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第50話:千佳のトドメ――食い散らかされた偶像と死神の笑顔

割れた花瓶の陶器片と、濁った水、枯れ果てた薔薇の花弁が散乱する真壁家のリビング。

額を深く切り裂かれた母・恵津子は、指の隙間からドス黒い鮮血を垂れ流しながら床に崩れ落ち、北関東への左遷内示を受けて魂の抜けた父・宗治は、膝の震えを止めることすらできずに立ち尽くしていた。


その重苦しい悪臭と血の匂いが充満する部屋の中で、大型液晶テレビの画面だけが、冷徹な青白い光を放ち続けていた。


スマートTVの画面に映し出されていたのは、世界最大の動画プラットフォーム『YouTube』の緊急プレミア配信画面。

黒を基調とした洗練されたサムネイルの中央には、赤と黄色の警告色でデザインされた極太のフォントが踊っていた。


――【全証拠公開】元親友Rino_Lifeの素顔:盗作・裏垢・狂言妊娠の全貌。


配信開始から、わずか数十秒。

待機画面のカウントダウンがゼロを示した瞬間、画面の右上に表示された同時接続者数のカウンターが、狂ったような速度で跳ね上がっていった。


一万人……三万人……五万人……八万人――。

日曜日の帝国グランドホテルでの前代未聞の公開処刑以来、日本中、いや世界中のネットユーザーが飢えた野獣のように続報を求め続けていた。

その渦中へ投下された、渦中のインフルエンサーの「もっとも近しい親友」による告発配信。

ネットの炎上という名の巨大な火薬庫に、導火線を直接突っ込むような暴挙だった。


『……皆様、こんばんは。野村千佳です』


画面が切り替わり、現れたのは、淡いベージュの清楚なブラウスに身を包んだ野村千佳だった。

普段の動画で見せる派手なギャルメイクは完全に封印され、泣き腫らしたかのように見せる絶妙なナチュラルメイク。

伏し目がちにカメラを見つめるその瞳には、親友の裏切りに心を痛め、葛藤の末に真実を語ることを決意した「健気で勇敢な告発者」の仮面が、完璧な質感で貼り付けられていた。


『本来であれば、このような動画を出すべきではないと、何度も何度も悩みました。

莉乃ちゃんとは、大学の同級生として、そして同じインフルエンサーとして、互いに支え合ってきた親友でしたから……。

ですが、昨日の結婚式での騒動を見て、そして彼女がこれまで騙し続けてきた大勢のフォロワー様、クライアント様、そして何より……彼女の陰でどれほど傷つけられてきたか分からない、彼女のご家族の存在を思った時、これ以上、真実を隠し続けることは私の良心が許しませんでした』


