第51話:すがりつく亡者たち――鉄壁の法門と路傍の亡霊
凍てつくような冬の雨が、世田谷の住宅街の狭い路地を濡らしていた。
雨樋から溢れた汚れた雨水が、真壁家の門扉の前に置かれた壊れかけの郵便受けを容赦なく打ち据えている。
だが、その郵便受けの中身を回収する者は、ここ数日のあいだ誰一人としていなかった。
隙間から溢れ出していたのは、もはや日常の郵便物などではない。
赤と青の警告色で印字された、大手法律事務所からの内容証明郵便の束。
地方裁判所から届いた特別送達の封筒。
そして、消費者金融やクレジット会社からの、幾重にも重なる督促状の山。
薄暗いリビングの空気は、完全に腐敗していた。
床の上には、第49話で真壁莉乃が母・恵津子の額へと叩きつけて粉々に粉砕した、あのイタリア製陶器の花瓶の破片が散らばったままだった。
乾いて黒ずんだ血痕が白いレースのテーブルクロスにこびりつき、異臭を放つ生ゴミの袋が部屋の四隅に山積みになっている。
二階からは、引きこもった莉乃が時折、何かに怯えたように「嫌ぁぁッ!」「来ないで!」とヒステリックに叫び、壁を蹴りつける鈍い音が響いてくるだけだった。
第50話で野村千佳が全世界へ放流した暴露動画は、すでに再生回数五百万回を超え、真壁莉乃という存在は「日本中から唾を吐きかけられる結婚詐欺師」として完全に社会的息の根を止められていた。
そして、リビングのガラステーブルを挟んで、二人の大人が、死人のような顔で向かい合っていた。
父・真壁宗治は、北関東ロジスティクスセンターへの左遷内示を受け、管理職手当を剥奪されて手取りが半分以下に削られた現実を受け止めきれず、脂汗を垂れ流しながら電卓を叩き続けていた。
だが、どれほど数字を打ち直そうと、液晶画面に表示される絶望の桁数が減ることはない。
スポンサー企業各社からの損害賠償請求――金二千八十万円。
相沢航太の代理人弁護士から届いた、婚姻無効調停および詐欺的婚姻に伴う慰謝料請求――金三千万円。
披露宴費用の不足分として前借りし、すでに全額を失った退職金――五百万円。
合計、五千万円を超える天文学的な負債。
退職金はゼロ。預金残高は数万円。
来月には住宅ローンの引き落としすら滞り、この家も競売にかけられて路頭に迷うことが確定していた。
「……無理だ」
宗治の喉から、空気の抜けるような掠れた声が漏れた。
「払えるわけがない……五千万なんて、私の生涯年収の何年分だと思っているんだ……! 破産だ……自己破産するしかない……!」
「破産なんて絶対に許さないわよッ!!」
その向かいで、額に包帯を雑に巻きつけた母・恵津子が、血走った目を剥き出しにして叫んだ。
包帯の隙間からは、莉乃に切り裂かれた傷口から滲み出た血と膿が黄色く染み出している。
顔は青白くやつれ、髪は油で固まり、かつて近所に見せびらかしていた世間体の仮面は見る影もなく剥ぎ取られていた。
だが、その瞳の奥に宿る「他責」の炎だけは、どれほどの地獄に叩き落とされようと消え去ることはなかった。
「自己破産なんてしたら、近所中の笑い者じゃないの!!
『真壁家は夜逃げした』『あの奥さんは破産者だ』って、一生後ろ指を指されて生きろって言うの!?
冗談じゃないわ!! 私は被害者よ! 真壁家は、可哀想な被害者なのよ!!」
恵津子はテーブルを力任せに叩き、立ち上がった。
その手には、一枚の擦り切れたメモ用紙が握りしめられていた。
「金なら、あるじゃないの……! 私たちには、まだ回収できる『資産』が残っているでしょうが!!」
「資産だと……? 何の話だ、恵津子……」
宗治が虚ろな目を向ける。
恵津子の唇が、ドス黒い笑みを刻み始めた。
骨の髄まで染み付いた、長女への搾取の論理。
困った時、苦しい時、金が必要な時――いつでも自分たちの代わりに血を流し、身代わりとなってすべてを差し出してきた、あの便利な存在。
「……栞よ」
恵津子の口から、呪詛のようにその名が紡ぎ出された。
「あの子がいるじゃないの!!
