第44話:決定打の音声――鳴り響く狂気の自白と偽りの胎児
ドォォォォォン……ッ。
地底深くの断層が崩壊したかのような、重く、低く、空気を震わせる鐘の音が、三百インチの巨大スクリーンの背後に控える音響システムから鳴り響いた。
その不気味な音圧に叩き潰されるように、高砂席の前で泥と赤ワインにまみれ、髪を掴み合って転がり回っていた新郎新婦の動きが、ピタリと止まった。
襟元を引き裂かれた相沢航太の荒い呼吸音。
ずぶ濡れのレースを体にへばりつかせた真壁莉乃の喉から漏れる、ヒュウヒュウという掠れた喘ぎ。
床に飛び散ったグラスの破片を踏み締める参列者たちのざわめき。
そのすべてが、突如として真空の底へ放り込まれたかのように、一瞬にして音を失った。
会場内の全照明が落とされたままの『鳳凰の間』。
百二十名の参列者の視線が、吸い寄せられるように正面の巨大スクリーンへと向けられる。
漆黒の闇の中央。
血を滴らせたかのような、太く冷徹な深紅の明朝体フォント。
――【本日の挙式直前・新婦控室通用口にて】。
「本日の……挙式直前……?」
新郎側のテーブルで、東都広告の同僚の一人が息を呑んで呟いた。
本日の、直前。
それは、ほんの数十分前――この華やかな披露宴が幕を開ける直前の、この同じホテルの中で記録されたばかりの「何か」を意味していた。
高砂席の前の床に這いつくばっていた莉乃の背筋に、氷柱を直接突き立てられたかのような激しい悪寒が走った。
(控室……通用口……? まさか……嘘でしょ……!?)
莉乃の瞳孔が開き、ガタガタと全身が痙攣し始める。
先ほどまで航太に掴みかかっていた指先の力が、一瞬にして抜け落ちた。
思い出されるのは、第37話におけるあの数分間の記憶。
リネン搬入用の非常階段の踊り場。
冷たいコンクリートの吹き抜け。
姉を手すり際へと追い詰め、突き落とそうとし、逆に腕をねじり上げられて手すりに縫い止められた、あの屈辱と恐怖の密室。
(あの場所に……マイクなんて、あるわけない……! カメラだって、誰もいなかったはずなのに……!!)
だが――莉乃の浅はかな希望的観測を無慈悲に粉砕するように、スピーカーから、ざらついた環境音が流れ出した。
ヒュオォォ……という、非常扉の隙間から吹き込む乾いた冬の隙間風の音。
コツン、コツン、と、手すりに擦れる金属音。
そして――何層にも重なるシルクのドレスがコンクリートの床を引きずる、カサカサというリアルな摩擦音。
無加工。
佐久間湊が最高精度のノイズキャンセリングを施しながらも、その場の張り詰めた空気の密度を寸分狂わずに保った、驚異的な音響空間の再現。
まるで、あの薄暗い非常階段の踊り場が、この『鳳凰の間』の空間そのものに拡張されて出現したかのような、圧倒的な臨場感。
そして――。
その静寂を切り裂いて、スピーカーから響き渡ったのは、紛れもない真壁莉乃の「生の声」だった。
『あんたが会場にいたら……親族席の一番前にあんたの顔があったら、私のフォロワーが気づくかもしれないじゃない! 「あれ? 莉乃ちゃんの手元と、お姉さんの手元、形が全然違う」って! あの料理も、刺繍も、全部あんたがやってたってバレちゃうかもしれないじゃない!!』
会場が、凍りついた。
百二十名の参列者の心臓が、一斉に鷲掴みにされた。
スピーカーから流れ出るその声には、先ほどまでの偽装料理や裏アカウントの文字情報などとは比べ物にならない、剥き出しの狂気と憎悪が宿っていた。
甲高く、尖り、相手の存在そのものを呪い殺さんとする、本物の怪物の絶叫。
『あんたさえいなければ……あんたがこの世から消え去りさえすれば、莉乃の嘘は全部、本物になるのよ!!』
スクリーンには、音声の波形データ(オーディオスペクトラム)が、緑色と赤色の光の波となってリアルタイムで躍動していた。
その下には、佐久間湊によって解析された音声鑑定証明書。
