第46話:特等席からの景色――冷徹なる生還と黒き庇護
天井から降り注ぐ豪奢なシャンデリアの明かりは、もはや祝宴の輝きではなく、惨劇の現場を無慈悲に照らし出す尋問室の白光へと成り果てていた。
三百インチの巨大スクリーンが完全な沈黙へと沈んだ後も、帝国グランドホテル『鳳凰の間』を満たしていたのは、人間の尊厳が粉々に砕け散った後に立ち込める、饐えた絶望の腐臭だった。
床一面に散乱したバカラのクリスタルグラスの鋭利な破片。
踏み荒らされた最高級フレンチ懐石の肉料理と、泥のように混ざり合う黄色いポタージュスープ。
日比谷花壇が仕立てた白大理石の飾り台から無残に零れ落ち、幾重もの革靴に踏み躙られて茶色く潰れた、カサブランカと胡蝶蘭の残骸。
その壊滅した舞台の中央で、生き地獄の狂宴はなおも醜悪な音を立てて渦を巻いていた。
「あ……あああぁぁぁッ! 誰か、誰か嘘だと言ってぇぇッ!!」
高砂席の前の深紅の絨毯の上。
赤ワインのドス黒い染みと、頭から浴びせられた氷水によって鉛のように重くなった特注のウェディングドレスを引きずりながら、真壁莉乃は濡れた床の上をのたうち回っていた。
かつて数百万円の価値を誇ると自慢げに見せびらかしていたフランス製リバーレースは、自らのピンヒールで引き裂かれて無残なボロ布と化し、剥がれかけたファンデーションの隙間から、姑・静代に殴り飛ばされた頬の真っ赤な五本指の痕が腫れ上がっている。
頭上から転落したダイヤモンドティアラは、割れたグラスの破片に埋もれて輝きを失い、顔面に張り付いた濡れ髪の隙間から、黒いマスカラが混ざった泥のような涙がとめどなく溢れ出ていた。
「莉乃は悪くない……! 莉乃はプリンセスなのよぉぉッ! お腹の赤ちゃんが……ううん、違う、違うの! 航太さん、捨てないで! 見捨てないでよぉぉッ!!」
莉乃は床の破片で手のひらを切り裂き、血を滲ませながら、隣にへたり込む新郎の足元へと縋り付こうと手を伸ばした。
だが――その手を、相沢航太は狂気に満ちた形相で激しく蹴り飛ばした。
「触るなッ!! 近寄るな、この悪魔めッ!!」
タキシードの襟元を引きちぎられ、ネクタイを乱暴に緩めた航太は、目を血走らせて自らの頭を両手で抱え込み、床の上で膝を抱えてガタガタと震えていた。
その眼鏡の奥の瞳には、かつてのエリートディレクターの知性など塵芥ほども残っていない。
あるのはただ、人生のすべてを失った男の、錯乱した被害者意識と底なしの恐怖だけだった。
「僕のキャリアが……僕の人生が……! 津田さん! 常務! お待ちください、僕は嵌められたんです! 警察を呼んでくれ! 弁護士だ、今すぐ顧問弁護士を呼べ!! 婚姻無効だ、こんな結婚は無効だぁぁッ!! 八百万円を返せ! 僕の金を、僕の出世を返せぇぇッ!!」
空虚な怒号が、すでに誰もいなくなった上座の空席へと虚しく木霊する。
東都広告の役員たちも、同期の社員たちも、すでに汚物から逃げるように全員が会場を去っていた。
残されたのは、明日朝九時の社内監査室への出頭命令と、懲戒解雇、そして八百万円の横領金の個人賠償という、逃れられない破滅の通告だけ。
そして、親族席の末席。
「う……あ……っ、ごぼっ……」
父・真壁宗治は、自らの唾液と泡を口元から垂れ流したまま、床の絨毯の上に横たわってピクピクと手足を痙攣させていた。
前借りした退職金五百万円の完全な消失。会社での地位の剥奪。老後の平穏の破滅。
三十年間、家庭内の理不尽から目を背け、長女を生贄に捧げることで自らの安寧を貪ってきた男は、そのツケの重さに耐えきれず、完全に意識の闇へと逃避していた。
その夫の倒れた背中に縋り付き、テーブルの天板をバンバンと両手で叩きながら、狂ったように喚き散らしている母・真壁恵津子。
「栞!! あんたが身代わりになりなさいよぉぉッ!! 警察に行って『私が全部やりました』って言いなさい!! 親の言うことを聞きなさいよ、この恩知らずの出来損ないがぁぁッ!!」
叫び、喚き、罵り合い、互いの肉を食い破りながら自滅していく、かつての家族たち。
愛など最初からなく、他人の犠牲の上に築かれた虚栄の城が、己の欲望の重みに耐えかねて崩落していく様は、まさに滑稽極まりない地獄の縮図だった。
その阿鼻叫喚の嵐のただ中で。
私は――静かに、席を立った。
スッ……と、背筋を寸分の狂いもなく伸ばす。
アイスグレーのシルクオーガンジーが、乱れることのない美しいドレープを描き、床の上へと静かに降りた。
胸元に留められた銀糸のコサージュ。
その奥に仕込まれていた指向性ピンマイクの役目は、すでに完璧に果たされていた。
私は足元に転がっていた、恵津子がひっくり返したグラスの破片を一瞥することもなく、優雅な所作で跨ぎ越えた。
そして、大宴会場の重厚なオーク材の扉へと向けて、一歩、また一歩と、凛とした足取りで歩みを進めた。
背後から、恵津子の血走った金切り声が飛んでくる。
「待ちなさい、栞!! 逃げる気!? あんたが逃げたら真壁家はどうなるのよ!! 戻ってきなさいよぉぉッ!!」
莉乃の掠れた悲鳴が重なる。
「お姉ちゃん……! お姉ちゃん、助けて……莉乃を置いていかないで……!!」
だが、私の足が止まることはなかった。
振り返ることも、立ち止まることも、眉をピクリと動かすことすらなかった。
その背中には、一切の迷いも、後悔も、憐憫の情すらも存在しなかった。
(……助けて、ですって?)
