第43話:会場の阿鼻叫喚――氷水の鉄槌と醜悪なる共食い
「……お退きなさいッ!!」
鼓膜を突き破らんばかりの鋭利な怒号が、静まり返っていた『鳳凰の間』の豪奢な空間を切り裂いた。
駆け寄ろうとしたホテルのキャプテンも、介添人のチーフも、そのただならぬ殺気に気圧されて息を呑み、反射的に左右へと飛び退いた。
深紅の絨毯を踏みしめ、鬼の形相で高砂席の壇上へと歩みを進める相沢静代。
最高級の加賀友禅の黒留袖の裾が激しく翻り、金箔の織り目が照明の光を浴びてギラギラと狂気じみた光を放っている。
その顔には、先ほどまでの「名家の厳格な未亡人」としての品格など、微塵も残っていなかった。
青筋をこめかみに幾重にも浮き上がらせ、細い瞳を限界まで吊り上げ、真っ赤に血走らせた双眸。
亡き夫から受け継ぎ、自らの命よりも重く守り抜いてきたはずの『相沢家』の格式と名誉。
それが今、百二十名の財界人や親族たちの目前で、そして全世界十万人を超えるライブ配信の画面の中で、下賤な泥棒猫の裏アカウントによって「カビ臭いクソババア」「遺産だけ置いて早く逝け」と、便所の落書きのように嘲笑われたのだ。
一族の誇りを土足で蹂躙された女の憤怒は、すでに人間としての理性の沸点を遥か彼方に焼き尽くしていた。
床の上で、赤ワインにまみれて這いつくばっていた真壁莉乃の前に、静代の革草履が影を落とした。
「ひ……っ!?」
莉乃が怯えて顔を上げた瞬間――。
バシィィィッッ!!!!
乾いた破裂音が、大宴会場に轟いた。
静代の振り下ろした右の手のひらが、莉乃の頬骨を容赦なく撃ち抜いたのだ。
手加減の一切ない、全身の体重を乗せた平手打ち。
莉乃の首が真横に跳ね飛び、ファンデーションの剥がれかけた白い肌に、真っ赤な五本指の痕が生々しく浮かび上がった。
吹き飛んだ口元から血がツッと滲み、赤ワインで汚れた絨毯の上へと垂れ落ちる。
「私のことを……クソババアですって!? 早く逝けですって!? 遺産だけ寄越せですってぇぇッ!?」
静代の喉から絞り出されたのは、夜叉そのものの絶叫だった。
彼女は両手をワナワナと震わせ、床に倒れ込む莉乃の胸元を指差した。
「よくも……よくも我が相沢家を、泥靴で踏みにじってくれたわね!!
息子の稼ぎにぶら下がり、掃除も料理もできぬ無能のくせに、他人の作品を盗んで世間を騙し……挙句の果てに、夫を殺して保険金を取ろうとし、私を呪い殺そうとしていたですって!?
この、下品な泥棒猫が!! ペテン師の化け物めがッ!!」
「痛い……痛いぃぃッ……! お義母様、違います……! あれは……あれはストレスで……!」
莉乃は涙と鼻水を撒き散らしながら、這うようにして後ずさりした。
だが、その見苦しい言い訳が、さらなる猛火を静代の心臓へと注ぎ込んだ。
「ストレスですって!? 我が家の名を汚しておいて、何を甘えたことをほざくかッ!!」
静代の血走った視線が、高砂席のメインテーブルの上へと向けられた。
そこには――先ほど乾杯のために用意されていた、純銀製の大型シャンパンクーラーが鎮座していた。
中には、最高級のシャンパンボトルを急冷するために敷き詰められた、無数の鋭利な氷の塊と、氷点下近くまで冷え切った大量の水。
静代は迷うことなく、両手でその重厚な銀のクーラーの取っ手を掴み上げた。
老婦人の腕力とは思えないほどの、狂乱の膂力。
「お、お義母様、やめて――!」
莉乃が両腕を上げて顔を庇おうとした、その刹那。
ザッパァァァァァンッッ!!!!