【音声波形照合:新婦・真壁莉乃の生体声紋データと完全一致(合致率99.9%)】
【収録日時:本日午後十二時三十八分(開宴四十二分前)】
【収録場所:帝国グランドホテル本館三階・リネン搬入用非常階段踊り場】
【音声改変・生成AI加工の痕跡:皆無】
言い逃れなど、一文字たりとも許さない。
「悪意ある第三者が作ったディープフェイクだ」という最後の防壁すら、完璧なフォレンジックデータによって完膚なきまでに叩き潰される。
音声は、止まらない。
衣擦れの激しい音がスピーカーを揺らす。
莉乃が突進し、栞の手首を掴み、そして突き飛ばそうとした瞬間の、荒い息遣い。
『あんたなんて、最初から生まれてこなきゃよかったのよ!! お父さんもお母さんも、最初から莉乃だけを愛してたの! あんたは私の引き立て役! 私の召使い! 私のスペア!! 莉乃の完璧な人生のために、あんたは踏み台になって死ねばいいのよ!!』
「……っ!?」
東都広告の役員たちが、息を呑んで胸元を押さえた。
相沢家の親族たちが、あまりのおぞましさに顔を手で覆う。
実の姉に向かって、平然と「死ねばいい」「踏み台になれ」と言い放つ妹。
その醜悪な人間性の深淵に、会場の誰もが吐き気を催すほどの嫌悪感を抱いていた。
だが――これすらも、まだ序の口だった。
ガシャンッッ!!と、鈍く重い金属の衝突音がスピーカーから響いた。
栞に腕をねじり上げられ、手すりへと縫い止められた莉乃の、激痛の絶叫。
『い、痛い……痛い痛い痛いッ!! 腕が折れる!! 離しなさいよ、何すんのよぉぉッ!!』
続いて落ちてきた、栞の静かで、氷のように澄み切った囁き。
『……残念ね、莉乃。私は二度も、同じ手には乗らないわ』
その言葉に続く、莉乃の狂乱。
手すりから眼下のコンクリートの吹き抜けを見下ろされ、極限の屈辱と恐怖に精神を焼き切られた怪物が、喉を引き裂いて放った――あの決定的な凶行の自白。
『離しなさいよ!! 殺してやる!! 殺してやる殺してやるぅぅッ!!
あんたさえいなければ……あんたさえいなければ、私は完璧だったのに!!』
スピーカーがビリビリと激しく音割れを起こすほどの、凄まじい絶叫。
そして――。
『1周目みたいに死ねばよかったのよ!! あの時みたいに、階段から落ちて頭割って死ねばよかったのよぉぉぉッッ!!!!』
ドォォォォン……。
低音の残響が、会場の静寂の中へと重く沈んでいった。
沈黙。
完全なる、絶対零度の凍結。
音が、消えた。
空気が、消えた。
呼吸が、消えた。
百二十名の人間が同じ空間に存在しているというのに、衣服の擦れる音ひとつ、咳払いひとつ聞こえない。
まるで、その場にいる全員が、毒ガスを吸い込んで一瞬にして石化してしまったかのような、底知れぬ静止。
「……え……?」
新郎側の円卓から、誰とも知れぬ掠れた声がポツリと零れ落ちた。
「1周目……?」
「階段から落ちて……頭割って死ねばよかった……?」
「おい……こいつ、今……何て言ったんだ……?」
ざわり、と。
会場の空気が、恐怖の震えとなって波打ち始めた。
「殺してやる……って、本気配だったぞ……」
「階段から突き落とそうとしたのか……? 挙式の、直前に……?」
「あの時みたいに……って、まさか……過去にも……実の姉を突き落としたことがあるのか……!?」
参列者たちの視線が、高砂席の前の床の上――赤ワインと氷水に塗れて倒れ込んでいる、莉乃の姿へと注がれた。
そこにあるのは、もはや「嘘つきなインフルエンサー」を見る目ではなかった。
「わがままな妹」を見る目でもない。
自分の欲望のためなら、実の肉親を階段から突き落とし、頭を砕いて殺害することすら厭わない――本物の殺人者、倫理の壊滅した凶悪犯を見る、底知れぬ恐怖と鳥肌の立つような嫌悪。
「あ……あぁ……」
床の上で、航太の身体がガタガタと激しく震え出した。
タキシードの胸元を抑え、目を血走らせて莉乃を見下ろす。
