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第47話:ネットリンチとアカウントBAN――消滅した三十万の偶像と届いた巨額の請求書

帝国グランドホテルでのあの破滅の披露宴から、わずか一夜が明けた月曜日の早朝。

真壁家の古びた木造二階建ての住宅は、冷たい朝靄の中に沈んでいた。

だが、その静けさは平穏などでは断じてなく、処刑場へと引き立てられる罪人を待つ棺桶のような、息の詰まる窒息感に満ちていた。


一階のリビングでは、雨戸が隙間なく閉め切られ、昼なお暗い闇の中に重苦しい悪臭が澱んでいた。

前夜、ホテルの宴会場からタクシーで逃げ帰ってきた家族たちの、泥と赤ワインで汚れた衣服が廊下に投げ出されたまま放置されている。

父・宗治はリビングの安物の長城ソファに倒れ込んだきり、土気色の顔で浅い呼吸を繰り返し、時折「う……あぁ……」と悪夢にうなされるような呻き声を漏らしていた。

母・恵津子は、目の下に黒ずんだ隈を張り付け、髪を振り乱したまま、台所の隅でガタガタと震えながら冷めた麦茶のコップを両手で握りしめていた。

昨夜の狂乱の罵倒で喉を潰したのか、その唇は紫に変色し、乾いた音を立てて小刻みに震えている。


そして――二階の、散らかり放題の自室。


ベッドシーツの上に突っ伏していた真壁莉乃は、頭痛と悪寒に苛まれながら、重い瞼を無理やり押し開けた。

昨日、相沢静代に殴り飛ばされた左の頬は紫色に腫れ上がり、ドクドクと脈打つような激痛を放っている。

シャンパンクーラーの氷水を浴びせられ、赤ワインに塗れたあの特注のウェディングドレスは、床の上に濡れた雑巾のように丸められて転がっていた。


「……ゆ、夢……よね……?」


莉乃の喉から、ひび割れた声が漏れ出た。

自らに言い聞かせるような、哀れな現実逃避。

あんな悪夢があるはずがない。

自分が壇上で泥水の中を這い回り、夫と取っ組み合いの喧嘩をし、裏アカウントの愚痴や殺人未遂の自白が会場中に大音量で流されたなどという、そんな地獄が現実であるはずがない。


「夢よ……全部、悪い夢だったのよ……」


莉乃は震える指先を伸ばし、枕元に転がっていたスマートフォンを掴み取った。

画面をタップし、顔認証でロックを解除する。

いつものように、インスタグラムを開きさえすれば――そこには三十万人の熱狂的なフォロワーたちがいて、「莉乃ちゃん結婚おめでとう!」「世界一綺麗な花嫁さん♡」という賞賛のコメントが、何千件、何万件と溢れているはずだった。


――だが。


画面を開いたその瞬間、莉乃の視界を埋め尽くしたのは、天文学的な数字の暴力だった。


ブルルルルルルルルルルルッ……!!


途切れることのないバイブレーション。

端末が熱暴走を起こさんばかりの勢いで激しく振動し、画面の上部から滝のように雪崩れ込んでくる通知の嵐。


【@user_8912 があなたの投稿にコメントしました:「殺人未遂犯がどの面下げてアカウント残してんだよ」】

【@beauty_lover があなたの投稿にコメントしました:「全部パクリだったとかマジで詐欺師。今まで買ったコスメの金返せ」】

【@tokyo_gossip があなたをタグ付けしました:「【動画あり】大人気インフルエンサーRino_Life、結婚式でゴーストライターと裏垢を全暴露され発狂乱闘の一部始終」】

【新着ダイレクトメッセージ:9,999+件】

【新着コメント:54,200件以上】


「ひっ……!?」


莉乃の喉から、短い悲鳴が引き攣れた。


震える指で、情報探索アプリ『X(旧Twitter)』のアイコンをタップする。

画面を開いた瞬間、莉乃の眼球に飛び込んできたのは――日本のトレンド、そして世界のトレンドランキングの画面だった。


【日本のトレンド(午前7時現在)】

1位:#Rino_Life炎上

2位:#結婚式公開処刑

3位:#真壁莉乃

4位:#殺人未遂自白

5位:#狂言妊娠

6位:#東都広告横領

7位:#相沢航太

8位:#海外クリエイター盗作

9位:#ゴーストライター姉

10位:#帝国グランドホテル乱闘


「な……な、何よこれ……!? 1位から10位まで、全部……全部、私のこと……!?」


トレンドのタイムラインを開くと、そこは見るもおぞましい処刑場と化していた。

昨日、佐久間湊によって式場のメインスクリーン、そして全世界のインスタライブへと強制送出された、あの映像の切り抜きクリップが、無数のまとめアカウントやインフルエンサーたちによって転載され、拡散され尽くしていたのだ。


