第49話:毒親の崩壊――額を伝う鮮血と砕け散った共依存
二月の鉛色の空から、凍えるような湿った北風が吹き抜けていた。
都内の中堅機械商社『東邦物産』の営業本部フロアは、始業のチャイムが鳴り響いた直後から、異様な狂乱の渦に呑み込まれていた。
――ジリリリリリリリッ! プルルルルルルッ!
数十台の固定電話が、間断なく一斉に悲鳴のような着信音を響かせ続けている。
フロアの若手社員たちが青ざめた顔で受話器を取っては、耳を劈く怒号に顔を歪めて平謝りを繰り返していた。
「も、申し訳ございません! 現在、事実関係を確認中でございまして……!」
「はい、当社の課長・真壁宗治の件でございますね……貴重なご意見として承ります……!」
ネットの特定班の執念は、恐ろしいまでの速度で真壁家の外堀を埋め立てていた。
日曜日の帝国グランドホテルでのあの公開処刑――インスタライブで全世界へ生中継された真壁莉乃の殺人未遂の自白、国際的著作権侵害、そして狂言妊娠による結婚詐欺。
その切り抜き動画が数千万回再生される過程で、炎上の矛先は「こんな凶悪なペテン師を育て上げた父親」へと向かい、わずか半日のうちに、父・宗治の勤務先、役職、社内直通番号が掲示板に晒し上げられたのだ。
『殺人未遂犯の親父が東邦物産の営業課長やってるぞ』
『こんな倫理破綻者を雇っている会社の製品なんて買えるか』
『いますぐ懲戒解雇して社会的責任を取れ』
抗議の電話は一般回線のみならず、役員室や大口取引先の窓口にまで殺到し、営業本部の回線は完全に麻痺していた。
そのフロアの片隅。
縮こまるようにして自分のデスクに座っていた真壁宗治は、脂汗を全身から噴き出させながら、手元のマウスを握りしめて小刻みに震えていた。
周囲の部下たちや同僚たちが、ひそひそと自分を指差して嘲笑を交わしている気配が、針のように背中に突き刺さる。
三十年間、波風を立てず、上司には媚びへつらい、家庭内の理不尽には一切目を瞑って守り抜いてきたはずの「課長」という椅子。
それが今、音を立てて足元から腐り落ちようとしていた。
「……真壁課長。総務部長がお呼びだ。第一応接室へ来てくれ」
背後から落ちてきたのは、営業本部長の冷徹な一言だった。
振り返った宗治の瞳に映ったのは、長年苦楽を共にしてきたはずの上司の、汚らわしい汚物を見るような冷酷な眼差しだった。
***
第一応接室の重厚な革張りソファ。
テーブルを挟んで対峙したのは、能面のような表情を浮かべた総務部長と、顧問弁護士だった。
「真壁君。単刀直入に言う」
総務部長は一切の前置きを挟まず、一枚の人事異動通知書を宗治の目の前へと滑らせた。
「君の娘さんが引き起こした一連の不祥事により、我が社の代表回線はパンクし、主要取引先数社からコンプライアンス上の懸念から取引停止を仄めかされている。業務妨害の被害額は計り知れない」
「ぶ、部長! 申し訳ありません! しかし、あれは娘の私生活でのトラブルでありまして……!」
宗治は額をテーブルに擦り付けんばかりにして弁明を試みた。
「私自身は会社の業務において何の違反も犯しておりません! 私生活の責任を理由に解雇することは、労働法上――」
「ああ、解雇はしないよ」
総務部長が鼻で笑うように言葉を遮った。
その冷笑に、宗治の心臓がドクリと跳ね上がる。
「日本の労働法は手厚いからね。私生活の不祥事だけで即座に懲戒解雇にすることは難しいと、弁護士からも聞いている。……だから我が社は、就業規則に則った適正な人事権を行使することにした」
総務部長の人差し指が、書類の異動先欄をトントンと叩いた。
【辞令:営業本部営業第一課長職を免ず】
【新所属:北関東ロジスティクスセンター管理課(栃木県佐野市)付】
【役職:無役(一般職専任)】
【給与改定:管理職手当・営業手当の全額剥奪、基本給の規定上限(十パーセント)減額】
「……え?」
宗治の喉から、間の抜けた掠れ声が漏れた。
北関東ロジスティクスセンター。
都心から電車を乗り継いで片道二時間半以上かかる、地方の物流倉庫。