あの子は昔から、何でもできたわ! 料理も、洋裁も、デザインも、全部あの子の腕一本で莉乃ちゃんを三十万人ものインフルエンサーに仕立て上げたのよ!
あの子の才能には、何千万もの価値があるのよ!!
親がこんなに困っているのに、自分だけ実家を抜け出して、のうのうと暮らしているなんて絶対に許せないわ!!」
「し、しかし……栞は連絡先を変えてしまったし、LINEもブロックされているんだぞ……」
宗治がおずおずと口を挟む。
「だから、調べ上げたのよ!!」
恵津子は手元のメモ用紙を宗治の顔前へと突きつけた。
そこには、乱暴な筆跡でひとつの住所と屋号が殴り書きされていた。
ここ数日間、恵津子がなりふり構わず親戚中へ電話をかけまくり、「栞が親不孝にも失踪した」「親の金を盗んで逃げた」と脅迫まがいに泣きつき、遠縁の親戚が過去に耳にしていた噂や、商業登記の公開情報から執念で嗅ぎつけ出した、あの場所。
――『東京都渋谷区○○……Atelier Shiori』。
「見つけたのよ……! あの子、自分の名前でアトリエを開いてるわ!
調子に乗って、親の金で小綺麗な店なんか構えてるのよ!!
行くわよ、お父さん!! あの子を捕まえて、この請求書を全部押し付けてやるのよ!!
親を養うのは子供の義務よ!! あの子の才能を全部換金して、五千万円を一括で支払わせれば……真壁家は、元通りになるのよぉぉッ!!」
狂乱。
現実の崩壊から逃れるため、毒親たちは最後の蜘蛛の糸として、長女の人生を丸ごと喰らい尽くす暴挙を選び取ったのだ。
***
小雨が降る、午後二時。
古い邸宅と洗練されたギャラリーが静かに佇む、都内の閑静な住宅街の一角。
石畳の坂道の上に、場違い極まりない異様な二つの人影が現れた。
泥の跳ね返りで裾を汚した安物のスラックスを履き、背中を丸めて怯えたように歩く真壁宗治。
そして、その前を、額に血の滲む包帯を巻き、ボロボロのコートを羽織って、血走った目で周囲を睨みつけながら突き進む真壁恵津子。
二人の姿は、洗練された街並みの中で、まるで地獄の底から這い出してきた悪霊の群れのようだった。
「……ここよ」
恵津子が足を止めた。
その視線の先――レンガ造りの美しい洋館が、冬の柔らかな光の中に静かに佇んでいた。
一面に張られた格子窓、手入れの行き届いたオリーブの木。
そして、エントランスの重厚なオーク材の扉の脇に掲げられた、真鍮のプレート。
陽光を浴びて鈍く輝く文字――『Atelier Shiori』。
その文字を目にした瞬間、恵津子の全身の毛穴から、耐え難い嫉妬と独占欲が噴き上がった。
「生意気な……! 生意気な出来損ないのくせに、こんな立派な城を構えて……!!
全部、全部莉乃ちゃんのおかげで手に入れたお金のくせに!!」
恵津子は前庭の飛び石を乱暴に踏み荒らし、玄関ドアの前へと突進した。
宗治も慌ててその背後に続く。
ドンドンッ!! ガタガタガタッ!!
静謐な住宅街の空気を引き裂くように、恵津子の両手がガラス窓と真鍮のドアノブを力任せに打ち据えた。
「栞ッ!! 開けなさい、栞ッ!!」
恵津子の金切り声が、アトリエの壁に反響した。
唾をガラスに飛び散らせ、目を剥き出しにして叫び狂う。
「中にいるんでしょうが!! 親が来てるのよ、早く開けなさいよ!!
あんた、何て親不孝なことをしてるの!? 家族がこんなに苦しんでるのに、自分だけこんな贅沢な場所で優雅に暮らしてるなんて許さないわよ!!
お父さんもお母さんも、五千万円もの借金を背負わされたのよ!!
