第48話:相沢家の断絶と失脚――剥奪されたエリートの仮面と血染めの訴状
月曜日の午前九時。
都心のビジネス街を見下ろす大手広告代理店『東都広告』の本社ビル最上階、三十二階に位置する特別役員会議室には、暖房が効いているはずだというのに、肌を刺すような冷気が立ち込めていた。
重厚な防音扉が背後で重く閉ざされ、カチャリと冷徹な電子ロックの音が響く。
部屋の中央に鎮座する巨大なオーバル型のマホガニーテーブル。
その上座には、腕を組み、氷のような視線を投げかける第一営業局筆頭シニアディレクター・津田貴志。その両脇を、東都広告のコンプライアンス委員長を務める専務取締役と、眼鏡の奥に一切の感情を宿していない法務部長が固めていた。
テーブルの末席に、直立不動のまま立たされていたのは――相沢航太だった。
昨夜の披露宴の地獄絵図から、一睡もできていなかった。
充血しきった瞳の下にはドス黒い隈が刻まれ、無精髭が青く浮き出ている。
身に纏っていたのは、急いで自宅のタワーマンションから引っ張り出してきたシワだらけのビジネススーツだったが、ネクタイは歪み、指先は小刻みに震え続けていた。
アルコールと胃液が混ざり合った酸っぱい臭いが喉の奥からせり上がり、立っているだけで膝が笑いそうになる。
「……相沢」
静寂を破ったのは、津田の低く、研ぎ澄まされた声だった。
津田は視線を一切逸らすことなく、テーブルの上に置かれた青い厚型バインダーを、人差し指でツンと押し出した。
バインダーの表紙に印字された表題。
『第一営業局ディレクター・相沢航太による、業務上横領および背任行為に関する特別監査報告書』。
「言い訳を聞くために呼んだのではない。事実の確認だけを行う」
津田の声には、後輩を指導する先輩の温情など微塵も残っていなかった。
冷酷無比な裁判官が、死刑囚の調書を読み上げるような事務的な響き。
「お前は、自らの婚約者である真壁莉乃のアカウントの急落したインプレッション数および購入転換率を偽装するため、別件の大手飲料メーカーのプロモーション予備予算から、合計八百万円を不正に引き出した。
送金先は、大学時代の後輩が代表を務めるペーパーカンパニー『ネクスト・クリエイティブ・ラボ』。
そこから即日、キプロスに拠点を置くダミー業者および国内の裏アカウント売買組織へ資金を迂回させ、真壁莉乃のアカウントへ外国人フォロワー十万人、ならびにステマ用の自動コメントボットを発注した。……相違ないな?」
「つ……津田、さん……っ」
航太の喉から、ヒュウと掠れた悲鳴が漏れた。
「社内PCの端末ログ、承認フローのバイパス履歴、IPアドレスの照合、そして迂回先の口座からのお金の流れ……すべて、法務部とサイバー監査チームが完全に裏付けを取った」
法務部長が冷淡に眼鏡を押し上げ、書類の束を航太の目の前へピシャリと投げ出した。
「言い逃れの余地は一ミリもありません。刑法第二百四十七条の背任罪、ならびに刑法第二百五十三条の業務上横領罪。完全に構成要件を満たしています」
「ち……違います!!」
航太の理性が、その瞬間、音を立てて決壊した。
彼はテーブルに両手をつき、身を乗り出して叫んだ。
唾を飛ばし、涙と鼻水を撒き散らしながら、必死の形相で役員たちへ向けて頭を下げた。
「違います、僕は騙されていたんです!! 全部、あの真壁莉乃という女の仕業なんですよ!!
あの女が……『私は料理の天才だ』『フォロワー三十万人を動かせる本物のインフルエンサーだ』と僕を騙したんです!
僕は会社のプロモーションを成功させたい一心で……クライアントに迷惑をかけないために、一時的に数字を補填しようとしただけで……!
僕自身が私腹を肥やしたわけじゃありません! 僕も被害者なんです! あんなパクリ女に、結婚詐欺同然の手口でハメられた哀れな被害者なんですよ!!」
保身。
床を這うかつての婚約者を悪魔に仕立て上げ、自らの罪を「純粋な善意と過失」へとすり替えようとする、エリートの最も浅ましい悪あがき。
航太はそのままテーブルの脇へと回り込み、絨毯の上に両膝を激しく叩きつけた。
ドサリ。
「お願いします!! 津田さん! 専務!!