千佳は胸元に手を当て、深く、痛ましげに頭を下げてみせた。

その流れるような所作、計算し尽くされた声音。

コメント欄には、瞬く間に千佳を擁護し称賛するメッセージが滝のように流れ始める。

【千佳ちゃん悪くないよ!】【親友の罪を告発するのは辛かったよね】【話してくれてありがとう!】


だが――。

画面の向こうで俯く千佳の口元が、カメラの画角からわずかに外れた一瞬、ゾクリとするほど冷酷に吊り上がっていたことを、大衆は誰一人として知る由もなかった。


友情など、最初から一欠片も存在しなかった。

第9話において、急成長する莉乃のアカウントに目をつけ、「丁寧な暮らし」の匂わせ投稿を嗅ぎ回っていたあの日から。

千佳の行動原理はただ一つ――『真壁莉乃の失脚、そしてその三十万人の信者を自分の養分として喰らい尽くすこと』。

莉乃が姉の才能にタダ乗りして肥え太っていく様子を、千佳はすぐ隣で爪を研ぎながら観察し続けていたのだ。

そして今、莉乃が自滅の崖から転落したその瞬間、一番残酷な角度から背中を蹴り落とし、その死肉を己の知名度へと変換するための、完全なる処刑の儀式が幕を開けた。


『まず……皆様が一番疑問に思われている、「Rino_Lifeの手料理や丁寧な暮らしは本物だったのか」という点についてお話しします』


千佳は静かに顔を上げ、手元のタブレットを操作した。

画面がスプリットされ、画面の右半分に、数枚の写真が表示された。


一枚目の写真。

それは、第19話――千佳が動画の編集を手伝うという名目で、真壁実家へアポ無し突撃した際に、莉乃の目を盗んで無音カメラで連写していた決定的な証拠だった。


キッチンの大型ゴミ箱の底。

新聞紙の隙間に隠されるように押し込まれていた、黒塗りの重箱と、老舗高級割烹『松仙』のロゴが入った領収書の束。

日付と金額が、赤枠で鮮明に拡大される。

【購入日:20××年6月18日】

【品名:季節の特選懐石重(二段)×2折】

【金額:金38,500円(領収書宛名:真壁恵津子)】


『これは、莉乃ちゃんが「今夜は時間をかけて丁寧に出汁を取った筑前煮と手毬寿司を作りました♡」とSNSに投稿した、まさにその日の夜に、彼女の実家のゴミ箱から見つかったものです』

千佳の怜悧な声が、淡々と証拠を突きつける。


『当時、私は「手元動画を撮らせてほしい」とお願いしたのですが、莉乃ちゃんは頑なに料理をしようとしませんでした。

それどころか、作業部屋にあった「手作りコスメポーチ」の裁断用ハサミには、値札のタグがついたままでした。ミシンには糸の通し方すら分かっていない形跡がありました。……彼女は、自分では包丁一本すら満足に握れなかったのです』


画面が切り替わり、続いて流されたのは――一本の音声ファイルだった。


『莉乃ちゃんとの、普段の通話記録の一部です。お聞きください』


ポチリ、と再生ボタンが押される。

スピーカーから流れ出したのは、千佳の問いかけと、それに対する莉乃の、あまりにも生々しく下品な肉声だった。


『――ねえ莉乃ちゃん、明日の投稿のパンケーキ、本当に自分で焼いてるの?』

『あはは、千佳ちゃんバカじゃないの!? あんなの全部、実家のお姉ちゃんに作らせて決まってんじゃん!

お姉ちゃんは高卒の居候なんだからさ、莉乃のために朝から晩までタダ働きするのが当たり前なの!

莉乃は出来上がった皿の前に座って、エプロンして首傾げて写真撮るだけ〜! フォロワーなんて写真一枚でイチコロよ!』


会場中を凍りつかせたあの披露宴の音声に続く、日常的な搾取の自白。

コメント欄が怒号で埋め尽くされる。

【マジでクズすぎる】【お姉さん可哀想すぎるだろ……】【家族を奴隷にしてたのかよ】


だが、千佳の追撃は止まらなかった。

むしろ、ここからが本番だった。


『そして……皆様もすでにご存知の通り、彼女は裏アカウント(鍵垢)を運用していました』


画面いっぱいに広げられたのは、第31話において、佐久間湊の誘導によって千佳が入手した、あの非公開アカウント『@toxic_princess』の全アーカイブデータ。

