第45話:崩れ落ちる家族――拒絶の宣告と身代わりの終焉
天井から吊り下げられた無数のオーストリア製クリスタルガラスが、冷え切った空気の中で微かに擦れ合い、チリチリと不気味な不協和音を奏でていた。
三百インチの巨大スクリーンが放っていた青白い光が完全に途絶え、漆黒の残像だけが会場内の網膜に焼き付けられている。
先ほどまで『鳳凰の間』を支配していたのは、耳を劈くような新婦・真壁莉乃の狂乱の絶叫だった。
だが、その叫び声すらも、自らの喉をかきむしるような過呼吸の呻き声へと変わり、やがて広大な宴会場には、百二十名の人間の呼吸音と、床に散らばったガラスの破片を踏みしめる乾いた摩擦音だけが澱むように広がっていった。
地獄の釜の蓋が、完全に開け放たれたのだ。
高砂席の壇上では、赤ワインと氷水でずぶ濡れになった特注のウェディングドレスが、ドス黒い染みとなって床の絨毯を汚していた。
かつて数千万円の価値を誇ると自慢げに見せびらかしていたダイヤモンドティアラは、破片の山の中に転がり落ち、無残な鉄屑のように光を失っている。
髪を顔にへばりつかせ、黒い涙を流しながら床を爪で掻きむしる莉乃。
その数歩先では、タキシードの襟元を引き裂かれた新郎・相沢航太が、両手で頭を抱え、床に膝をついたまま「僕の人生が……僕のキャリアが……」と、壊れた蓄音機のように同じ言葉を虚ろに繰り返していた。
そして――。
その惨劇の視線が、壇上から、会場の最も暗い片隅――新婦親族テーブルへと、音もなく雪崩を打って移動していった。
そこにいたのは、娘の虚栄心に全財産と世間体を賭け、長女の人生を生贄に捧げることで自らの平穏を保ってきた二人の毒親だった。
「……あ……あ、が……っ」
喉の奥から、肺の空気をすべて吐き出したような、掠れた異音が漏れ出た。
父・真壁宗治だった。
借り物のタキシードに身を包んだ男の顔面は、土気色を完全に通り越し、まるで死後数日が経過した死人のように青白く硬直していた。
両目は限界まで見開かれ、焦点の合わない黒目が、宙を彷徨いながら激しく痙攣している。
机の上に置かれた宗治の拳は、小刻みに、けれど全身を揺さぶるほどの強烈な震えに支配されていた。
前借りした、退職金五百万円。
新入社員として会社に入社してから三十年間、上司の理不尽な怒号に耐え、部下の失態の責任を押し付けられ、胃に穴を開けながら身を粉にして働き続けてきた、人生の最後の砦。
定年退職を迎えた後、夫婦二人が飢えずに暮らしていくための、唯一の命綱。
それを――第27話において、妻と娘のヒステリーに耐えかね、「娘の玉の輿のためなら将来何倍にもなって返ってくる」「相沢家との親戚付き合いで天下り先も安泰だ」という甘い幻想に縋り付いて、一括でこの式場へと振り込んでしまったのだ。
返ってこない。
一円たりとも、戻ってはこない。
目の前で繰り広げられたのは、詐欺、盗作、裏アカウントでの誹謗中傷、そして実の姉に対する殺人未遂の自白。
相沢家との縁組など、完全に消滅した。
それどころか、東都広告の重役たちが居並ぶこの場で、自分の娘が犯した前代未聞の凶行が全世界へと生中継されたのだ。
明日、自分が勤める会社にこの事実が知れ渡ればどうなるか。
「殺人未遂インフルエンサーの父親」として、会社での立場など一瞬にして消し飛ぶ。
管理職の解任、閑職への左遷、大幅な減給――。