胸の奥底で、澄み切った冷気のような独白が静かに響く。
(一度目のあの夜。
冷たい雨が吹き荒れる非常階段の踊り場で、後頭部を砕かれ、血の海に沈んでいた私を見下ろしながら……あなたたちは誰一人として、私を助けようとはしなかった。
『莉乃、怪我はない!?』
『よかった、事故死なら世間体も傷つかないわ』
実の親が吐き捨てたあの言葉。
階段の上から冷酷に見下ろしていた妹の嗤い顔。
『君は一人でも生きていける強い人だ』と私を捨て去った男の背中)
あの日、私は死んだのだ。
家族という名の幻想に縋り付き、愛されたいと願っていた哀れな真壁栞は、あの冷たい石畳の上で、永遠に息絶えた。
二度目の人生を歩み始めたあの日から、私はすべてをあげる準備をしてきた。
妹が欲しがった名声も、フォロワーの数字も、エリートの婚約者も、豪華な結婚式も、すべてを惜しみなく譲り渡してあげた。
なぜなら、他人の才能と労力の上に無賃乗車しただけの寄生虫が、自力で立つことなどできるはずがないと知っていたから。
高く持ち上げれば持ち上げるほど、落下したときの衝撃は骨までも粉々に砕き折る。
私はただ、彼女たちが自らの欲望のままに首を括るための縄を、一番上等なシルクで編んで差し出しただけに過ぎない。
(ぜんぶあげたわよ、莉乃。
だから……その破滅の特等席の上で、一生、自らの罪の炎に焼かれ続けなさい)
カツン、カツン。
ヒールの澄んだ音が、絨毯を抜け、大宴会場の出口の大理石の床へと響いた。
誰一人として、私を引き止めることのできる者はいなかった。
床を這う莉乃も、狂乱する恵津子も、卒倒した宗治も、もはや立ち上がることすら叶わない。
自らが撒き散らした毒によって、自らの手足を完全に麻痺させた亡者たち。
私は正面にそびえる、真鍮の装飾が施された重厚な両開きの扉の前へと立った。
手を伸ばし、冷たい真鍮のレバーへと指先をかける。
そして――押し開いた。
ギィィ……と、蝶番が静かな音を立て、扉が左右へと開かれた。
その瞬間。
背後に渦巻いていた怒号、悲鳴、すすり泣き、そしてガラスの破片が擦れ合う地獄の喧騒が、分厚い扉の遮音性によって、まるで遠い異国の幻聴のように急速に遠のいていった。
一歩、踏み出す。
大宴会場の外――帝国グランドホテルの三階メインロビー。
そこには、先ほどまでの泥沼の修羅場とは完全に切り離された、静謐で、気品に満ちた、柔らかな光の空間が広がっていた。
「……っ」
冷たい冬の午後の光が、大きなガラス窓からロビー全体へと降り注いでいる。
高い天井、磨き抜かれた大理石の柱、静かに行き交うホテルのコンシェルジュたち。
宴会場から逃げ出してきた東都広告の役員たちや親族たちのざわめきが遠くのエレベーターホールへと消えていく中で、ロビーの中央は、奇妙なほどの静寂に包まれていた。
そして――。
その静まり返ったロビーの中央、大理石の円柱の影から、ざわめく喧騒を切り裂くようにして、ひとつの長身の影が、迷いのない足取りで真っ直ぐにこちらへと歩み寄ってきた。
カツ、カツ、と。
力強く、けれどどこまでも静かな靴音。
仕立てのいい、漆黒のヴィンテージスーツ。
ネクタイをわずかに緩め、胸元には飾り気のない銀のタイピン。
彫りの深い端正な顔立ちに、夜の湖のように深く、冷徹な光を湛えた切れ長の双眸。
黒木蓮だった。
「……黒木、さん」
私の唇から、微かな吐息が零れ落ちた。
蓮は、会場の中へは一歩も足を踏み入れなかった。
彼は最初から、このロビーで待機していたのだ。
だが、それはただ呑気に待っていたわけでは断じてなかった。
蓮の背後。
ロビーのラウンジ席には、帝国グランドホテルの警備責任者、ならびに黒木家の顧問弁護士を含む法務チームの屈強な男たちが、数名、鋭い眼光を光らせて控えていた。
もし、式場の中で真壁夫妻や相沢航太が逆上し、私に物理的な危害を加えようとして追ってきた場合――その瞬間に即座に割って入り、建造物侵入、暴行未遂、ストーカー規制法違反の現行犯として警察へと引き渡すための、完璧な「防波堤」。