アイコンの中指を立てた自撮り、そしてタイムラインを埋め尽くす毒の数々。

だが、千佳が今回取り上げたのは、披露宴で流されたものよりもさらに生々しい、フォロワーと身内への直接的な侮蔑の言葉だった。


『フォロワーのブス共が私のパクリに気づかずに崇めててウケる。一生私の養分でいろよ底辺共』

『てか野村千佳マジでウザい。顔面工事の失敗作のくせに調子乗るな。私の引き立て役として一生ヘラヘラ笑ってろよ』


画面の中の千佳は、そのテキストを読み上げながら、目頭を押さえて大粒の涙をポロポロと零してみせた。


『……私は、彼女のことを本当に大切に思っていました。

彼女が体調を崩したと聞けば心配し、動画の編集を手伝い、いつでも力になろうとしていました。

それなのに……裏では、私の容姿を嘲笑い、私を引き立て役のブスと罵倒していたのです。

さらに……彼女を信じて応援し、彼女が紹介した商品を健気に購入してくださっていたフォロワーの皆様のことを……「養分のブス共」「底辺」と呼んでいたのです。

……これが、皆様が愛した“真壁莉乃”の、本当の素顔です』


震える声。滲む涙。

完璧な被害者の演出。

コメント欄は、千佳への同情と、莉乃への殺意に近い憎悪で完全に臨界点を突破した。

【千佳ちゃん泣かないで!】【こんな性悪女、親友でも何でもない!】【絶対に許せない!!】


そして――千佳の瞳の奥で、最後の刃がギラリと光った。


『最後に……もっとも許されない、法の一線を越えた彼女の犯罪行為についてお話しします』


千佳が画面に提示したのは、メッセージアプリのトーク履歴のスクリーンショットだった。

送信者は『真壁莉乃』。

日付は――第21話、相沢航太との婚約が成立する直前。


【莉乃:ねえ千佳ちゃん! 前に言ってた「アレ」、まだ手に入る!?】

【千佳:アレって?】

【莉乃:陽性の妊娠検査薬だよ! 航太の母さんに別れさせられそうなの! 航太の目の前に突きつけて「できた」って脅すしかないじゃん! 早く手配してよ!!】

【千佳:え……それ、本当にやるの? 偽装妊娠だよ?】

【莉乃:いいから早くして! 男なんて妊娠したって言えば一発で責任取るんだから! 莉乃がセレブになるための道具なんだから協力しなさいよ!!】


息を呑むような、生々しい犯罪計画の記録。

さらに千佳は、手配ルートのやり取り、莉乃が受け取った際のメッセージ、そして「航太が引っかかったwww結婚確定www」という狂喜乱舞の報告LINEまで、一分の隙もなく画面に並べ立てたのだ。