「お前……本気で……殺そうとしたのか……? 栞さんを……殺そうとしたのか……!?」
航太の脳裏をよぎったのは、先ほどスクリーンに大写しになった裏アカウントの言葉だった。
『航太マジで使えない。早く事故って保険金だけ残せよ』。
ただの愚痴ではなかったのだ。
この女は、気に入らない人間を、自分の邪魔になる人間を、本当に平然と殺害できる怪物だったのだ。
もし自分がこの女と結婚生活を続けていたら、いつか睡眠薬を盛られ、階段から突き落とされ、保険金のために殺されていたかもしれないという、生々しい死の恐怖。
航太の顔から、完全に表情が抜け落ちていた。
そして、相沢家の親族席。
相沢静代の表情は、怒りを通り越して、絶対的な冷酷の彼方へと到達していた。
引き裂かれた扇子の破片を床に落としたまま、静代は眉ひとつ動かさず、ただ汚らわしい猛毒の塊を見るような目で莉乃を見据えていた。
(我が相沢家の敷居を跨がせようとした女が……実の姉の命を奪おうとした殺人鬼でしたか。……身の毛がよだつとは、まさにこのことですわね)
だが――。
佐久間湊がこの八分四十五秒の映像の最後に仕込んでいた刃は、これだけでは終わらなかった。
ピロリン……。
再び、スピーカーから通話の着信音が響いた。
スクリーンの中央。
スマートフォンの通話画面のグラフィックが浮かび上がる。
【発信者:真壁莉乃】
【受信者:野村千佳】
【通話日時:20××年11月2日(第21話・婚約直前)】
新婦友人席で、野村千佳が口元を隠したまま、ゾクリとするような笑みを深めた。
千佳が第19話以降、手持ちの録音アプリで密かに保存していた、莉乃との極秘の通話ログ。
それを佐久間が入手し、波形を復元して映像のラストトラックへと組み込んだもの。
スピーカーから、スピーカーホン越しの莉乃の、軽薄で下品な笑い声がクリアに響き渡った。
『あはは! 千佳ちゃん、マジでありがとー!
千佳ちゃんのツテで手に入ったあの「陽性の妊娠検査薬」、航太の目の前に突きつけたら、あいつ顔面真っ青になって一発で結婚するって言ってきたわ!
チョロすぎてウケるんだけど!』
通話越しの千佳の乾いた声が重なる。
『えー、でも莉乃ちゃん、本当に妊娠してないんでしょ? 病院行こうって言われたらどうすんの?』
そして――莉乃の、何の躊躇いもない返答。
『行くわけないじゃん! 「産婦人科が怖くて行けない」とか「つわりが重くて絶対安静」って適当に泣きついて誤魔化せばいいの!
妊娠なんて嘘に決まってんじゃん! 航太を逃がさないための、ただの道具だよ!
式さえ挙げちゃえばこっちのもんだし、その後で「ストレスで流産しちゃった」って悲劇のヒロインやれば、航太は一生莉乃に頭が上がらないんだからさ!
完璧なシナリオでしょ♡』
ブツンッ……。
通話が切れた。
そして、スピーカーからすべての音が消え去った。
「……な……」
相沢航太の喉から、魂が引き千切られるような絶叫が漏れた。
「……妊娠が……嘘……!?」
航太は両手で自らの頭を抱え込み、その場に膝から崩れ落ちた。
ドサリ、と鈍い音が響く。
妊娠。
第21話で、母・静代に結婚を反対され、別れを決意しかけていた航太の前に突きつけられた、あの陽性の検査薬。
母・恵津子が会社の前で待ち伏せし、「娘を妊娠させておいて捨てる気か!」と脅迫まがいに迫ってきた、あの呪いの鎖。
世間体を恐れ、出世を失うことを恐れ、自分の子供を宿しているという一点において、逃げ道を完全に断たれて結婚を承諾せざるを得なかった、あの最大の理由。
それが。
すべて、偽造された検査薬を使った、真っ赤な狂言。
自分を縛り付け、金と地位を毟り取るためだけに仕組まれた、悪魔のペテン。
「嘘……だったのか……? お腹の赤ちゃんは……最初から……いなかったのか……!?」
航太の目から、血のような涙が溢れ出た。