どうか……どうか警察沙汰にだけはしないでください!!
懲戒解雇なんてされたら、僕の人生は終わってしまいます! これまでの実績を考慮して、出向か、減給処分で勘弁してください!
この通りです、何でもしますから!!」
額を床に擦り付け、必死で懇願する航太。
かつて後輩たちに傲慢な説教を垂れ、女性たちを品定めし、「僕が救い出してやる」と救世主面をして悦に入っていたエリートのプライドは、もはや影も形も残っていなかった。
床に擦り付けた額に、絨毯の埃が惨めにこびりつく。
だが――。
津田貴志は、その無様な土下座を見下ろしながら、微動だにしなかった。
その瞳に宿っていたのは、哀れみではなく、吐き気を催すような侮蔑だった。
「見苦しいぞ、相沢」
津田の声が、凍りついた空気を切り裂いた。
「『被害者』だと? 会社の金に手をつけたのは、お前自身の指先だ。
身内の小娘を箔付けして自慢したいという、お前の浅薄な見栄のために、クライアントの信頼と会社のリソースをドブに捨てたんだよ。
……何が『救世主』だ。お前は最初から、自分を大きく見せるためのアクセサリーとして女を利用し、都合が悪くなれば他人のせいにして逃げ回る、ただの卑怯者だ」
津田は立ち上がると、テーブルの上から一枚の退職合意書を航太の頭上へと放り投げた。
パサリと、白い紙が航太の背中に落ちる。
「会社としての決定を伝える」
コンプライアンス委員長の専務が、重々しく告げた。
「刑事告訴を見送る条件は、二つだ。
第一に、本日付での【懲戒解雇処分】の受諾。自己都合退職など一切認めん。退職金は全額不支給だ。
第二に、流用した八百万円の全額を、一週間以内に会社の指定口座へ個人として一括弁済すること。
……これに応じない場合、即座に警視庁捜査二課へ業務上横領および背任の告訴状を提出する。選べ」
「八……八百万を、一週間で……!?」
航太の顔から、完全に生気が抜け落ちた。
退職金はゼロ。
外車のフルローンと、タワーマンションの頭金で貯蓄は底をついている。
一週間で八百万円など、用意できるはずがなかった。
だが、拒否すれば即座に逮捕され、前科者として刑務所へ送られる。
「……選べと言っているんだ、相沢」
津田が冷ややかに見下ろす。
「あ……あぁ……っ……」
航太の手が、死人のように震えながら、床に落ちた万年筆を拾い上げた。
涙で文字が滲む書類の署名欄。
相沢、航太。
震える筆跡で自らの氏名を記入し、指印を押した瞬間――彼が十年間かけて築き上げてきた『大手広告代理店のエリートディレクター』という社会的地位は、跡形もなく消滅した。
津田が航太の首元から、東都広告の社員証を無造作に引きちぎる。
「荷物をまとめて、十分以内にビルを出ろ。二度と敷居を跨ぐな」
十分後。
私物の入った段ボール箱を一つだけ抱え、航太は通用口から路地裏へと放り出された。
かつて自分に愛想笑いを浮かべていた後輩たちも、同期たちも、誰一人として目を合わせようとはしなかった。
汚物を避けるように背を向けられ、冷たいビル風の中に立ち尽くす元エリート。
だが――地獄は、まだ終わっていなかった。
ポケットの中で、スマートフォンがけたたましく震えた。
画面に表示された着信元の名前。
『母(世田谷本家)』。
相沢静代からの、呼び出しだった。
***
正午過ぎ。
東京都世田谷区の一等地に構える、相沢家の本家屋敷。
手入れの行き届いた日本庭園を望む、広さ二十畳を超える大広間には、息を吸い込むことすら躊躇われるほどの重圧が満ちていた。
床の間には先祖伝来の掛け軸が掲げられ、上座には、漆黒の喪服のような黒無地の着物を纏った相沢静代が、背筋を寸分の乱れもなく伸ばして座っていた。
その周囲を取り囲むように、相沢家の親族一同――会社役員や名士として名を連ねる叔父や従兄弟たちが、険しい表情で居並んでいる。
大広間の入口で、航太は両膝をつき、畳に額を擦り付けていた。
「母さん……! 母さん、助けてくれ!!」
航太は泣き叫んだ。
「会社を……懲戒解雇にされたんだ! 八百万円を一週間で返済しなきゃ、警察に逮捕されてしまう!