『【衝撃】フォロワー30万人の丁寧系女子、スッピンでポテチ食いながら姉に暴言吐き散らす生ログ流出(再生数:820万回)』

『【神回】姑にシャンパンクーラーの氷水ぶっかけられて赤ワインまみれで床を這い回る花嫁www(再生数:650万回)』

『【ガチ犯罪】「1周目みたいに頭割って死ねばよかった」実姉への階段突き落とし未遂の決定打音声(再生数:1200万回)』

『【結婚詐欺】偽造妊娠検査薬でエリート男を脅迫結婚した狂言妊娠の生通話記録がエグすぎる(再生数:940万回)』


動画の再生数は、数百万、数千万を記録し、リポストの数は数十万件を超えていた。

コメント欄には、かつて莉乃を盲目的に崇めていたファンたちの、裏切られた憎悪がドス黒いマグマとなって渦巻いている。


《信じてたのに最悪。私が憧れてた「丁寧な暮らし」は、全部お姉さんを奴隷にして作らせた偽物だったの?》

《「フォロワーのブス共が私の養分でいろ」って裏垢で書いてたの絶対に許さない。顔写真も全部拡散してやる》

《偽造検査薬で男を脅して結婚とか、完全な詐欺罪だろ。警察は今すぐこいつを逮捕しろよ》

《旦那の会社(東都広告)の予算横領にも加担してたんだろ? 夫婦揃って犯罪者じゃん》

《実家の住所ここらしいぞwww(Googleマップのピン画像)》


「いや……嫌ぁぁぁッ!!」


莉乃はスマートフォンをベッドの上に投げ捨て、両手で頭を抱え込んだ。

ガタガタと全身が震え、歯の根が合わずにカチカチと音を立てる。

隠せる場所など、どこにもなかった。

自分が何気なく吐き散らしてきたすべての悪意、すべての嘘、すべての犯罪的行為が、逃げ場のないデジタルの光の下で解体され、何千万人もの見知らぬ大衆によって嘲笑われ、石を投げつけられている。


――ピピピピピピピピピッ、ピピピピピピピピピッ!!


その時、一階のリビングから、けたたましい固定電話の着信音が鳴り響いた。

留守番電話に切り替わる間もなく、鳴り止んでは再び鳴り響く、狂乱のコール音。


「莉乃ちゃん!! 莉乃ちゃぁぁんッ!!」


階段をドタドタと駆け上がってくる足音とともに、母・恵津子が血相を変えて部屋のドアを蹴破るようにして飛び込んできた。

その手には、受話器から外された親機のコードが握りしめられていた。


「電話が……電話が止まらないのよ!!」

恵津子は目を血走らせ、泡を飛ばしながら叫んだ。

「テレビのワイドショーの記者から『真壁莉乃さんの殺人未遂発言についてコメントを』ってかかってくるし、ネットのユーチューバーとかいう連中が『お前の家の前で配信してやるぞ』って脅してくるのよ!! お父さんの会社の総務部からも『事実関係を確認したいから出社しろ』って連絡が入って……お父さん、過呼吸で泡吹いて倒れちゃったのよ!!」


「知らないわよ!! そんなの莉乃のせいじゃない!!」

莉乃はシーツを被り、狂ったように叫び返した。

「お姉ちゃんよ! あいつが全部仕組んだのよ! あいつが全部悪いんじゃない!!」


「そうよ、あの子が悪いのよ!!」

恵津子も金切り声を上げて同調した。

「今すぐ栞の居場所を突き止めなさい!! あの子に謝罪文を書かせて、全部あの子の狂言だったって会見を開かせれば――」


その時だった。


莉乃の手元で、再びスマートフォンが短く、冷徹な単音を鳴らした。


ピロン。


画面に表示されたのは、インスタグラムの公式運営からの、無機質なシステムダイアログだった。


莉乃は息を呑み、恐る恐る画面を見つめた。

そこに並んでいたのは――彼女がこれまで自らの魂の拠り所とし、神殿として崇め奉ってきた世界への、死刑宣告だった。


【重要なお知らせ:アカウントのご利用停止について】

【対象アカウント:@Rino_Life】

【理由:重大な利用規約違反(詐欺的行為、他者の著作権侵害、ステマ規制法違反、および嫌がらせ・脅迫行為)】

【貴殿のアカウントは、コミュニティ規定への深刻な違反と認定されたため、本日付をもって永久凍結(アカウント停止)措置が執行されました。異議申し立ては受け付けられません】