冷暖房設備すらない埃まみれのプレハブ小屋で、一日中、重量物の仕分けと段ボールの検品作業を強いられる――会社が退職勧奨に応じない余剰人員を自主退職へ追い込むために設けた、悪名高い「追い出し部屋」だった。
「管理職手当と各種手当の剥奪により、君の手取り給与はこれまでの半分以下になる」
総務部長は冷淡に告げた。
「通勤手当の上限を超える差額は自己負担だ。明日から現地へ出勤したまえ。……嫌なら、今ここで自己都合退職届にサインしても構わないがね」
「そ……そんな……!」
宗治の顔面が、土気色から完全な絶望の白へと染まり上がった。
手取りが半分。
都心への通勤すら許されない左遷。
そして何より――宗治の脳裏を焼き尽くしたのは、あの事実だった。
退職金。
第27話において、莉乃の見栄のために帝国グランドホテルでの披露宴費用として前借りし、溶かしてしまったあの五百万円。
三十年間身を粉にして働いて積み立ててきた確定拠出年金と社内共済の退職給付枠を、自らの手で解約し、すでに全額使い果たしているのだ。
将来受け取れるはずの退職金残額など、雀の涙ほども残っていない。
定年まであと数年。
給料を半分に削られ、埃まみれの倉庫で肉体労働を強いられ、それでも退職金は一円も入ってこない。
その上、自宅には――昨夕、スポンサー企業各社から届いた、莉乃の連帯保証人としての二千万円を超える巨額の損害賠償請求書が山積みになっているのだ。
返せるわけがない。
生き延びられるわけがない。
三十年間のサラリーマン生活の果てに待っていたのは、老後の平穏などではなく、借金取りから逃げ回りながら泥水をすする、逃れられない破滅の檻だった。
「あ……あぁ……っ……」
宗治は立ち上がることすらできず、応接室のソファから滑り落ちるようにして床にへたり込んだ。
総務部長と弁護士は、その無様な姿に一瞥もくれることなく、書類を片付けて部屋を出て行った。
冷たい蛍光灯の光の下に、人生のすべてを失った男の抜け殻だけが残された。
***
同日、午後三時。
世田谷区の住宅街に佇む、真壁家の実家。
かつては「閑静な住宅街の一軒家」として、母・恵津子が近所へのマウントの拠点として誇っていたその家は、今や近隣一帯の腫れ物、呪われた廃墟のようになっていた。
外壁の周囲には、昼間だというのに雨戸が隙間なく閉め切られ、重苦しい死臭のような空気が漂っている。
門扉のポストには、入り切らなくなったチラシや督促状、そして「人殺し一家」「街から出て行け」と殴り書きされた怪文書が溢れかえっていた。
道路を通りかかる近隣の主婦たちが、真壁家の前を足早に通り過ぎながら、口元を手で覆って蔑みの目を向けていく。
「見なさいよ、あの家……」
「娘がネットで大炎上して、殺人未遂で警察沙汰なんですって」
「母親も普段から『うちの娘は有名人だから』って偉そうにしてたのに、全部パクリだったんでしょ? みっともないったらありゃしない」
ヒソヒソと囁かれる嘲笑の声。
その冷たい視線から逃れるように、薄暗いリビングの絨毯の上に、母・恵津子は膝を抱えて座り込んでいた。
暖房の消えた室内には、腐りかけた生ゴミの臭いと、饐えたアルコールの腐臭が充満している。
恵津子の姿は、かつて派手な留袖を着て大粒の真珠を揺らし、娘の成功を誇っていた姿とは似ても似つかないものだった。
髪はボサボサに乱れて油染み、洗っていない顔には目ヤニとドロドロに溶けた化粧の残骸がへばりついている。
爪をギリギリと噛みながら、雨戸の隙間から差し込むわずかな光を、充血した目で睨みつけていた。
「嘘よ……嘘よ……あんなの、みんな嘘よ……」
恵津子の口から、途切れることのない譫言が漏れ続けていた。
すでに精神の平衡を完全に失った人間の、壊れたレコードのような独白。
「近所の連中が、莉乃ちゃんを妬んでるのよ……。
うちの莉乃ちゃんが、大企業のエリート様と結婚してセレブになるのが悔しくて、みんなで結託して嫌がらせをしてるのよ……!