凄まじい水音とともに、氷と冷水の塊が、天井の照明を乱反射させながら宙を舞った。
「ぎゃあああああーーーッッ!!!!」
莉乃の絶叫が、宴会場の天井を突き破らんばかりに響き渡った。
頭上から直撃した氷水の鉄槌。
冷徹な真冬の氷が、莉乃の顔面を、首筋を、ドレスの胸元を容赦なく打ち据えた。
何十個もの硬い氷の塊が、額や頬を叩いて床へと跳ね飛ぶ。
そして、凍りつくような冷水が、赤ワインで汚れていた純白のオートクチュールドレスの全身を、一瞬にしてずぶ濡れに押し流していった。
何層にも重なる特注リバーレースが水分を含んで鉛のように重くなり、莉乃の華奢な身体を床へと縫い止める。
セットされていた巻き髪は濡れた海苔のように顔面にへばりつき、黒いマスカラとアイラインが溶け出して、ドロドロとした黒い涙となって頬を伝い落ちていく。
数千万円のダイヤモンドティアラを失い、赤ワインと氷水に塗れ、床のガラスの破片の間をガタガタと震えながら這い回る莉乃の姿は――もはや花嫁などでは断じてなく、路地裏で汚水を浴びせられた野良犬の残骸そのものだった。
「寒い……寒いぃぃッ……! 助けて……お母さん、航太さん……助けてぇぇッ!!」
歯の根が合わずにガチガチと音を鳴らしながら、莉乃は無様に床を掻きむしった。
だが――。
その「助けて」と名を呼ばれた夫・相沢航太には、床の妻を顧みる余裕など、一欠片も残されていなかった。
***
高砂席のテーブルのすぐ脇。
タキシード姿の相沢航太の前に、巨大な影が立ちはだかっていた。
第一営業局筆頭シニアディレクター――津田貴志。
津田は、航太の肩を掴んでいた右手をゆっくりと離すと、スリーピーススーツの内ポケットから、青いファイルに挟まれた数枚の書類の束を取り出した。
そして、その書類の角で、航太の胸板をトン、と硬く小突いたのだ。
「……相沢。よく聞け」
津田の声は、怒号の飛び交う会場の中で、不気味なほど低く、冷徹に研ぎ澄まされていた。
眼鏡の奥の切れ長の瞳が、獲物の息の根を止めるスナイパーのように航太を見据えている。
「お前が真壁莉乃のアカウントの数字を偽装するために、会社の別案件――大手飲料メーカーの予備プロモーション予算から八百万円を掠め取った件だ」
「ひ……っ!?」
航太の喉から、空気が抜けるような音が漏れた。
「ペーパーカンパニー『ネクスト・クリエイティブ・ラボ』。代表取締役はお前の大学時代のサークルの後輩だな。
あそこに調査委託費の名目で八百万円を振り込ませ、その日のうちにキプロスのクリックファームと裏アカウント売買業者へ送金させた。……お前が社内PCから承認印を偽造し、回覧ルートを不正にバイパスしたアクセスログ、送金の全フローチャート、そして購入した外国人フォロワーのダミーアカウント一覧。……社内監査室と法務部が、本日の挙式直前に、すべての裏取りを完了させたぞ」
完全なる包囲網。
逃げ場をミリ単位で塞ぎ切る、完璧な証拠の刃。
第28話において、黒木蓮のメディア界へのコネクションと佐久間湊のフォレンジック調査によって津田のデスクへ届けられたあの内部告発。
津田はそれをただ受け取っただけではなかった。
仕事に厳格で公私混同を病的なまでに嫌う男だからこそ、本日の挙式までの数日間のうちに、密かに社内監査室と連携し、銀行の送金履歴と社内サーバーの生ログを突き合わせ、完璧な法的立証体制を整えていたのだ。
「明白なる【業務上横領】、ならびに【背任罪】だ」
津田は感情を一切交えずに、死刑宣告を淡々と下した。
「東都広告のコンプライアンス規程、ならびに就業規則第八十二条に基づき、お前に対する【懲戒解雇処分】の申請書が、すでに人事部長のデスクに上がっている。
刑事告訴を見送る条件は、ただ一つ。……明日朝九時、監査室へ出頭し、解雇通知書に自署捺印した上で、横領した八百万円を私財から全額弁済することだ。一円の不足も、一日の一猶予も認めん」
「ちょう……かい……かい、こ……?」
航太の瞳孔が開き、顔面が土気色から完全な死人の色へと変色した。
懲戒解雇。
退職金はゼロ。
業界内でのブラックリスト入り。
エリート広告マンとしてのキャリアの、完全なる断絶。
さらには、八百万円の一括返還。
高級外車のフルローンを抱え、タワーマンションの頭金で貯蓄を底まで使い果たしている航太に、そんな大金を用意できる当てなど、どこにも存在しなかった。
すべてを失ったのだ。
社会的地位も、名誉も、金も、将来の役員の座も。
自らの見栄とプライドを守るために手を染めた不正によって、自らの人生のすべてを粉々に爆破してしまったのだ。
「う……あ……あぁぁッ!!」
極限の絶望に脳を焼かれた航太の精神が、音を立てて狂乱の濁流へと呑み込まれていった。
彼は床に崩れ落ちそうになる膝を必死で立て直すと、突然、なりふり構わず津田の足元へと縋り付こうとしたのだ。
「津田さん!! 違います、聞いてください津田さんッ!!」
航太はネクタイを振り乱し、唾を飛ばしながら叫んだ。
その右手は、床の上で氷水に濡れて震えている莉乃の頭上を、狂ったように指差していた。
「僕は騙されたんです!! 全部、この女のせいなんです!!
