槌で直接殴打されているかのような、激しい二日酔いの頭痛。

充血しきった瞳を無理やり押し開けると、視界に飛び込んできたのは、床一面に散乱したコンビニのワンカップ酒の空き瓶と、汁の干からびたカップ麺の容器、そして足の踏み場もないほどに散らばった封書と請求書の残骸だった。


東都広告からの横領金弁済通告書――八百万円。

弁済期日:昨日。

すでに期日は過ぎ去っていた。

タワーマンションの住宅ローンの一括返済催告状、高級外車の残債請求、信販会社からのカード利用停止通知。

総額、一億数千万円に及ぶ破滅の数字。

携帯電話の電源は、昨日の昼過ぎに切ってあった。

電源を入れれば、会社の法務部、債権回収業者、そして莉乃との間で泥沼の訴訟を起こすために雇ったはずの悪徳弁護士からの着信が、秒単位で鳴り止まなくなるからだ。


「誰のせいだ……? 俺が……俺が何をしたって言うんだ……!」


航太は無精髭の伸びた顎をガリガリと爪で掻きむしりながら、畳の上を這い回った。

東都広告の第一営業局で、最年少ディレクターとして将来を嘱望されていたはずのエリート人生。

高級スーツを身に纏い、芝浦のタワーマンションの最上階近くから東京湾の夜景を見下ろし、銀座の会員制バーで同僚たちにワインを振る舞っていた、あの輝かしい日々。


それが、わずか数日のうちに灰燼に帰した。

会社を懲戒解雇され、退職金は全額不支給。

世田谷の本家屋敷では、母・静代から「相沢家の名を泥靴で踏みにじった罪人」として親族一同の前で勘当され、名籍から除籍された。

身ぐるみを剥がされ、着の身着のままで放り出された先が、この日当たりの悪い四畳半の牢獄だった。


「真壁莉乃……あの悪魔のせいだ……!」


航太の血走った目が、憎悪でドス黒く濁る。

狂言妊娠で自分を騙し、結婚を強要し、会社の金を横領させ、自らの虚栄心のために人生を食い潰した泥棒猫。

だが、莉乃への怒りを燃やせば燃やすほど、逃れられない冷酷な現実――自分自身が犯した横領と背任、そして来週にも警察に逮捕されるかもしれないという手錠の恐怖が、鋭い刃となって胸を抉り抜く。


助けてくれる者は、誰もいない。

会社も、母親も、親族も、かつて自分に群がっていた友人や後輩たちも、全員が自分を汚物のように見捨てて逃げ去った。


極限の孤独と絶望。

アルコールによって麻痺し、腐敗しかけた航太の脳細胞が、その逃げ場のない暗闇の中で――突如として、奇妙で、おぞましい「光」を幻視した。


(……待てよ)


航太の指先が、ピクリと止まった。


(俺には……まだ、いるじゃないか。

俺を本当に愛してくれていた人間が……俺が手を差し伸べれば、絶対に受け入れてくれる女が、一人だけ残っているじゃないか……!)


脳裏に浮かび上がったのは、ひとつの可憐な面影だった。


真壁栞。


第11話、大手広告代理店の大会議室で初めて会った時の、控えめで、影のある健気な横顔。

第12話、高級ホテルのラウンジで、自分の見栄を張った自慢話を瞳を潤ませながら聞いてくれた、あの純真な態度。

老舗ブランドのシルクスカーフを贈った時、頬を赤らめて受け取ってくれた、あの奥ゆかしい仕草。

そして――第14話で、莉乃に乗り換えることを告げたあの日、目元を手で覆って静かに肩を震わせていた、あの涙。


(そうだ……! 栞さんだ!!)


航太の濁っていた瞳に、狂気じみた異様な光が灯った。

自らの都合の良い記憶だけを繋ぎ合わせ、美化し、改竄し、歪め尽くした、病的な妄想の暴走。


(栞さんは、俺を愛していたんだ!

妹の影に隠れて、ずっと俺のことを想い続けていたんだ!

あの日、俺が莉乃を選んだ時だって、栞さんは身を引いてくれた……俺を責めることもなく、健気に涙を呑んでくれたじゃないか!

あの結婚式の暴露映像だってそうだ!