退職金はゼロ。給料は削られ、老後の蓄えは完全に枯渇し、残されたのは世間からの冷笑と、消すことのできない犯罪者の親という焼き印だけ。
「ひゅ……っ、けほっ……ごほっ……!!」
宗治の胸元が、激しく波打った。
酸素を求めて口を大きく開けるが、喉の筋肉が痙攣して空気が肺に入っていかない。
過呼吸。
極限の恐怖と絶望が、三十年間の事なかれ主義によって腐敗しきっていた男の肉体を、内側から容赦なく破壊し始めていた。
「お……れの……金……俺の、人生が……ぜんぶ……ぜんぶ、消えた……っ」
宗治の手が、ガラステーブルの端を掴もうとした。
だが、力など入るはずもなかった。
指先がツルリと滑り、並んでいた高級磁器のディナー皿をガシャンと薙ぎ倒す。
床に飛び散る料理の残骸。
宗治の膝の力が完全に抜け、椅子から崩れ落ちるようにして、深紅の絨毯の上へと無様に倒れ込んだ。
「う……あ……っ、ごぼっ……!」
口元から、白い泡がブツブツと吹き出し、喉を詰まらせたような苦悶の呻きが漏れる。
白目を剥き、手足をピクピクと痙攣させながら、真壁家の家長であった男は、誰にも顧みられないまま、自らの失態の泥水の中で完全に失神した。
だが――。
その夫の哀れな卒倒に、一瞥すらもくれない怪物がいた。
「嘘よ……!!」
キンッ、と耳障りな金切り声が、末席の空気を引き裂いた。
母・真壁恵津子だった。
ポタージュスープで胸元を黄色く汚した紫色の特注留袖の裾を乱暴に蹴り上げ、恵津子は椅子を跳ね飛ばすようにして立ち上がった。
大粒の模造パールのネックレスが首元で激しく揺れ、額には脂汗が吹き出し、厚化粧の白粉がドロドロに溶けて地肌の赤黒いシミを晒している。
その瞳は、狂気と現実逃避の猛毒で真っ赤に充血していた。
「嘘よ! こんなの、全部嘘に決まってるわぁぁッ!!」
恵津子は倒れた夫の身体を躊躇なく踏み越え、深紅の絨毯を猛烈な勢いで駆け出した。
百二十名の参列者たちの冷え切った視線も、床に散乱する割れたグラスの破片も、この女の狂乱の脳内には一ミリも入っていなかった。
タタタタッ、と大理石の段差を駆け上がり、高砂席の前の床の上――赤ワインと氷水にまみれて這い回る莉乃の元へと飛び込む。
「莉乃ちゃん!! 莉乃ちゃん、大丈夫よ!!」
ドサリと膝をつき、恵津子は泥に塗れた莉乃の濡れた身体を、力任せに抱きかかえた。
何層にも重なる重いレースのドレスが、恵津子の留袖に赤ワインの染みをべっとりと移していく。
だが、恵津子は構わず、莉乃の濡れ鼠の頭を自らの胸元へと抱きしめ、周囲を取り囲む参列者たちへと向けて、血走った目を剥き出しにして威嚇の声を張り上げたのだ。
「何を見てるのよ、あんたたち!! うちの莉乃ちゃんが、こんなことするわけないでしょうが!!
全部、嘘よ! 全部、あのお姉ちゃんの仕業なのよ!!」
唾を飛ばしながら、喚き散らす毒母。
その醜悪な叫び声に、会場中の参列者たちの眉が、侮蔑と嫌悪によって限界まで跳ね上がった。
「栞よ! 実家にいる、あの根暗で地味な栞の仕業に決まってるわ!!
あの子は昔から、可愛くて優秀な莉乃ちゃんのことを妬んで妬んでたまらなかったのよ!
高卒の家政婦の分際で、妹が大企業のエリート様と結婚してセレブになるのが許せなくて、こんな卑怯な動画を捏造して莉乃ちゃんを罠にハメたのよ!!」
恵津子は莉乃の背中を強く叩き、さらに声を張り上げた。
「警察を呼んで!! 今すぐ警察を呼びなさいよ!!