『彼女は……妊娠などしていませんでした。

他人の陽性反応が出た検査薬を買い取り、婚約者の男性とそのご家族を騙し、会社へ乗り込んで脅迫まがいの手段を使って、無理やり結婚を承諾させたのです。

これは明白な【狂言妊娠】であり、婚姻を強要するための悪質な詐欺行為です。

現在、新郎側からは婚姻無効調停、ならびに数千万円規模の損害賠償請求訴訟が提起されていると聞いております』


千佳はカメラを真っ直ぐに見据えた。

その瞳には、もはや一片の涙も残っていなかった。

獲物の息の根を完全に止め、その心臓をえぐり出した狩人の、冷酷で澄み切った勝利の眼差し。


『真壁莉乃さん。

あなたがこれまで奪ってきたお姉さんの尊厳、騙してきたフォロワーの皆様、そして傷つけてきたすべての人々に対して、誠心誠意、法的な責任を背負って罪を償ってください。

……私からは、以上です』


深く、優雅に一礼する千佳。

動画のエンディングロールが流れ、画面が暗転した。


その瞬間――。


動画の総再生回数は、公開からわずか三時間で三百万回を突破していた。

高評価の数は五十万件を超え、急上昇ランキングのトップを独占。

さらに、千佳の個人チャンネルの登録者数は、この一本の告発動画によって、一夜にして十万人以上も跳ね上がっていたのだ。


莉乃が人生をかけて築き、そして失った三十万人の信者の残骸を。

千佳は一滴の血も流さず、正義の告発者という美名を纏って、綺麗さっぱり己の胃袋へと収めてみせた。

SNSという名の弱肉強食のサバンナにおいて、怪物の死肉を喰らい尽くして新たな女王へと君臨する、現代のハイエナの完全なる勝利。


そして――真壁莉乃の社会的信用は、この動画によって、完全に、二度と再生不可能なレベルで息の根を止められたのだ。


***


一階のリビング。

暗闇の中、テレビの光に照らされた床の上で、真壁宗治と恵津子は、死人のように硬直していた。


「あ……あぁ……」

宗治は両手で自らの顔を覆い、ガタガタと歯を鳴らした。

会社の左遷。失われた退職金。二千万円の違約金請求。

そこへ追い討ちをかけるように、全世界三百万人に晒し上げられた、娘の悪辣極まりない詐欺の全貌。

もう、言い逃れはできない。

世間体を保つことなど、天地がひっくり返っても不可能だった。


額から血を流す恵津子は、虚ろな目でテレビ画面を見つめたまま、ピクリとも動かなかった。

自分が命がけで庇おうとしていた娘の、裏アカウントでの「寄生虫のババア」「死んで保険金を残せ」という言葉。

そして、その娘のすべてを白日の下に晒したのが、かつて娘が連れてきて「仲良しの千佳ちゃんよ」と紹介していた、あの取り巻きの小娘だったという現実。

毒母の歪みきった脳内は、処理しきれない絶望の許容量を超え、ただ真っ白な灰へと焼け爛れていた。


――バタンッッ!!!!


その時だった。


二階の階段から、転がり落ちるような足音が響き、リビングのドアが激しく引き開けられた。


「千佳ぁぁぁぁぁッッ!!!!」


狂乱の絶叫。

現れたのは、両手にスマートフォンを握りしめ、目を血走らせた真壁莉乃だった。


その顔は、もはや人間のそれですらなかった。

髪を狂ったように振り乱し、腫れ上がった頬の傷口から血を流し、口から白い泡を飛ばしながら、全身を激しく痙攣させている。


彼女の手の中にあるスマートフォン。

画面には、野村千佳の告発動画の再生画面と、三百万回という再生数、そして毎秒何百件と書き込まれる罵倒のコメントが映し出されていた。


『史上最悪の寄生女』『結婚詐欺師の真壁莉乃』『今すぐ逮捕しろ』『一生ブタ箱から出てくるな』。


「あんた……あんたまで莉乃を裏切ったのねぇぇッ!!」


莉乃は喉を掻きむしり、爪を首筋に深く立てた。

皮膚が引き裂かれ、赤い血がツッと滲み出る。だが、激痛など感じていなかった。

頭蓋骨の内側で、自尊心の神殿が、全能感の城が、完全に木っ端微塵に爆破されていく感覚。


信じていた。

取り巻きのブスだと見下しながらも、千佳だけは自分の味方で、自分の言うことを聞く便利な手駒だと思い込んでいたのだ。

その手駒が。

最初から自分の破滅を虎視眈々と狙い、すべての証拠を握りしめ、自分の一番痛い急所を世界中に晒し上げて、自分の死肉を喰らって成り上がっていった。


「私の……私のフォロワーを……私の人生を返しなさいよぉぉッ!!」


莉乃はスマートフォンを床へと叩きつけた。


バキィッッ!!


液晶画面が蜘蛛の巣状に粉々に砕け散り、火花が散る。

だが、画面が消えても、現実の地獄は消えなかった。

三百万人の嘲笑。

全世界からの憎悪。

二千万円の違約金と、三千万円の損害賠償訴訟。

そして、明日にも警察が自分を逮捕しにやってくるかもしれないという、生々しい冷たい手錠の気配。


助けてくれる者は、もうどこにもいなかった。

母親は額から血を流して壊れ、父親は泡を吹いて倒れ、夫は自分を訴え、親友は自分を喰らい尽くした。


「あ……あぁ……っ……」


莉乃の膝から力が抜け、割れたスマートフォンの破片の上に、無様に崩れ落ちた。

指先が砕けたガラスで切り裂かれ、血が絨毯を汚していく。


両手で自らの首を絞めるようにして喉を掻きむしり、涙と涎で顔をぐしゃぐしゃにしながら、怪物はただ、暗闇のリビングで震える声で絞り出した。


「千佳……あんたまで……!

誰か……誰か……助けて……! お姉ちゃん……莉乃を、助けてぇぇッ……!!」


届くはずのない、哀れな亡者の叫び。

すべてを奪い、すべてを譲り受け、自らの欲望のままに首を括った妹の絶叫は、冷たい夜の闇の中に、ただ虚しく吸い込まれて消えていった。

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