あんたが謝罪会見を開きなさい!! あんたがテレビの前で『私が妹をハメました』って土下座して、この違約金をあんたの才能で全額払いなさいよ!!」
「そうだ、栞!」
背後から宗治も、保身に駆られた必死の形相でドアを叩いた。
「お父さんは会社で左遷されたんだ! 退職金もなくなってしまったんだ!
家族だろう、栞! 私たちは家族じゃないか! 親を助けるのは当然の義務だ! 頼むから、金を……五千万円を工面してくれ!!」
自分たちが過去にどれほど長女を虐待し、学費を奪い、衣服を奪い、尊厳を踏みにじってきたかなど、彼らの脳内からは完全に消え去っていた。
あるのはただ、「困った時は長女が犠牲になるのが当たり前だ」という、骨の髄まで腐りきった特権意識だけ。
「開けなさい!! 開けないなら、このドアを叩き壊してでも中に入ってやるわよ!! 栞、出てきなさ――」
カチャリ。
重厚なオーク材のドアの奥で、静かな金属音が響いた。
恵津子の手が止まる。
「ふん、やっと観念したわね」
勝ち誇った笑みを浮かべ、恵津子は胸を張ってドアが開くのを待ち構えた。
中にいる長女の髪を掴み、引きずり出し、泣いて詫びさせ、すべての借金を背負わせてやるつもりだった。
ギィィ……と、蝶番が静かな音を立てて、ドアが内側へと開かれた。
――だが。
そこに立っていたのは、恵津子が思い描いていた「怯えて縮こまる長女・栞」では、断じてなかった。
「……っ!?」
恵津子と宗治の呼吸が、同時に喉の奥で凍りついた。
開かれたエントランスの空間。
そこに立ちはだかっていたのは――二人の男だった。
一人目は、仕立てのいいチャコールグレーのスリーピーススーツを寸分の乱れもなく着こなした、初老の紳士。
胸元には弁護士バッジが鋭利な光を放ち、手元には分厚い革のブリーフケースを抱えている。
名門・黒木家の全法務を統括する最高幹部弁護士――神崎。
そして、その背後。
高い天井を見上げるような長身を誇り、腕まくりをした黒シャツ姿で、ポケットに両手を突っ込んだまま立っていた青年。
黒木蓮。
その彫りの深い端正な顔立ちには、一切の感情が削ぎ落とされていた。
切れ長の漆黒の双眸から放たれるのは、冬の北極海を思わせる、絶対零度の殺気。
彼がただそこに立っているというだけで、エントランスの空気の圧力が数倍に跳ね上がったかのような、圧倒的な威圧感が毒親たちの全身を押し潰した。
「な……誰よ、あんたたち……!」
恵津子が怯えて一歩後ずさった。
「栞はどこよ!? ここは栞の店でしょうが! 部外者は引っ込んでなさいよ、親子の話し合いなんだから!!」
「親子の話し合い、ですか」
静かに前に進み出たのは、弁護士の神崎だった。
神崎は冷徹な眼差しで眼鏡のブリッジを押し上げると、ブリーフケースから二通の分厚い公的書類を取り出し、恵津子と宗治の鼻先へと容赦なく突きつけた。
「真壁宗治殿、ならびに真壁恵津子殿ですね。
当職は、真壁栞氏の専属代理人弁護士、ならびに当アトリエの所有・管理権限を持つ黒木ホールディングスの法務顧問を務める神崎と申します」
「だ、代理人……!?」
宗治の顔が引き攣る。
「単刀直入に通告いたします」
神崎の声は、事務的でありながら、一切の反論を許さない絶対的な法的宣告だった。
「第一に、当敷地ならびに当建物は、真壁栞氏ならびに黒木ホールディングスが正当な賃貸借契約および法人登記を完了させた完全なる私有地です。
貴殿らが先ほど行った、ガラス窓への打撃、ドアノブへの損壊行為、ならびに退去命令を無視した怒号は、刑法第百三十条の【建造物侵入罪】、ならびに刑法第二百三十四条の【威力業務妨害罪】に完全に該当いたします」
「な……何を言ってるのよ! 私たちは親よ!? 娘の店に来て何が悪いのよ!!」
恵津子が金切り声を上げる。
だが、神崎は眉一つ動かさず、一枚目の書類を広げて見せた。
『接近禁止通知書』ならびに『被害届受理証明書(世田谷警察署・渋谷警察署連名)』。
「親、ですか。……すでに真壁栞氏は、第33話において適法に【分籍届】を提出し、真壁宗治殿の戸籍から完全に離脱しております。