名誉毀損よ! 威力業務妨害よ!! 栞を逮捕しなさい! 警察を呼んで、あの子を今すぐブタ箱にぶち込みなさいよぉぉッ!!」
狂乱。
動かぬ証拠が全世界に突きつけられ、娘自身の声で殺人未遂と狂言妊娠が自白されたこの期に及んでもなお。
この母親は、自らの非を認めることも、娘の罪を直視することもできなかった。
すべての責任を、これまで都合のいいスケープゴートとして使い潰してきた長女――真壁栞へと押し付け、自らの「可哀想で誇らしい真壁家」という虚構の城を守るために、他責の泥水を撒き散らし続けていたのだ。
だが――。
この場にいる誰一人として、恵津子の狂言に同調する者など存在しなかった。
「……黙りなさい、下品なペテン師一家が」
氷柱を突き刺すような、冷酷無比な一言。
声の主は、相沢家の親族席の中央に佇む、相沢静代だった。
破り捨てられた扇子の破片を足元に落としたまま、静代は加賀友禅の胸元を正し、床に抱き合う母娘を、道端の汚水を見るような眼差しで見下ろしていた。
「息子の子供を宿したと嘘の検査薬で脅し、我が相沢家の敷居を泥靴で踏みにじり、裏では息子に『事故って死ね』、私に『早く逝け』と呪詛を吐き散らす……。
その上、自らの不始末を実の娘のせいにして警察を呼べと喚くとは、どこまで卑しく、どこまで腐り果てた血筋ですか。……反吐が出ますわ」
静代は冷ややかに踵を返すと、背後の親族一同に向かって、短く言い放った。
「参りますよ。……このような薄汚れた詐欺師どもの茶番劇に、相沢家の人間が一秒たりとも付き合う義理はありません」
「は、はい、叔母様……!」
「行きましょう、こんな場所、一刻も早く出ましょう!」
相沢家の親族たちが、席を蹴るようにして立ち上がった。
一人として高砂席を振り返る者はいない。
通り過ぎる際、親族の一人が床に転がる莉乃のブーケを踏み躙り、「二度と相沢の名を口にするな」と冷酷に吐き捨てていく。
さらに、新郎側の上座――東都広告の役員たち。
「……常務、行きましょう」
第一営業局筆頭シニアディレクター・津田貴志が、静かに促した。
東都広告の常務取締役は、真っ赤な顔をして立ち上がると、床で膝をついたまま震える相沢航太を一瞥し、激しい怒気を含んだ声で吐き捨てた。
「相沢。……貴様のような倫理破綻者をディレクターに据えていたこと自体が、我が社の恥辱だ。
クライアントへの損害賠償、横領した予算の精算、すべて明日、法務部と監査室で詰めてもらう。……二度と我が社の敷居を跨げると思うな」
役員たちが、冷たい足音を響かせて出口へと向かう。
同期や後輩の社員たちも、汚物から逃げるように、誰一人として航太に声をかけることなく、足早に会場を後にしていった。
そして、新婦友人席。
インフルエンサー仲間たちもまた、クスクスと嘲笑を交わしながらバッグを手に取っていた。
「マジでやばかったね」「全部パクリだったとかウケる」「てか裏垢のスクショ、もうTwitterで拡散されてるよ」
彼女たちはスマートフォンを片手に、今まさにネット上で燃え盛る莉乃の破滅の炎を楽しみながら、一斉に出口へと殺到していった。
野村千佳だけが、席を立つ寸前、床で震える莉乃に向かって、美しく冷酷な笑みを投げかけた。
(莉乃ちゃん、バイバイ。……あんたの席、ぜんぶ私がもらってあげるね)
逃げ出す人々。
去っていく足音。
百二十名を収容していた豪奢な『鳳凰の間』は、わずか数分のうちに、蜘蛛の子を散らすようにして無人へと向かっていった。