栞さんは……俺を騙していた莉乃に復讐するために、俺をあの悪魔から救い出すために、命がけであの映像を作ってくれたんじゃないのか!?)


救世主コンプレックスの、最悪の反転。

かつて「俺が救い出してやる」と傲慢に優越感を貪っていた男が、自滅の淵に立たされた瞬間、今度は「あの女が俺を救ってくれるはずだ」という身勝手極まりない寄生願望へとすり替わったのだ。


(あのアトリエ……『Atelier Shiori』!

あそこには、栞さんの才能がある! あの子が作ったデザインやハンドメイドには、何千万円もの価値があるんだ!

俺が今すぐ行って、あの子の手を取ってやればいい。

『君の気持ちに気づかずに悪かった。本当に愛していたのは君だ』って抱きしめてやれば、あの子は泣いて喜ぶに決まっている!

あの子の才能で、俺の借金を返してもらえばいい。

あの子に俺を養わせ、二人で新しい会社を作れば……俺はもう一度、エリートとして返り咲くことができるんだ!!)


「あは……あはははは!」


四畳半の部屋に、掠れた狂気の笑い声が響いた。

航太は跳ね起きるようにして立ち上がると、泥のついたシワだらけのスーツの上着を羽織り、乱暴にドアを開け放った。


救いがある。

俺の人生を元通りにしてくれる、最高の召使いが待っている。

男の醜悪な妄執は、自らを最後の処刑場へと向かわせる足音であることにも気づかぬまま、一途に加速していった。


***


午後五時を回り、冬の冷たい夕暮れが街を紫紺の影で染め上げていた。

雨上がりの澄んだ空気の中、渋谷区の閑静な住宅街に佇む洋館『Atelier Shiori』の周囲には、凛とした静寂が流れていた。


石畳の緩やかな坂道を、一人の女性が歩いて登ってくる。

真壁栞だった。


シックなチャコールグレーの上質なウールコートを纏い、首元には自ら編み上げた生成りのマフラー。

手元には、来週から始まる新しいインテリアファブリックの展示会のために、日本橋の老舗問屋で選び抜いてきた最高級の草木染めリネンの包みを抱えていた。

その足取りは驚くほど軽やかで、澄み切った瞳には、自らの足で人生を切り拓く者だけが宿す、揺るぎない誇りと静謐な喜びが満ちていた。


昨日、毒親である宗治と恵津子が押し寄せてきた騒動など、彼女の心には塵芥ほどの翳りも落としてはいない。

法的な防壁と、共犯者・黒木蓮の鉄壁の庇護によって、過去の呪縛は完全に外界へと遮断されていたからだ。


アトリエのレンガ造りの前庭へと続く、細い路地の角を曲がろうとした――その時だった。


ガサッ、と。

路地裏のブロック塀の陰から、不気味な物音が響いた。


「……え?」


栞が足を止めた瞬間。

湿った生ゴミのような異臭とともに、ひとつの影が、よろめきながら目の前へと飛び出してきたのだ。


「……栞、さん……ッ!!」


絞り出すような、掠れた男の声。


立ちふさがったその人影を目にした瞬間、栞の眉がかすかに動いた。

だが、そこに恐怖の色はなかった。

ただ、道端に転がる汚れた泥の塊を検分するかのような、冷徹な観察の視線。


そこに立っていたのは――相沢航太だった。


かつて東都広告のエリートとして、清潔感のあるスーツを着こなし、爽やかな笑顔を張り付けていた男の面影は、完全に消滅していた。

ボロボロに毛羽立ったシワだらけのスーツ。襟元は黄ばみ、ネクタイは歪んでほつれている。

革靴のかかとはすり減り、泥がこびりついていた。

何日も剃っていない無精髭が頬を覆い、落ち窪んだ両目は真っ赤に血走り、唇は乾燥してひび割れている。

全身から漂うのは、安酒と汗が混ざり合った、饐えた腐敗の臭気。


「……相沢さん」


栞の声は、真冬の氷のように平坦だった。

驚きも、動揺も混ざっていない、完全な無機質。


その冷たい呼びかけに、航太の顔筋が奇妙に歪んだ。

彼は救われたような、狂喜に満ちた笑みを口元に浮かべると、両手を広げて一歩、栞へと詰め寄ってきた。


「栞さん……! 会いたかった……! ずっと、君を探していたんだ!!」


航太の言葉は、濁流のように溢れ出た。

唾を飛ばし、肩を激しく上下させながら、身勝手な妄想の告白を始める。


「俺が悪かったんだ、栞さん!