莉乃ちゃんは悪くないわ。莉乃ちゃんは世界一可愛い、私の自慢の娘なんだから……!」
現実を受け入れられない脳が、都合のいい狂気のリフレインを繰り返す。
娘が犯した国際的な著作権侵害も、裏アカウントでの「クソババア早く死ね」という姑への呪詛も、偽造検査薬による結婚詐欺も、恵津子の歪んだ意識の中では「すべてなかったこと」へと都合よく書き換えられていた。
そして、その狂乱の思考回路が辿り着く終着駅は、常に決まっていた。
「……栞よ」
恵津子の目が、ドス黒い殺意でギラリと光った。
「あの子のせいよ。全部、あの恩知らずの出来損ないが仕組んだ罠なのよ……!
昔から陰気で、可愛げがなくて、妹の引き立て役にしかならなかったくせに……!
妹が幸せになるのが許せなくて、あんな偽物の動画を作って……!」
恵津子は立ち上がり、爪を立てて自らの胸元を掻きむしりながら、天井に向かって叫んだ。
「あの子を探し出さなきゃ……!
首根っこを掴んで引っ張り出して、テレビカメラの前で土下座させるのよ!
『全部私が妹を妬んでやった狂言です、妹は潔白です』って、あの子に謝罪会見を開かせればいいのよ!
そうすれば……そうすれば莉乃ちゃんのアカウントも元に戻る! 相沢家との結婚もやり直せる!
あの子が……栞が莉乃ちゃんの身代わりになって、刑務所に行けば……真壁家は、元通りになるのよぉぉッ!!」
身代わり。
責任転嫁。
搾取の正当化。
二度目の人生に至っても、この母親の魂の底にへばりついた醜悪な寄生根性は、一ミリたりとも変わっていなかった。
長女の人生を使い潰すことでしか、自分たちの過ちを直視できない、救いようのない怪物の本性。
――バタンッッ!!
その時だった。
リビングのドアが、凄まじい勢いで蹴り開けられた。
蝶番が軋む音とともに現れたのは――二階から降りてきた、真壁莉乃だった。
「ひっ……!?」
恵津子が息を呑んだ。
そこに立っていたのは、かつて「守ってあげたくなる儚げな美少女」として三十万人を魅了していたインフルエンサーの姿などではなかった。
髪は寝癖で鳥の巣のように膨れ上がり、目の下はドス黒く落ち窪んでいる。
相沢静代に平手打ちされた左頬は赤黒く腫れ上がり、唇の端には血豆が潰れた痕。
着ているのは毛玉だらけのスウェットで、その手には、画面に無数のヒビが入ったスマートフォンが握りしめられていた。
全身から放たれているのは、逃げ場を完全に失い、窮地に追い詰められた狂犬のような、禍々しい殺気だった。
「莉乃ちゃん……!」
恵津子はすがるように両手を伸ばし、満面の歪んだ笑みを浮かべて駆け寄ろうとした。
「起きたのね、莉乃ちゃん! 大丈夫よ、お母さんが全部なんとかしてあげるから!
あの憎たらしい栞の居場所を突き止めて、あいつに全部の罪を被せて――」
「うるさいッッ!!!!」
鼓膜を引き裂くような金切り声が、リビングに炸裂した。
莉乃は恵津子が伸ばした両手を、憎悪を込めて力任せに払いのけた。
バシィッ!と皮膚が激しく衝突する音が響き、恵津子の身体がよろめく。
「な……莉乃ちゃん……?」
恵津子が目を丸くした。
「うるさい! うるさい! うるさいのよ、このクソババアッッ!!」
莉乃の瞳孔が開き、口から白い泡が飛び散った。
彼女は自分の頭を両手で激しく掻きむしり、足を踏み鳴らしながら、母・恵津子を殺さんばかりの形相で睨みつけた。
「朝から晩まで『栞が悪い』『栞が悪い』って、聞き飽きたのよ!!
あいつが悪いのは当たり前でしょ!! あいつは莉乃の下僕なんだから、莉乃の代わりに死ぬのが当然じゃない!!
そんなこと言ったって、現実のアカウントは消えたままなのよ!!
三十万人のフォロワーがゼロになったのよ!!