この女が……『私は料理の天才だ』『丁寧な暮らしで三十万人を動かせる』と、甘い言葉で僕を誑かしたんですよ!
僕はこの女の嘘にハメられた、哀れな被害者なんです!
僕だって、こんなパクリ女だと知っていれば、会社の金を使ってまで助けようとなんてしなかった!
悪いのは全部、僕の善意と救世主の心を弄んだ、この真壁莉乃なんです!! 信じてください、津田さんッ!!」
醜悪極まりない、保身の叫び。
かつて「僕が守ってあげる」と甘い言葉で奪い去った女を、自分の身が危うくなった瞬間に、最も下劣な言葉で生贄として差し出すモラハラ男の本性。
その言葉を、床の上で這いつくばっていた莉乃が、聞き逃すはずがなかった。
「……は?」
氷水でずぶ濡れになり、寒さに震えていた莉乃の身体が、ピタリと硬直した。
被害者?
誑かされた?
全部、莉乃のせい?
その一言一句が、莉乃のプライドの奥底に眠っていた、猛毒の起爆スイッチを完全に踏み抜いた。
「……ふざけんじゃないわよぉぉぉッッ!!!!」
突如として響き渡った、獣の咆哮のような絶叫。
莉乃は床のガラスの破片をものともせず、跳ね起きるようにして立ち上がった。
濡れ鼠のドレスを引きずり、髪を振り乱し、般若のような形相で航太へと飛びかかったのだ。
「何が『騙された』よ!! 何が『被害者』よ!!」
莉乃の両手が、航太のタキシードの襟元を力任せに掴み上げた。
鋭いネイルが航太の首筋に食い込み、赤いミミズ腫れが走る。
「あんたが!! あんたが最初に『インフルエンサーの妻が欲しい』って、鼻の下伸ばして莉乃に擦り寄ってきたんでしょうが!!
大企業の同僚たちに自慢したいからって、トロフィーワイフが欲しくて莉乃を選んだんじゃない!!
そのくせ、家の中じゃモラハラばっかりして! 『手料理作れ』だの『シャツを縮ませるな』だのってネチネチ説教して、私のブランドバッグを包丁でズタズタに切り裂いて!!」
莉乃は口から泡を飛ばし、航太の顔面へ至近距離から罵声を叩きつけた。
「会社の金を横領したのは、あんたの勝手な見栄でしょうが!! 自分が無能で仕事ができないのを、莉乃のせいにするんじゃないわよ!!
この、外面だけのマザコン甲斐性なし男!! 死ね!! 事故って死ねばよかったのよ、あんたなんかぁぁッ!!」
「な、なんだと貴様ッ!!」
プライドを公衆の面前でズタズタに引き裂かれた航太の瞳から、理性の光が完全に吹き飛んだ。
彼は莉乃の手首を力任せに掴んで引き剥がすと、その濡れたドレスの胸元を押し返し、殴りかかる勢いで怒鳴り返した。
「誰が甲斐性なしだ!! 俺の金でタワマンに住み、俺の金でブランド品を買い漁っておいて、よくもそんな口が利けたものだな!!
退職金を奪い取られたお前の父親も、お前のような寄生虫を生み出したお前の母親も、一家揃ってペテン師のゴミクズだ!!
お前ら家族全員、刑務所にぶち込んでやる!! 損害賠償で一生タダ働きさせてやるぞ、このアマッ!!」
「やってみなさいよ!! あんたの横領も、家庭内暴力も、全部ネットで全世界に拡散してやるわ!!
あんたの人生も道連れよ!! 地獄の底まで一緒に堕ちていきなさいよぉぉッ!!」
グシャッ、ドカッ!!