残されたのは、割れたグラスの破片、倒れた椅子、飛び散った料理、そして床に這いつくばる真壁家の残骸だけ。
「待って……! 行かないで! 航太さんの会社の人たち、待ちなさいよ!!」
恵津子が立ち上がり、去っていく参列者たちの背中に向けて手を伸ばして叫んだ。
だが、重厚な扉はバタン、バタンと冷酷に閉ざされ、誰も振り返りはしなかった。
逃げ道を、完全に塞がれた。
大企業の御曹司との結婚も。
相沢家との親戚付き合いも。
フォロワー三十万人のカリスマの栄光も。
老後の平穏も、世間体も、自尊心も。
すべてが、音を立てて瓦解し、跡形もなく消滅したのだ。
その絶対的な現実を前にして――。
恵津子の歪みきった脳が、最後に辿り着いた矛先。
自らの罪を省みることもできず、娘の悪意を直視することもできない怪物が、自らの破滅の責任を背負わせるために見つけ出した、最後の獲物。
ギチ……ギチ……と。
首の骨が軋むような音を立てて、恵津子はゆっくりと首を巡らせた。
その血走った視線が突き刺さった先。
誰もいなくなった会場の、一番奥。
薄暗い照明の中に、ただ一人、静かに腰掛けたままでいた――長女、真壁栞。
「……あ」
恵津子の唇から、空気が漏れた。
アイスグレーのシルクオーガンジーのドレスを寸分の乱れもなく纏い、背筋を伸ばし、両手を膝の上で揃えたまま、静かに座っている栞。
その姿を見た瞬間――恵津子の全身の毛穴から、ドス黒い殺意の炎がボッと噴き上がった。
「……あいつよ」
恵津子の喉から、地獄の底の泥をすするような声が漏れた。
「あいつのせいよ……! あいつが……あいつが全部ぶち壊したのよぉぉッ!!」
タタタタッ!!
恵津子は猛烈な勢いで、会場の末席へと駆け出した。
汚れた留袖の裾を乱暴に引きずり、床に落ちていたワイングラスの破片を踏み砕きながら突進してくる。
その顔は、もはや人間のそれではなく、己の不幸を他人に押し付けることだけを生きがいとする、怨霊そのものだった。
ドンッッ!!!!
恵津子の両手が、栞が座る親族テーブルの天板へと力任せに叩きつけられた。
ガタガタとテーブルが激しく揺れ、シャンパングラスが倒れて白いクロスの上に薄い輪ジミを作る。
至近距離から、恵津子の唾と、饐えたアルコールの腐臭が吹き付けてきた。
「栞ッ!! あんた、何てことをしてくれたのよぉぉッ!!」
恵津子の金切り声が、無人の宴会場に反響した。
指先を震わせ、栞の鼻先へと突きつける。
「親に向かって! 妹に向かって、何て恐ろしいことをしたのよ!!
莉乃ちゃんの晴れ舞台をメチャクチャにして、相沢家との縁談を破談にして、お父さんをあんな目にあわせて……あんた、人の心がないの!? 悪魔よ、あんたは悪魔よ!!」
理不尽極まりない罵倒の嵐。
自らが長女から学費を奪い、服を奪い、才能を奪い、無料の家政婦として使い潰してきた過去など、綺麗さっぱり都合よく消し去った、身勝手な被害者面。
「あんたが謝りなさい!!」
恵津子はテーブルに身を乗り出し、栞のドレスの胸元を掴みかからんばかりの勢いで怒鳴り散らした。
「今すぐ、あの人たちを追いかけて土下座しなさい!
『妹は悪くありません、全部私が妹を妬んで勝手にやった狂言です』って、相沢家にも東都広告にも、警察にも言ってきなさいよ!!
あんたが全部の罪を被りなさい!! 莉乃ちゃんの身代わりになって、あんたが刑務所に行きなさいよ!!