企業からは二千万円払えって裁判の書類が届いてるのよ!!
航太さんからも『婚姻無効と三千万円の損害賠償請求を起こす』って弁護士から連絡が来たのよぉぉッ!!」
莉乃の絶叫が、狭いリビングの壁を震わせる。
彼女の全能感は、現実の法と金の手続きによって完全にへし折られていた。
そして、その行き場のない恐怖と怒りの矛先が――今、最も身近にいた「共犯者」へと向けられたのだ。
「あんたのせいでしょ!!」
莉乃は人差し指を突き出し、恵津子の鼻先へと突きつけた。
「あんたが!! 『もっと見栄を張れ』って、毎日毎日莉乃を煽り立てたからこうなったんでしょうが!!
帝国ホテルで八百万円の式を挙げろって言い出したのも、お父さんの退職金を前借りさせたのも、全部あんたじゃない!!
『航太さんを手放すな』『妊娠したって嘘をついてでも結婚を確定させろ』って背中を押したのも、全部あんたじゃないのよ!!」
「ち、違うわ、莉乃ちゃん! お母さんは、あなたの幸せを思って――」
「黙れ、偽善者ッッ!!」
莉乃の顔が、怒気で真っ赤に沸騰した。
「あんたが欲しかったのは莉乃の幸せなんかじゃない!!
『有名インフルエンサーの母親』っていう肩書きで、近所に自慢してチヤホヤされたかっただけでしょ!!
莉乃の稼ぎをアテにして、デパ地下で豪遊して、自分の虚栄心を満たしたかっただけじゃない!!
あんたの育て方が悪かったからよ!!
あんたが莉乃を甘やかして、何でも手に入るって勘違いさせたから、莉乃の人生がメチャクチャになったんじゃないのよぉぉッ!!」
致命的な、魂の抉り出し。
他人の犠牲の上に娘を甘やかし、娘の成功に寄生することで自尊心を保ってきた毒母の、最も醜悪な欺瞞の急所。
それを、自らが命よりも愛し、すべてを捧げて庇い続けてきた「最愛の娘」自身の口から、これ以上ないほど残酷な言葉で引き裂かれたのだ。
「あ……あ……」
恵津子の顔から、血の気が完全に引いていった。
「そんな……莉乃ちゃん……お母さんは……あなたのために……」
「あんたなんて母親じゃない!! ただの寄生虫のババアよ!! 死ね!! あんたが死んで保険金残しなさいよぉぉッ!!」
狂乱。
莉乃の理性は、完全に吹き飛んでいた。
その血走った視線が、リビングのガラステーブルの上へと落ちた。
そこにあったのは――。
かつて真壁家の「丁寧な暮らし」の小道具として、栞がアンティークショップで選び、手入れして飾っていた、重厚なイタリア製陶器のフラワーベース。
中には、水が腐って茶色く濁った、枯れ果てた薔薇の花が挿されていた。
莉乃の両手が、その重い陶器の花瓶の首を鷲掴みにした。
「莉乃ちゃん……!?」
恵津子が恐怖で息を呑んだ、その瞬間。
「消えろぉぉぉッッ!!!!」
莉乃の腕が、猛烈な力で振り抜かれた。
ドォンッッ!!!!
鈍く、重い、肉と骨を砕くような破壊音が、狭いリビングに響き渡った。
水を含んだ重厚な陶器の花瓶が――恵津子の額の右側を、真正面から直撃したのだ。
ガシャァァンッ!!