新郎と新婦が、高砂席の前の深紅の絨毯の上で、取っ組み合いの喧嘩を始めた。
タキシードの襟元を引きちぎり、リバーレースのドレスを引き裂き、互いの髪を掴み合い、顔面を引っ掻き合いながら、床の上を転がり回る。
散乱するワイングラスの破片がパキパキと音を立てて砕け、飛び散る赤ワインと氷水が、二人の体を泥のように汚していく。
愛など、最初から存在しなかった。
信頼など、塵芥ほどもなかった。
あるのはただ、「他人に自慢したい」という薄っぺらな見栄と、「自分を大きく見せたい」という底なしの打算。
その虚飾の接着剤が剥がれ落ちた瞬間、二人の怪物は、互いの肉を食い破り、互いの骨を砕き合う、最も醜悪な共食いの獣へと成り果てていた。
「ひ……っ、やめて! 航太さん、莉乃ちゃん、やめなさいよぉぉッ!」
親族席から駆け寄ってきた母・恵津子が、ポタージュで汚れた留袖を揺らしながら止めに入ろうとするが、航太の払いのけた腕に弾き飛ばされ、テーブルの脚に腰を強打して床にへたり込む。
父・宗治は、失神寸前の虚ろな目で宙を見つめたまま、ガタガタと震えて動くことすらできない。
東都広告の役員たちは、汚物から逃げるように席を立ち、足早に出口へと向かい始めていた。
「おい、警備員を呼べ!」「警察だ、警察を呼べ!」「常務、こちらへ、巻き込まれます!」
怒号と悲鳴が渦巻く、阿鼻叫喚の地獄絵図。
新婦友人席では、野村千佳がスマートフォンを胸元に構え、その醜態のすべてを動画で克明に記録しながら、背筋がゾクゾクするような歓喜の笑みを浮かべていた。
(最高……最高よ、莉乃ちゃん! 一生分のコンテンツをありがとうね……!)
そして――。
高砂席のテーブルの上。
卓上装花の陰に設置されていたiPad Pro。
全世界に向けてリアルタイムで送出され続けていたインスタグラムのライブ配信。
同時接続者数は、ついに十二万人を突破していた。
画面の左側を流れるコメント欄は、もはやサーバーの処理限界を超えて、狂乱の弾幕となって暴走していた。
【新郎新婦が床で殴り合いの喧嘩始めてて草草草】
【警察呼べマジでwwwwww前代未聞の披露宴乱闘劇www】
【「横領した」「バッグ切り裂いた」って互いに犯罪自白しててワロタ】
【東都広告の役員全員逃げ出してて草、会社終わったな新郎】
【姑がシャンパンクーラーぶちまけた瞬間が今日のハイライト】
【ドレスがワインと氷水でゾンビみたいになってるww】
【これ全世界に生中継されてるの本人たち気づいてないの最高にピエロ】
【神回確定】【歴史に残る結婚式】【一生ネットの晒し者】
十二万人。
莉乃が手に入れたかった「全世界の注目」。
そのすべてが、彼女と航太の人生を永遠に社会の掃き溜めへと叩き落とす、消すことのできない生中継の処刑記録として、世界中のハードディスクへと保存されていく。
会場の最末席。
新婦親族テーブルの暗闇の中で、私は静かに冷めたグラスを置いた。
泥のように床を転がり、互いを呪い、互いを引き裂き合う元婚約者と義妹の姿。
その阿鼻叫喚の嵐のただ中で、私の心には、冬の海の底のような静寂が広がっていた。
(見苦しいわね……本当に)
胸の中で、静かに呟く。
(相手を愛したことなど一度もないくせに。
相手を道具としてしか見ていなかったくせに。
……道具に裏切られたからと喚き散らす姿は、あまりにも哀れで、あまりにも醜いわ)
耳元のインカムから、佐久間湊の研ぎ澄まされた、低い声が響いた。
《栞ちゃん。……暴動がピークに達した。今だ。最後のトラックを叩き込むよ》
「ええ」
私は胸元のコサージュの極小ピンマイクへと、静かに囁いた。
「解き放ってちょうだい。……あの子の、最後の息の根を」
《了解。ファイナルトラック――送出開始》
カチリ。
佐久間の放った最終コマンドが、システムを駆け抜けた。
その瞬間――。
ドォォォォォン……ッ!!!!
会場中のスピーカーから、地響きのような、重厚極まりない低音の鐘の音が轟いた。
殴り合っていた航太と莉乃の動きが、ビクッと止まる。
怒号を上げていた参列者たちの足が、凍りついたように止まる。
三百インチの巨大スクリーン。
漆黒の画面の中央に、血のように赤い、太い明朝体の文字が、静かに浮かび上がった。
――【本日の挙式直前・新婦控室通用口にて】。