それに、タワマンのローンもあるんだ! 母さん、お願いだ、相沢家の資産から……八百万円だけでいい、立て替えてくれ!!」
恥も外聞もかなぐり捨てた、実の母親への泣きつき。
これまで母親の言いなりになり、相沢家の跡継ぎとして完璧な息子を演じ続けてきたのだから、この危機を救ってくれるはずだという、甘えた依存心。
だが――。
静代の瞳には、慈悲の欠片すら存在しなかった。
彼女の手元には、昨日の披露宴で真っ二つにへし折られたあの扇子の残骸が、冷たく置かれていた。
「……よくも、その汚らわしい面を我が家の敷居の内側へ向けられましたね」
静代の声は、真冬の氷壁のように冷徹だった。
「昨日のあの破廉恥極まりない茶番劇。
相沢家の名誉が、百二十名の一流財界人の前で、そして全世界のインターネットの前で、泥靴で踏みにじられました。
親族中から抗議の電話が鳴り止まず、亡き夫の墓前に顔向けすらできません」
「母さん、あれは真壁莉乃に騙されたんだ! あいつが狂言妊娠で僕を――」
「黙りなさいッ!!」
静代の鋭利な一喝が、大広間の障子を震わせた。
「騙された? 見抜けなかった己の浅はかさを、恥じることすらできないのですか!
芸人のような下品な娘の美貌に目を眩ませ、由緒ある我が家の嫁として引き入れようとしたのは、他ならぬ貴方自身でしょう!
その上、会社の金を横領して見栄を買い、親族の前で殴り合いの乱闘を晒すとは……相沢家の血を引く男として、万死に値する恥辱です!」
静代は手元の黒塗りの硯箱から、一通の分厚い奉書紙を取り出すと、航太の前の畳へと冷酷に投げ落とした。
バサリ、と重い音が響く。
『勘当通知書』ならびに『相沢家親族会除名議決書』。
「……え?」
航太が顔を上げた。
「本日をもって、貴方を相沢家から勘当いたします」
静代の唇から紡ぎ出されたのは、親子の縁を完全に断ち切る絶対の宣告だった。
「除籍の手続きは、すでに弁護士を通じて家庭裁判所へ提出いたしました。
貴方はもう、相沢家の人間ではありません。我が家の財産を一円たりとも相続する権利はなく、我が家の敷居を跨ぐことも一切禁じます。
八百万円の横領金も、タワーマンションのローンも、すべて貴方自身が犯した罪です。自らの手で、野垂れ死にしながら支払いなさい」
「母さん!? 嘘だろ、母さん!!」
航太は叫び、畳を這って静代の膝へ縋り付こうとした。
「実の息子じゃないか! 僕を見捨てる気か!? 相沢家の跡継ぎはどうするんだよ!!」
「我が相沢家に」
静代は立ち上がり、加賀友禅の裾を翻して一歩後退ると、冷淡に言い放った。
「犯罪者となった息子の席など、最初から一席もございません。……連れて行きなさい」
親族の男たち二人が即座に立ち上がり、航太の両脇を抱え上げた。
「離せ! 母さん! 母さぁぁんッ!!」
航太の悲痛な叫び声が響く中、彼は容赦なく屋敷の玄関の外へと引きずり出され、重厚な門扉が目の前でガシャンと固く閉ざされた。
完全なる断絶。
名家の威光も、母親の庇護も、将来の資産も、すべてを剥ぎ取られたのだ。
***
夕暮れ時。
港区芝浦のタワーマンション四十三階。
かつて成功者の証として誇らしげに見下ろしていた東京湾の夕景は、今や航太の網膜を無慈悲に焼き付けるだけの冷たい光だった。
リビングには、第32話で航太自らが包丁で切り裂いた、莉乃のハイブランドバッグの残骸が散乱したままだった。
切り刻まれたディオールの革、引きちぎられたシャネルのチェーン、散乱するゴミ。
空気清浄機は止まり、生ゴミの異臭が淀んでいる。