花瓶が粉々に砕け散り、濁った水と枯れた薔薇の花弁が、リビングの壁と床に飛び散った。
そして――。
「ぎゃっ……あぁ……っ!?」
恵津子の口から、短い悲鳴が漏れた。
彼女の身体が、抗うことのできない衝撃によって横倒しになり、ガラステーブルの角に腰を強打して床の上へと崩れ落ちた。
ボタボタボタッ……。
白いレースのテーブルクロスの上に、鮮やかな真紅の液体が、激しい勢いで滴り落ちていく。
恵津子の額。
砕けた陶器の鋭利な破片によって、皮膚が深く引き裂かれ、パックリと開いた傷口から、ドス黒い鮮血がとめどなく溢れ出していた。
血は恵津子の右目を塞ぎ、頬を伝い、首筋を染め、着古した服の胸元へと広がっていく。
「あ……痛い……血が……血がぁぁッ……!」
恵津子は額を手で押さえながら、床の絨毯の上を転がり回った。
指の隙間から、温かい血がドクドクと溢れ出て止まらない。
だが――肉体の激痛以上に、恵津子の心臓を凍りつかせたのは、目の前に立つ娘の眼差しだった。
床に散らばった陶器の破片を踏みしめながら、莉乃は息を荒げて立っていた。
血を流して倒れる実の母親を見下ろすその瞳には、恐怖も、後悔も、一片の動揺すらも浮かんでいなかった。
あるのはただ――己の思い通りにならない障害物を排除した獣のような、冷酷で、底知れぬ狂気だけ。
「……ふん」
莉乃は血のついた手のひらを自分のスウェットで無造作に拭うと、冷ややかに吐き捨てた。
「自業自得よ。……二度と莉乃に指図しないで」
莉乃は振り返り、ドスドスと足音を立てて二階の自室へと戻っていった。
バダンッッ!と乱暴にドアが閉ざされ、内側から鍵がかけられる音が響く。
静寂。
薄暗いリビングの床の上。
ガラスの破片と濁った水の中で、恵津子は血まみれの手で額を押さえたまま、呆然と横たわっていた。
(……莉乃ちゃんが……)
恵津子の瞳から、血に混ざって大粒の涙が零れ落ちた。
(私が……あんなに愛して……あんなに大事に育てて……
栞からすべてを奪ってまで、あの子に与えてきたのに……
私の莉乃ちゃんが……私を殴った……? 私に「死ね」と言ったの……?)
崩壊。
他人の命と尊厳を踏みにじることで維持してきた、真壁恵津子の人生の唯一の拠り所。
「私は世界一可哀想で、世界一優秀な娘を持つ、誇らしい母親なのだ」という、歪みきった共依存の愛の神殿が。
自らが甘やかし、自らが怪獣へと育て上げた娘自身の手によって、粉々に叩き割られた瞬間だった。
ガラガラガラと、心の奥底で何かが音を立てて崩れ去っていく。
精神の最後の防壁が、血の海の中に溶けて消えていった。
「う……うわああああああああんッッ!!」
恵津子は床を両手で叩き、血と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、幼児のように声を上げて泣き叫んだ。
救いようのない絶望。
自らの手で生み出した怪物の牙が、自らの急所を食い破ったという、因果応報の極致。
その時だった。
カチャリ、と玄関の鍵が開き、重い足音が廊下を進んできた。
北関東ロジスティクスセンターへの左遷内示を受け、魂の抜けた顔で帰宅した父・宗治だった。
宗治はリビングの異様な気配に息を呑み、ドアを開けた。
そして――目の前に広がる光景に、凍りついた。
床一面に飛び散った陶器の破片と濁った水。
額から血を流し、床を叩いて狂乱の涙を流す妻・恵津子。
「お、おい……恵津子……! なんだこれは……何があったんだ……!?」
宗治が震える声で駆け寄ろうとした。
――だが。
その荒れ果てたリビングの正面。
誰も触れていないはずの大型液晶テレビの画面が、不意に、青白い光を放って点灯したのだ。
連動していたスマートTVのアプリが、YouTubeからの緊急通知を受信し、自動で映像を再生し始めたのだ。
ピロン、と澄んだ電子音が部屋に響く。
画面の中央に大写しになったのは――洗練されたメイクを施し、神妙な面持ちでカメラを見つめる、ひとつの顔。
真壁莉乃の唯一の「親友」であったはずの女。
野村千佳だった。
画面の上部に、鮮烈な極太フォントで掲げられた動画タイトル。
――【緊急プレミア配信:全証拠公開】元親友Rino_Lifeの素顔:盗作・裏垢・狂言妊娠の全貌。
『皆様、こんにちは。野村千佳です。本日は、私の元友人である真壁莉乃さんの重大な背任行為と詐欺について、手持ちの全証拠を公開するために動画を回しています――』
千佳の澄んだ、冷酷な告発の声が、静まり返ったリビングに響き渡った。
血を流す恵津子の動きが止まった。
頭を抱える宗治の息が止まった。
真壁家の息の根を完全に止める、最後の死神の鎌が、今、全世界へと振り下ろされようとしていた。