さらに、住民基本台帳法第十一条に基づき、配偶者暴力防止法および児童虐待防止法の準用による【住民票・戸籍附票の閲覧制限措置(支援措置)】が受理されており、貴殿らによる追跡および接近は、行政的にも完全な違法行為として認定されております」
神崎の冷たい指先が、書類の文面を指し示す。
「加えて、過去二十余年にわたる真壁栞氏に対する家庭内搾取、精神的虐待、金銭的強奪の実態について、公証人役場にて作成された公正証書、ならびに銀行取引履歴、通信ログを証拠保全の上、所轄警察署へ【強要未遂および脅迫に関する被害届】をすでに正式受理させております。
……貴殿らがこの敷地から三十メートル以内に接近すること自体が、すでに警告の対象です」
「嘘よ……嘘よ!!」
恵津子が叫んだ。
「扶養義務があるでしょうが!! 子供は親を養わなきゃいけないって法律にあるじゃない!! あの子が稼いだ金で、親の借金を払うのは当然の義務よ!!」
その浅ましい叫びを、神崎は二枚目の書類をもって完膚なきまでに叩き潰した。
『民法第八百七十七条に基づく扶養義務免除申立書(家庭裁判所提出控え)』。
「民法上の扶養義務ですね。
最高裁判所の判例、ならびに家事実務において、過去に著しい虐待、搾取、育児放棄、ならびに不当な金銭的要求を繰り返してきた親族に対しては、扶養義務の完全なる免除、ならびに権利濫用としての排斥が認められております。
真壁栞氏には、貴殿らに対する金銭的援助、借金の肩代わり、生活支援を行う義務は――一円たりとも、一秒たりとも存在いたしません」
逃げ場のない、法律の鉄壁。
感情論で押し通そうとする毒親の戯言を、国家の法制度そのものが、冷徹な刃となって切り刻んでいく。
「そ……そんな……」
宗治はその場にへたり込みそうになった。
「頼む……頼むから助けてくれ……! 二千万なんだ……相沢家からも三千万請求されているんだ……! 栞に……栞に手伝ってもらわなければ、私たちは破滅してしまうんだよ……!!」
大の大人が、人目も憚らず地面に膝をつき、哀れな命乞いを始める。
都合の良い時だけ「家族」の絆を振りかざし、他人の血を啜って生き延びようとする寄生虫の残骸。
その時だった。
スッ……と。
神崎の後ろから、黒木蓮が、一歩前に足を踏み出した。
床を踏みしめる、革靴の重厚な音。
蓮はポケットから右手を抜くと、冷え切った雨の中、地面に這いつくばる真壁夫妻を、見下ろした。
その瞳に宿っていたのは、神崎のような理知的な冷たさではなかった。
獲物の息の根を素手で握り潰すことを微塵も躊躇わない、本物の捕食者の、底知れぬ暗黒の怒り。
「……おい、ゴミども」
低く、地割れのように響く蓮の声。
その一声だけで、恵津子の喚き声がピタリと喉の奥で詰まった。
「お前たちが今、汚い土足で叩いていたそのドアの向こうで……栞がどんな顔をしてるか、教えてやろうか」
蓮の唇が、残酷なまでに美しく、歪んだ。
「お前たちの声なんて、一ミリも届いてねぇよ。
栞は今、奥のアトリエで、新しい生地の裁断をしてる。
誰の指示でもない、誰の身代わりでもない、自分自身の名前で世に出す作品を作るためにな。
……お前たちがどれだけ喚こうが、泣き叫ぼうが、栞の人生からお前らは、すでに完全に『消去』されたんだよ」
蓮が一歩、石畳を踏み越えて二人に近づいた。
逃げようとする宗治の襟元を、蓮の鋭利な視線が縫い止める。
「一度目のあの日……雨の非常階段で、お前らが何をしたか、俺は全部知ってるぞ」
「ひっ……!?」
宗治の息が止まった。
非常階段。
雨。
なぜ、この男がその言葉を知っているのか。その超自然的な恐怖に、宗治の全身の毛穴が逆立つ。
「二度目は、絶対に許さないと言ったはずだ。
……栞のこれからの人生の時間は、一分一秒に至るまで、すべてあいつ自身のものだ。
あいつの時間を奪おうとする奴は、親だろうが誰だろうが、俺が社会の底の底まで叩き落としてやる」
蓮の右手。
その指先が、ポケットから取り出したスマートフォンを軽く弄んだ。
「あと三十秒で、ここにパトカーが到着する。
現行犯逮捕されて、残りの人生をブタ箱で過ごすか。
それとも、今すぐその薄汚いツラを消して、借金取りに追われながら野垂れ死ぬか。
……好きな方を選べ」
――ウゥゥゥゥゥゥン……ッ!!