航太はダイニングテーブルに突っ伏し、電卓の画面を見つめていた。
会社の横領金弁済:八百万円(期日:あと六日)。
タワーマンションの住宅ローン残債:約九千五百万円。
高級外車の残価設定ローン:約六百万円。
そして、莉乃が家族カードで使い込んだデパ地下やブランド品の未決済額:約三百万円。
預金残高――わずか四十二万円。
「……あ……あぁぁぁ……ッ!!」
頭が割れそうだった。
マンションを売却しようにも、競売や任意売却の手続きには数ヶ月かかる上、現在の不動産市況ではオーバーローンになり、借金だけが残る。
外車を売っても、ローンの相殺で手元には一円も残らない。
来週には、八百万円を払わなければ警察に逮捕されるのだ。
「誰のせいだ……?」
航太の血走った目が、ギリギリと奥歯を噛み鳴らした。
「誰のせいで……俺の人生が、こんな地獄になったんだ……!?」
脳裏に蘇る、昨日の披露宴の記憶。
巨大スクリーンから流れた、あの音声。
『千佳ちゃんのツテで手に入ったあの「陽性の妊娠検査薬」、航太の目の前に突きつけたら、あいつ顔面真っ青になって一発で結婚するって言ってきたわ! チョロすぎてウケるんだけど!』
『妊娠なんて嘘に決まってんじゃん! 航太を逃がさないための、ただの道具だよ!』
妊娠など、最初からしていなかった。
お腹の中に、自分の子供など一瞬たりとも存在していなかった。
あの女は――真壁莉乃は、偽造された検査薬を使って自分を脅迫し、結婚という名の監獄へと引きずり込み、会社の金を横領させ、人生のすべてを破滅させたのだ。
「真壁……莉乃……ッ!!」
航太の全身の筋肉が、怒りと憎悪で沸騰した。
男のプライドの崩壊は、今や純粋な殺意にも似た復讐心へと変貌していた。
「許さない……絶対に許さないぞ……!!
俺だけが破滅してたまるか!! お前の人生も、家族も、全部道連れにしてやる!!」
航太は狂乱状態でスマートフォンを掴み取ると、以前、企業の法務案件で知り合った悪徳弁護士の番号をタップした。
通話が繋がるなり、航太は喉を引き裂くような声で怒鳴り散らした。
「弁護士先生ですか!? 訴訟です!! 訴訟を起こしてください!!
相手は真壁莉乃!!
事由は【狂言妊娠による詐欺的婚姻の無効調停】、ならびに【不法行為に基づく損害賠償請求訴訟】!!
請求額は三千万円だ!! あの女と、あの女の親の財産を全部差し押さえて、一円残らず毟り取ってくれ!!」
電話口の弁護士が「証拠はありますか?」と尋ねてくる。
「ある!! 昨日の披露宴の音声記録だ!! 全世界に生中継された、あいつ自身の自白データがあるんだよ!!」
電話を切った航太は、荒い息を吐きながら立ち上がった。
リビングの片隅に置かれていた、数日前に撮影したばかりの「前撮り写真」の額縁。
純白のドレスを着て可憐に微笑む莉乃と、タキシードを着て微笑む自分の写真。
航太はその額縁を床に叩きつけた。
ガシャァァンッ!!
ガラスが粉々に砕け散る。
航太は床に落ちた写真を引きちぎり、莉乃の顔面の部分を、爪を立ててズタズタに引き裂いた。
「絶対に許さない……あいつの人生を、俺の手で終わらせてやる……!!」
引き裂かれた写真の破片が、冷たいフローリングの上へと散らばっていく。
数日後、航太はタワーマンションを差し押さえの手続きに委ね、トランクケース一つを提げて、都内郊外のトタン屋根の木造風呂なし安アパートへと転がり込むことになる。
愛など最初からなく、見栄と打算だけで結ばれた二人の怪物は、今や互いの骨を砕き合う、血みどろの法廷闘争の泥沼へと突き進んでいた。