プツンッ。


画面が、真っ暗に暗転した。


次の瞬間、再読み込みされたプロフィールの画面。

そこにあったのは――かつて「フォロワー30万人」と誇らしげに刻まれていた数字ではなかった。


アイコンは無機質な灰色の人型シルエットに変わり、投稿数は『0』、フォロワー数は『0』、フォロー中も『0』。


【このユーザーは存在しません】


「……あ」


莉乃の喉から、空気の抜けるような乾いた音が漏れた。


消えた。


一瞬だった。

朝の仕込みから夜の撮影まで、姉の才能を搾取し、嘘を塗り固め、自らの美貌と虚栄心のすべてを注ぎ込んで築き上げてきた、あの三十万人という巨大な偶像。

チヤホヤされ、ブランド品を贈られ、神様のように崇められていた、真壁莉乃の唯一の存在価値。

それが――たったひとつのシステムメッセージによって、電子の海の藻屑となって、完全に消滅したのだ。


「あ……あぁ……っ……」


莉乃の指先から、スマートフォンがポロリと零れ落ちた。

床の絨毯の上へと落ちた画面には、ただ真っ黒な闇だけが映り込んでいる。


「嘘……嘘よ……莉乃の……莉乃のアカウントが……三十万人が……消えちゃった……?」


「莉乃ちゃん!?」

恵津子が叫ぶ。


「いやあああああーーーーーッッ!!!!」


莉乃は両手で自らの顔面を掻きむしり、獣のような絶叫を張り上げた。

爪が皮膚に食い込み、昨日殴られた頬の傷から再び血が滲み出る。

数字がなくなった。

称賛がなくなった。

フォロワーのいない自分など、ただの大学を落第しかけた、家事も料理もできない、実家に寄生するだけの無能な小娘に過ぎない。

その残酷な現実の重みが、彼女の薄っぺらい精神を内側から完全に粉砕したのだ。


「返して!! 莉乃のフォロワーを返してよぉぉッ!! 莉乃はインフルエンサーなのよ! セレブなのよぉぉッ!!」


床を転がり、シーツを引き裂いて泣き狂う娘。

その姿に、恵津子もまた言葉を失い、恐怖で顔を引き攣らせて立ち尽くすことしかできなかった。


だが――。

悪夢は、まだ終わらなかった。

むしろ、本当の地獄の取り立ては、ここからが幕開けだったのだ。


正午を過ぎた頃。

テレビのニュース番組が、昼のワイドショーのトップ項目として、ある映像を流し始めた。


『――続いてのニュースです。

大手化粧品メーカー「エル・クレア」ならびに大手食品メーカー各社は本日、SNS上で活動していたインフルエンサー・真壁莉乃氏との広告宣伝委託契約を、重大な契約違反に基づき即時解除したと発表しました。

各社は「真壁氏による深刻な著作権侵害行為、ならびにステマ規制違反、虚偽の事実に基づくプロモーション活動は、到底看過できるものではない」との緊急声明を出し、ブランドイメージの著しい失墜に対する厳正な法的措置、ならびに損害賠償請求の手続きを進めているとのことです――』


テレビのスピーカーから流れる、冷徹なアナウンサーの声。

一階のリビングで、辛うじて意識を取り戻していた父・宗治が、その画面を見つめながらガタガタと震え、両手で耳を塞いだ。


そして、その日の夕方。

西の空が血のように赤く染まり、街が冷たい夜の闇へと沈み込もうとしていた、午後五時過ぎ。


ピンポーン。


玄関のチャイムが、不気味なほど短く、機械的に鳴り響いた。


「ひっ……!?」

台所にいた恵津子が、悲鳴を上げて身を竦ませた。

恐る恐るカーテンの隙間から玄関先を覗き込む。

外には、郵便局の配達員が立っていた。手元には、分厚いファイルを抱えている。


「真壁宗治様、ならびに真壁莉乃様はいらっしゃいますでしょうか! 内容証明郵便、ならびに配達証明付き特別送達のお届けでございます! 受領印をお願いいたします!」


宗治と莉乃宛て。

恵津子は震える手で玄関ドアを数センチだけ開け、震える指先で受領のサインを殴り書きした。


配達員から手渡されたのは――茶封筒の束だった。

それも、一通や二通ではない。

大手法律事務所の角印が鮮やかに押された、厚みのある内容証明郵便の封筒が、十通以上。


恵津子は息を呑みながらリビングへと戻り、震える手でその封筒の束をガラステーブルの上へとぶちまけた。


「お……お父さん……莉乃ちゃん……! 何かが、届いたわ……」


二階から這うようにして降りてきた莉乃と、ソファで縮こまっていた宗治が、恐る恐るテーブルを囲んだ。


宗治の震える手が、一番上にあった、国内屈指の四大法律事務所のロゴが入った封筒に伸びた。

封を破る。

中から引き出されたのは、冷徹な文面が記された数枚のA4用紙だった。


『通告書

冠省

当職らは、株式会社エル・クレア(以下「通知人」といいます)の代理人として、貴殿らに対し、以下の通り通告いたします。

貴殿らが通知人との間で締結した「年間アンバサダープロモーション契約」に関して、貴殿・真壁莉乃による第三者の著作権侵害行為、虚偽のプロモーション、ならびに反社会的言動に起因するブランド価値の著しい毀損は、契約書第十四条(契約解除条項)ならびに第十八条(損害賠償条項)に明白に該当いたします。