全部……全部、莉乃に騙されていたんだよ!

あいつが狂言妊娠で俺を脅迫して……俺を無理やり結婚に引きずり込んだんだ!

あいつのせいで、俺は会社をクビになり、母さんにも勘当され、八百万円もの借金を背負わされた!

俺は被害者なんだ、栞さん! あいつに人生をメチャクチャにされたんだ!!」


航太は目を潤ませ、自らの胸を拳で叩いてみせた。


「でも、俺は気づいたんだ!

結婚式のあの映像を見て……俺を本当に愛してくれていたのは、君だけだったんだって!

君はずっと、俺のことを想ってくれていたんだろう!?

あのスカーフを大切にしてくれて、俺が莉乃に奪われた時も、陰で泣いてくれていたんだろう!?

君が俺を救うために、あの映像で莉乃の嘘を暴いてくれたんだ……そうだろ!?」


航太は両膝をガクガクと震わせると、石畳の濡れた地面の上へと、ドサリと両膝を叩きつけた。

そして、泥水が跳ねるのも構わず、栞の靴先へ向けて額を地面へと擦り付けたのだ。


土下座。

かつて見下し、「一人でも生きていける」と切り捨てた女の足元への、最も無様で浅ましい懇願。


「やり直そう、栞さん!!」


地面に額を押し付けたまま、航太は泣き叫んだ。


「俺が悪かった! 本当に愛していたのは君なんだ!

俺と君なら、完璧なパートナーになれる!

君のこのアトリエの才能があれば、俺の借金なんてすぐに返せる!

俺が君のマネージャーになって、昔のように君を輝かせてやるから!

だから……頼むから、俺を助けてくれ!! 俺を受け入れて、君が俺を支えてくれぇぇッ!!」


泥に額を擦り付け、すがりつく元婚約者。

自らの力で立つことを放棄し、他人の血と才能に寄生することだけを求め、自滅の淵に至ってもなお「女に救ってもらおう」とする、救いようのない甘えと浅ましさの極致。


静寂。


雨上がりの路地に、航太の荒い呼吸音だけが惨めに反響していた。

彼が待っていたのは、かつてのように「相沢さん、顔を上げてください」と健気に手を差し伸べてくれる、優しい聖女の温もりだった。


――だが。


カツン。


冷ややかな、ヒールの音がひとつ、石畳を鳴らした。


栞は――一歩、後ろへと後退ったのだ。


泥水の中に頭を擦り付ける航太から、まるで汚染物質を避けるかのように、正確に距離を取る。

その瞳には、怒りすら浮かんでいなかった。

あるのはただ――道端に転がる汚泥を見るような、底知れぬ侮蔑と、吐き気を催すほどの冷徹な拒絶。


私の薄い唇が、静かに開かれた。


鈴の音のように透き通った、けれど絶対零度の刃のような一言が、夕暮れの路地に落ちた。


「……相沢さん」


航太が、すがるように顔を上げた。

泥のついた額、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔。


その男の顔面を、私の言葉が容赦なく切り裂いた。


「あなたが愛していたのは……私ではありませんわ」


「え……?」

航太の思考が、凍りついた。


「あなたが愛していたのは、私でも、莉乃ちゃんでもない。

……『都合よく自分を立ててくれて、自分を神のように崇めてくれる召使い』でしょう」


一分の狂いもない、魂の核心の暴き立て。


「な……何を……何を言ってるんだ、栞さん……!? 俺は、君の健気さに――」


「健気?」

私の口元に、ふっと、憐憫を含んだ冷笑が浮かんだ。


「私があなたに見せていた姿は、すべて計算づくの演技でしたわ。

あなたが救世主コンプレックスをこじらせ、手のかかる女を支配したがるモラハラ男だと知っていたからこそ……あなたが欲しがる『健気な獲物』の餌を撒いてあげただけです」


「な……っ!?」

航太の顔から、サーッと血の気が引いていく。


「そして、お望み通りに莉乃ちゃんへと乗り換えてくださった。

あの時、私は心の中で快哉を叫びましたわ。

『地雷物件を無事に引き取ってくれてありがとう』とね」


私は一歩も退かず、見下ろすように告げた。


「あなたが背負った横領の罪も、背任の処分も、借金も、勘当も……すべて、あなた自身の浅ましい見栄と強欲が招いた自業自得です。

私があなたを救う? やり直す?