遠くの幹線道路から、雨雲を切り裂くようにして、甲高いパトカーのサイレンの音が響き渡ってきた。
一台ではない。二台、三台と、サイレンの音は確実に、この路地へと向かって急速に接近してきていた。
「ひ……警察……!? 本当に警察を呼んだの!?」
恵津子の顔面が、恐怖で引き攣った。
前科がつけば、逮捕されれば、残されたわずかな世間体すらも完全に消滅する。
「に……逃げるぞ、恵津子!!」
宗治は悲鳴を上げ、恵津子の腕を力任せに引っ張った。
「逮捕されたら終わりだ! 行くぞ、早くしろ!!」
「嫌ぁぁッ! 栞!! 栞、覚えてなさいよぉぉッ!!」
恵津子は額の包帯を押さえ、泥水を撒き散らしながら、転がるようにして石畳の坂道を駆け下りていった。
傘も差さず、冷たい冬の雨に打たれながら、亡者たちは互いに足をもつれさせ、泥まみれになって逃げ惑っていく。
その背中は、かつて長女を見下し、支配し、搾取していた傲慢な親の姿など微塵もなく、ただ恐怖と負債の津波に追われる哀れな敗残者の残骸そのものだった。
逃げていく二人の背中に向けて、蓮は冷ややかに、絶対の言葉を投げつけた。
「二度と栞の前に現れるな。……次はないぞ」
冷たい雨風の中に、蓮の宣告が重く染み渡っていった。
***
パトカーが路地の入り口に滑り込み、警察官たちが逃走する真壁夫妻の追跡へと向かう中。
エントランスのオーク材のドアが、静かに内側へと開かれた。
中から現れたのは――真壁栞だった。
シックなネイビーのエプロンを着け、手には小さな真鍮の鋏を持った私の佇まいは、先ほどまでの嵐のような騒動などまるで無縁であったかのように、静かで、凛としていた。
蓮がゆっくりと振り返る。
その瞳から、先ほどまでの禍々しい殺気がすうっと消え失せ、痛いほど優しい、温かな光へと戻っていく。
「……怖かったか?」
蓮がぶっきらぼうに尋ねてきた。
私はふっと、微笑んだ。
首を横に振る。
「いいえ。……黒木さんと、神崎先生がいてくださいましたから」
私の視線は、二人が逃げていった雨の坂道の向こうへと向けられた。
胸の奥底にあったのは、怒りでも、悲しみでもない。
ただ――完全に切り離された、遠い世界の出来事を見送るような、絶対的な無関心。
もう、あの人たちが私の人生に触れることは二度とない。
法律という名の盾と、最愛の共犯者という名の城壁が、私を完璧に守り抜いてくれたのだから。
「さあ、戻りましょう、黒木さん」
私は蓮の手をそっと取った。
「新しいタペストリーの図案が、もうすぐ仕上がりますから」
「ああ」
蓮は私の手を力強く握り返すと、アトリエの重厚なドアを、静かに、そして二度と開かない結界のように閉ざした。
光に満ちたアトリエの中で、私の新しい日常が、美しく紡がれ続けていく。
そして――。
その平穏の裏側で、すべてを失ったもう一人の元凶――相沢航太が、狂乱の妄執を抱えて、最後の破滅へと歩み出そうとしていた。