よって、通知人は本状をもって上記契約を直ちに解除するとともに、契約違反に伴う違約金、ならびにブランドイメージ回復に要する損害賠償金として、金12,000,000円の支払いを請求いたします。

本書面到達後二週間以内に、下記指定口座へ全額を一括送金されたく――』


宗治の息が、喉の奥で止まった。


「い……一千……二百万……!?」


宗治の指先が激しく痙攣し、書類がカサカサと音を立てて震えた。

だが、それだけではなかった。

莉乃が震える手で、二通目、三通目の封筒を引き裂いていく。


大手食品メーカー:契約解除通知および違約金請求――金4,500,000円。

オーガニックサプリメント会社:損害賠償請求――金2,800,000円。

アパレルブランド:損害賠償請求――金1,500,000円。

さらに、海外の著作権管理団体からの、国際著作権侵害に基づく損害賠償請求の予告通知書――。


電卓を叩くまでもなかった。

テーブルの上に散らばる数字の合計。


【請求総額:金20,800,000円】


二千万円。

家が一軒、余裕で買えるほどの巨額の借金。

退職金をすでに前借りして失い、貯金を使い果たし、毎月の給料だけでカツカツの真壁家に、一括で叩きつけられた、逃れられない天文学的な請求書の山。


そして――。

そのすべての請求書の宛名欄に、明確に印字されていた文字。


『請求先:

主債務者 真壁莉乃

連帯保証人兼契約代表者 真壁宗治』


完璧だった。


第7話において、真壁栞が母親の恵津子に従順に従いながら、極めて怜悧に仕掛けておいた、あの絶対的な法的分離の罠。

『私は裏方ですので、企業との契約書や収益の振込口座は、すべて莉乃ちゃんと、世帯主であるお父さんの名義にしておいてくださいね』。


あの時、金の亡者と化していた両親と莉乃は、「金がすべて自分たちの手元に入る」と歓喜し、何の疑いもなく自分たちと宗治の名義で全契約を統一していたのだ。

契約書に、真壁栞の名は一文字たりとも存在しない。

収益の振込履歴にも、真壁栞の口座は一回たりとも関与していない。

法的に、真壁栞はこのインフルエンサー事業において何の権限も、何の責任も持たない、ただの完全なる部外者。


企業側の法務部が請求を起こす相手は、百パーセント、契約書に自署捺印した真壁莉乃と、連帯保証人である世帯主・真壁宗治だけなのだ。


「あ……あぁ……」


宗治の顔面から、最後の一滴の生気が抜け落ちた。

両手の力が完全に抜け、持っていた請求書の束が、バサバサと床の上へと滑り落ちていく。


「お父さん!! お父さん、どうにかしてよぉぉッ!!」


莉乃が床にすがりつき、宗治のズボンの裾を両手で掴んで泣き叫んだ。

顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにし、狂ったように実の父親を揺さぶる。


「二千万なんて払えるわけないじゃない!! 払わなかったら、莉乃、裁判所に訴えられて前科者になっちゃうよ!! お父さん、なんとかしてよ! 会社から借りてきてよ! 家を売ってよ! なんとかしてよぉぉッ!!」


「ど……どうにかって……」


宗治は虚ろな目で、床に散らばった請求書の山を見下ろした。

その声は、掠れ、乾き、完全に魂の抜けた老人のそれだった。


「ど、どうにかって……二千万なんて……払えるわけないだろう……!

退職金はもう……五百万、全部使ってしまったんだぞ……!

預金だって……一円も残っていないんだ……!

俺の人生は……俺の家族は……もう、終わりだぁぁッ……!!」


宗治は両手で顔を覆い、床に崩れ落ちて号哭した。

恵津子がその横で座り込み、髪を振り乱して叫び声を上げる。

莉乃が耳を塞ぎ、のたうち回りながら絶叫する。


暗闇に沈む真壁家のリビングに、自業自得の業火に焼かれた亡者たちの、救いようのない慟哭の嵐が吹き荒れていた。

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