……虫唾が走りますわ。

誰があなたのような、他人に寄生することしか能のない生ゴミを、二度と自らの人生に招き入れるものですか」


「あ……が……っ……!!」


航太の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。

幻想の完全なる崩壊。

自分を慕い、自分を待ってくれているはずだった聖女など、最初から存在しなかった。

目の前にいるのは、自らの手で自分をこの地獄へと誘導し、崖の上から冷ややかに見下ろしていた――完全なる支配者だったのだ。


「う、嘘だ……嘘だぁぁッ!!」


プライドの最後の残骸が、発狂の炎となって暴発した。

航太は目を血走らせ、泥だらけの手を振り上げて立ち上がった。

獣のように唸り、栞の華奢な手首を力任せに掴み取ろうと突進してきたのだ。


「ふざけるなッ!! お前もグルだったのか!!

俺の人生を狂わせやがって!! タダで済むと思うなよ、お前も道連れだ――ッ!!」


狂乱の爪が、栞のコートの袖へと迫った――その、刹那。


ガシィィッッ!!!!


骨が軋むような、凄まじい衝撃音が路地に響き渡った。


「ぎゃあああああーーーッッ!?」


航太の絶叫が、夕暮れの空を突き破った。


航太の右の手首。

突進してきたその腕の関節を――横合いから伸びてきた、鋼のような分厚い掌が、上から完璧に鷲掴みにしていたのだ。

逃げ場のない、骨を直接握り潰すような圧倒的な握力。


航太の身体が、抗うことのできない力によって捻り倒され、石畳の上へと激しく叩きつけられた。


ドシャァッッ!!