「俺は……俺の人生は……こんな女の嘘のために……横領までして……全部、ドブに捨てたというのかッッ!!!!」
縛りは、消滅した。
航太が最も恐れていた「子供がいるから別れられない」「世間体から逃げられない」という法的な、そして道義的な足枷が、莉乃自身の口から放たれた録音によって、木っ端微塵に消し飛んだのだ。
残されたのは、ただ底なしの憎悪と、己の愚かさへの絶望だけだった。
そして、相沢静代。
「初孫」という唯一の妥協点。
我が家の血を引く跡取りを産ませるためだけに、下賤な娘を屋敷に迎え入れ、結婚式を強行させた静代の最後の計算が、完全に粉砕された。
静代の瞳から、情けの欠片が完全に消え去った。
我が相沢家の誇りを踏みにじり、偽りの胎児で一族を脅迫したペテン師に対する、完全なる断絶と報復の決意。
会場の空気は、もはや披露宴のそれなどではなかった。
凶悪犯罪の法廷。
それも、全世界に同時中継されている公開裁判。
高砂席のテーブルの上、卓上装花の陰に設置されたiPad Pro。
全世界に向けて送出され続けていたインスタグラムのライブ配信。
同時接続者数は――十五万人を突破していた。
画面の左側を流れるコメント欄は、もはや文字として認識できないほどの速度で、怒りと恐怖の弾幕となって暴走していた。
【殺人未遂じゃん!!!!!!!!!】
【警察呼べ今すぐ警察呼べ!!!!!】
【「1周目みたいに頭割って死ねばよかった」ってガチの殺人未遂自白だろこれ】
【狂言妊娠で男ハメて結婚式あげてたとか前代未聞の結婚詐欺師】
【偽造検査薬で脅迫とか普通に刑法犯罪だぞ】
【「流産したって悲劇のヒロインやればいい」って人間として腐りすぎてる】
【東都広告と帝国ホテルに通報殺到してるらしい】
【Twitterのトレンド全部独占されてて草】
【#Rino_Life炎上】
【#莉乃殺人未遂発言】
【#結婚式公開処刑】
【#狂言妊娠】
【#真壁莉乃逮捕】
日本中が。
そして世界中のネットユーザーが、この前代未聞の破滅の瞬間を目撃していた。
トレンドの1位から5位までが、真壁莉乃の犯した罪の名前で埋め尽くされる。
彼女が喉から手が出るほど欲しがっていた「圧倒的な知名度と注目」は、今、彼女を永遠に社会の檻へと幽閉する、逃れられないデジタルの鉄格子となって完成したのだ。
三百インチの巨大スクリーンの光が、フッと落ちた。
八分四十五秒のメモリアルムービーの、完全なる終演。
静まり返った暗闇の会場の中。
床の上に、赤ワインと氷水にまみれてへたり込んでいた真壁莉乃は――。
カチ、カチ、カチ……と、自らの歯を狂ったように打ち鳴らしていた。
全身から吹き出す脂汗。
息が吸えない。肺が潰れたように動かない。
視界の端が真っ赤に明滅し、耳の奥で何千人、何万人もの罵声と嘲笑が渦を巻いて響き渡っている。
全部、バレた。
料理の偽装も。
海外作品のパクリも。
裏アカウントの毒も。
階段での殺人未遂も。
そして、狂言妊娠の嘘も。
何一つ、残っていない。
隠せる場所など、この世界のどこにも残されていない。
「あ……あぁ……」
莉乃は両手を持ち上げた。
泥とワインで汚れた両手で、自らの耳を力任せに塞いだ。
爪が頭皮に食い込み、髪を掻きむしる。
目を剥き出しにし、喉の奥から、人間の声とは思えないほどの絶叫を張り上げた。
「あああああーーーーーッッ!!!!」
鼓膜を引き裂くような、狂乱の悲鳴。
「違う、違う、違うーーーーーッッ!!!!
莉乃じゃない!! 莉乃は悪くない!! 莉乃はプリンセスなのよぉぉぉッッ!!!!」
床を爪で掻きむしり、ドレスを引き裂きながら、怪物はただ一人、己の撒いた業火の底で発狂のダンスを踊り続けていた。
その阿鼻叫喚の壇上から――視線は、親族席の末席へと移る。
自慢の娘の破滅を受け止めきれず、泡を吹いて倒れようとする父・宗治と、血走った目で立ち上がる母・恵津子の姿。