私が泥を被ることなく、安全に、そして法的に完全に守られた状態でこの処刑場を脱出できるよう、蓮が裏社会とメディア、そして警察関係のコネクションを総動員して張り巡らせておいた、鉄壁の包囲網だった。
蓮は私の数歩前で立ち止まった。
その漆黒の瞳が、私の頭の先から、アイスグレーのドレスの裾、そして胸元のコサージュへと、静かに視線を走らせる。
怪我はないか。
震えてはいないか。
奴らの汚らわしい唾を浴びせられてはいないか。
言葉には出さない。だが、その瞳の奥に宿る、痛いほどの熱量を持った確認の眼差し。
私が無傷であり、背筋を寸分の狂いもなく伸ばして立っていることを見届けた瞬間――蓮の口元が、ふっと、これ以上ないほど優しく、柔らかに緩んだ。
蓮は何も尋ねなかった。
「何があったのか」「あいつらはどうなったのか」などという野暮な詮索は、一言たりとも口にしなかった。
彼はただ、左腕に掛けていた上質な漆黒のカシミアのロングコートを広げると、私の華奢な肩の上へと、ふわりと、優しく羽織らせてくれたのだ。
極上のカシミアの、包み込むような温もり。
そして――コートの生地から立ち上る、あの聞き慣れた、深い白檀のインセンスの香りと、ビターな煙草の薫香。
蓮自身の、確固たる体温。
その温もりが肌に触れた瞬間、私の張り詰めていた神経の糸が、内側からじんわりと解きほぐされていくのを感じた。
「……お疲れ様」
低く、掠れた、蓮の声が降ってきた。
夜の静寂を溶かすような、深い慈愛に満ちた声音。
「最高のショーだったな」
蓮の大きな、骨太の手が伸びてきた。
そして――私の冷え切っていた右手を、両手で包み込むようにして、ギュッと強く握りしめた。
トクン、と。
蓮の掌から、力強い脈動と熱が、私の指先を通じて胸の奥底へと流れ込んでくる。
その瞬間。
二年間、いや、一度目の人生を含めた二十余年間。
ずっと私の肩の上にのしかかり、息を吸うことすら苦しめていた重い鉛の鎧が、音を立てて砕け散り、消え去っていく感覚があった。
私は生まれて初めて。
誰の顔色を窺うこともなく。
誰かの身代わりとして縮こまることもなく。
肩の力をふっと抜いて、胸の奥底から込み上げる、澄み切った笑顔を浮かべた。
「ええ」
私の声は、春の雪解けの水のように、清らかに響いた。
「とても見晴らしのいい……最高の特等席でしたわ」
復讐の特等席。
あいつらが自らの虚栄心のために奪い合い、自らの手で設え、自らの重みで底が抜けて落ちていった、あの断罪の壇上。
私はそこから一歩も落ちることなく、自らの足で、生き延びて、ここに立っている。
一度目のあの夜、冷たい雨の中で絶命した同じホテルで。
今度は、悪役たちを完全に社会的・精神的な死へと葬り去り、最愛の共犯者の手を取って、生還を果たしたのだ。
蓮は満足そうに目を細めると、私の手を引いて、自らの隣へと並ばせた。
「行くぞ、栞」
「はい、黒木さん」
二人は並んで歩き出した。
大理石の廊下を、光の差す正面エントランスへと向かって進んでいく。
背後にある、あの呪われた『鳳凰の間』の扉を――二度と、振り返ることはなかった。
あの扉の向こうに残されたのは、これから始まる、果てしない地獄の収穫劇だけだ。
三十万人のアカウントの永久凍結。
数千万円に及ぶスポンサー企業からの損害賠償請求。
東都広告からの懲戒解雇と、横領金の返済地獄。
名門・相沢家からの完全なる勘当と除籍。
老後資金を失った毒父の左遷と、近所からの冷笑に心を病む毒母の精神崩壊。
そして、親友・野村千佳による容赦のない暴露動画の拡散と、法執行機関による殺人未遂の追及――。
刈り取りの時は、満ちたのだ。
私が手を下すまでもなく、彼女たちが自ら蒔いた猛毒の種が、彼女たちの全身を骨の髄まで縛り上げ、窒息させる。
正面エントランスの自動ドアが開いた。
吹き抜けてきたのは、冬の冷たく、けれど驚くほど澄み切った、新しい風。
見上げた空には、雲ひとつない満天の青空が、どこまでも高く、どこまでも果てしなく広がっていた。
誰のものでもない、光。
誰のお下がりでもない、世界。
私の二度目の人生の、本当の物語が――今、この光の中で、幕を開けようとしていた。