「い、痛い……痛い痛いッ!! 骨が折れる、離せぇぇッ!!」

泥水の中で悶絶する航太の頭上から、冷え切った影が落ちてきた。


黒木蓮だった。


仕立てのいいチャコールグレーのコートを翻し、煙草の煙をくゆらせながら見下ろすその瞳。

夜の底よりも暗く、研ぎ澄まされた殺意を湛えた漆黒の双眸が、至近距離から航太の顔面を射抜いていた。


蓮の靴先が、航太の胸板を軽く、けれど逃げられない重みで踏みつける。


「……おい、勘違い野郎」


低く、地割れのように響く蓮の声。


「誰の女に、その汚ねぇ手を伸ばそうとしてるんだ?」


「ひ……っ!?」

航太の全身の毛穴が、本能的な恐怖で逆立った。

敵わない。

生物としての格が、暴力の密度が、精神の強度が、あまりにも違いすぎる。

この男は、自分のような口先だけのエリートとは違う、本物の暗黒を背負った人間だという直感が、航太の脳を麻痺させた。


「あ……貴様……誰だ……!? 警察を呼ぶぞ、離せッ!!」

航太が泣き叫ぶ。


だが、蓮は冷笑を浮かべ、煙草を携帯灰皿に押し消すと、路地の入り口へと視線を向けた。


「警察? ……呼ぶまでもねぇよ。お前の相手は、こっちだ」


ブロロロロ……。


蓮の合図と同時に、路地の両端から、二台の黒塗りの国産大型セダンが音もなく滑り込んできた。

前後の退路を完璧に塞ぐように停車する車輌。


バタン、バタンとドアが開き、中から降りてきたのは――仕立てのいいダークスーツを着こなした、ガタイのいい三人の男たちだった。

その胸元には、東都広告の指定する大手債権回収会社(サービサー)の社章。

手元には、弁護士の印章が押された分厚い債務回収受託書と、裁判所の仮差押決定通知書が握りしめられていた。


先頭の回収責任者の男が、泥水に這いつくばる航太の前へと歩み寄ると、冷淡に名刺と書類を突きつけた。


「相沢航太さんですね。……探しましたよ」


男の事務的で、一切の情け容赦のない声が響く。


「東都広告株式会社様より、貴殿に対する業務上横領金八百万円、ならびに損害賠償請求債権の全額回収を受託いたしました。

弁済期日は昨日正午でしたね。一切のご連絡がないままアパートも引き払おうとされていたようですが……逃げ切れるとでも思いましたか?」


「あ……あぁ……っ……!」

航太の顔から、完全に表情が崩壊した。


完璧な包囲網。

黒木蓮がメディア業界と広告業界の太い人脈を駆使し、東都広告の法務部および債権回収の動きをミリ単位で把握していたからこそ実現した、合法的な罠の配置。

航太が栞のアトリエを嗅ぎつけ、待ち伏せしに現れる動線を佐久間湊が監視カメラのネットワークで補足し、そこへ回収業者を正確に鉢合わせさせたのだ。


栞の手は、一ミリも汚れていない。

暴力を振るう必要も、脅迫する必要もない。

航太が自ら犯した罪の代償が、正規の法律と契約の執行者となって、彼自身の首を絞め上げに現れただけだった。


「連れて行け」

回収責任者が短く指示を出す。


屈強な二人の男が、泥まみれの航太の両脇を抱え上げた。


「嫌だ……! 嫌だぁぁッ!! 栞さん!! 助けてくれ栞さんッ!!」


航太は足をバタつかせ、涙と鼻水を撒き散らしながら、必死の形相で栞へと手を伸ばした。

だが、その哀れな叫び声に、栞が足を止めることはなかった。


黒塗りのセダンの後部座席へと、乱暴に押し込まれる航太。

バタンッッ!!と重いドアが閉ざされ、ロックがかけられる。

車の窓ガラスの向こうで、航太が狂ったようにガラスを叩く姿が、スモークフィルムの奥へと消えていく。


ブロロロ……と低い排気音を残し、二台の車は夕闇の迫る幹線道路へと向かって走り去っていった。


連行。

待っているのは、タワーマンションと高級外車の強制売却。

自己破産すら許されない、横領金の返済に追われながら、日雇い労働と債権回収の監視下で一生を泥水の中で這い回る、終わりのない底辺の日常。

かつて見栄とプライドだけで生きていたエリートは、こうして社会の奈落の底へと、永遠に退場していった。


***


路地に、静寂が戻ってきた。


冷たい夕風が吹き抜け、雨上がりのアスファルトを乾かしていく。

栞は胸に抱えていたリネンの包みを抱き直すと、前を見据えた。


その胸の奥底。

一周目のあの日から、ずっと澱のようにこびりついていた、航太への冷たい憎悪と屈辱の残滓。

「君は一人でも生きていける」と私を捨て去り、妹の引き立て役として私を殺すきっかけを作った元婚約者への因縁が――今、完全に、一片の濁りもなく晴れ渡っていくのを感じていた。


もう、あの男の影すら、私の心には触れることはできない。

完全なる、精神的な勝利と解放。


スッ……と、隣に立った蓮が、大きな手を伸ばしてきた。

そして――私の華奢な肩を、優しく、力強く抱き寄せた。


「……終わったな」


低く、温かい蓮の声。

その腕の温もりが、冬の冷気を遮るように私の体を包み込む。


蓮は走り去った車の行方を見つめた後、私を見下ろし、口元に微かな笑みを浮かべた。


「これで、あの男もお前の人生から……完全に退場だな」


「ええ」


私は蓮の胸元にそっと顔を寄せ、深く息を吸い込んだ。

白檀の香りと、確固たる体温。

生まれて初めて味わう、完全に毒の消え去った世界での、安らかな呼吸。


「ありがとうございます、黒木さん」


「礼を言うのは、全部片付いてからだ」

蓮は私の頭をぽんと軽く叩くと、アトリエのドアを指差した。

「腹減っただろ。今夜は美味いシチューでも作る。……入れ」


「ふふ、楽しみにしていますね」


二人は並んで、光の灯るアトリエの中へと足を踏み入れた。

背後で閉ざされた重厚なオーク材の扉は、もう二度と、過去の亡者たちを招き入れることはない。


そして――。

元婚約者と毒親たちが自滅し、残された最後の復讐対象――真壁莉乃の身にも、自らが築き上げた虚栄のツケを永遠に支払い続ける、冷酷な檻の鉄格子が下りようとしていた。

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