それが、妹のために生きる姉の役目でしょうが!! あんたなんかが生きてる価値は、それくらいしかないのよぉぉッ!!」
身代わりになれ。
罪を被れ。
刑務所に行け。
妹のために、死ね。
一周目のあの日、冷たい雨の降る非常階段で、後頭部を砕かれて血の海に沈む私を見下ろしながら、この母親が吐き捨てた言葉と――何ひとつ、変わらない。
最初から、この親にとって、長女・真壁栞という存在は人間ですらなく、愛する次女の人生を輝かせるための、都合のいい使い捨ての盾でしかなかったのだ。
だが――。
その罵声の嵐を正面から浴びながら、私は身じろぎひとつしなかった。
恐怖も、怒りも、悲しみすらも湧き上がらなかった。
胸の奥にあるのは、ただ、冬の夜空のように澄み切った、絶対零度の静寂。
私はゆっくりと、テーブルの上に置かれていた純白のリネンナプキンを取り上げた。
そして、恵津子の唾が飛んだかもしれない口元を、丁寧に、優雅な所作でそっと拭った。
カサリ、とナプキンを四つ折りに畳み、テーブルの上へと戻す。
そして――私は、静かに顔を上げた。
すっと、背筋を伸ばして立ち上がる。
アイスグレーのシルクオーガンジーが、シャンデリアの名残の微かな光を浴びて、銀色の月光のように美しく波打った。
私の瞳が、目の前で目を血走らせて肩を怒らせる実の母親の顔を、真っ直ぐに見据えた。
その瞳の奥には、かつて母の顔色を窺い、愛されたいと願って怯えていた少女の面影など、塵芥ほども残っていなかった。
冷酷で、怜悧で、何者にも侵されない――完全なる他者の眼差し。
私の薄い唇が、静かに開かれた。
鈴の音のように透き通った、けれど絶対に揺らぐことのない一言が、静まり返った宴会場に落ちた。
「……お断りいたします」
恵津子の息が、喉の奥で止まった。
「な……何ですって……?」
「お断りいたします、と言ったのです」
私は一歩も退かず、氷のような眼差しで母を見下ろした。
「私が流した映像は、すべて真壁莉乃本人が自らの意思で行った事実の記録に過ぎません。
捏造も、虚偽も、何一つ含まれてはおりません。
法的に、私には何一つとして落ち度も、謝罪すべき理由もございませんわ」
「な……あんた、母親に向かってそんな口を――!」
「母親?」
私の口元に、ふっと、憐憫を含んだ冷ややかな笑みが浮かんだ。
「娘から進学の機会を奪い、労働の対価を奪い、才能を奪い、最後には犯罪の身代わりになれと命じる人間を……この世のどこで『母親』と呼ぶのかしら?」
「っ……!!」
恵津子の顔から、カッと血の気が引いた。
「言ったはずですわ、あの日」
私は静かに告げた。
「妹の自立を祝し、私はすべてを莉乃ちゃんにお譲りいたしました。
アカウントも、名声も、エリートの婚約者も、そしてこの豪華な結婚式も。
……ですから、その結果として降りかかった破滅も、借金も、罪の代償も、すべてあなた方お二人で背負いなさい」
私の声は、穏やかで、けれど絶対的な断絶の鉄槌だった。
「私はもう……誰の身代わりでもありませんから」
完全なる、精神的決別の宣告。
二十年間にわたって私を縛り付け、私の血と肉を貪り食ってきた毒親の呪縛が、この瞬間、私の魂から完全に剥ぎ取られ、霧散したのだ。
「あ……あぁ……」
恵津子の口から、言葉にならない掠れた呻きが漏れた。
反論の言葉が、何一つとして出てこない。
目の前に立つ娘は、もう自分が怒鳴りつければ縮こまるような、都合のいい奴隷ではなかった。
自らの力で立ち、自らの足場を築き、自分たちを遥か高みから冷淡に見下ろす、手の届かない存在へと進化していたのだ。
ドサリ。
恵津子の膝から力が抜け、彼女はテーブルにすがりつくようにして、床の絨毯の上へと崩れ落ちた。
両手で床を叩き、髪を振り乱しながら、獣のような泣き声を上げ始める。
「ああぁぁ……お父さん……莉乃ちゃん……なんで……なんでこんなことにぃぃッ……!!」
床を叩く母の慟哭。
泡を吹いて倒れたままの父の痙攣。
そして、壇上で赤ワインと氷水にまみれて泣き喚く妹の絶叫。
すべてが、終わった。
他人の犠牲の上に築かれた真壁家の偽りの城は、自らが抱え込んだ強欲と怠惰の重みによって、跡形もなく、完全に崩壊したのだ。
私は倒れ込む母の姿に、二度と視線を向けることはなかった。
静かに踵を返す。
アイスグレーのドレスの裾を揺らしながら、私は出口へと向かって、凛とした足取りで歩みを進めた。




