第42話:裏垢の巨大投影――暴かれた本性と破滅の連鎖
割れたクリスタルグラスの破片が散らばる深紅の絨毯の上で、赤ワインにまみれた真壁莉乃は、喉からヒュウヒュウと掠れた息を漏らしながら這い蹲っていた。
かつて数百万円を投じて誂えた純白のリバーレースは、見るも無残な赤黒い染みに覆われ、まるで処刑台で返り血を浴びた罪人の装束のように成り果てている。
頭上から転がり落ちたダイヤモンドティアラの脇で、彼女は震える指先を床に突き立て、周囲の参列者たちへと救いを求めるように顔を上げた。
だが、誰も目を合わせようとはしなかった。
百二十名の参列者の瞳に浮かんでいたのは、憐憫などでは断じてなく、汚らわしい害虫を踏み潰すのを躊躇うような、絶対的な嫌悪と侮蔑だけだった。
「ひ……っ、あ……あぁ……」
莉乃の唇がガチガチと激しく痙攣する。
海外クリエイターたちからの国際著作権法違反の告発文。
画面上で一枚ずつ剥ぎ取られていった、あの稚拙な反転加工とカラーフィルターのレイヤー。
すべてが暴かれた。
「天才的なセンスを持つ美少女インフルエンサー」という虚飾の偶像は、すでに息の根を止められていた。
そして、その惨劇の壇上――高砂席の前では、さらなる破滅の刃が、新郎・相沢航太の首元へと容赦なく押し当てられていた。
「おい、相沢……聞こえなかったのか?」
第一営業局筆頭シニアディレクター・津田貴志の手が、航太の右肩の肉を万力のように締め上げていた。
仕立てのいいタキシードの生地越しに伝わる、容赦のない圧力。
眼鏡の奥から放たれる津田の双眸は、社内屈指の冷徹な査問官そのものだった。
「お前が会社の看板を背負わせ、エル・クレアの年間タイアップをゴリ押ししたインフルエンサーの正体が、この国際的盗作常習犯だ。……そして、直近で急落していた数字を偽装するために、会社の別案件の予備予算八百万円をペーパーカンパニー『ネクスト・クリエイティブ・ラボ』へ迂回させたな」
「つ……津田、さん……そ、それは……違っ……!」
航太の顔面から、文字通り血の気がサーッと引いていった。
額から噴き出した冷や汗が、眼鏡のレンズへとボタボタと滴り落ちる。
「違います……! 僕は、騙されていたんです! この女が、全部自分で作っていると嘘をついて僕を誑かしたんです! 僕も被害者なんです、津田さん!!」
なりふり構わぬ自己保身。
床を這う婚約者を躊躇なく指差し、すべての泥を擦りつけようとするエリートの醜態。
だが、津田は眉一つ動かさず、吐き捨てるように鼻を鳴らした。
「被害者だと? 笑わせるな。会社の金を私的に流用し、ダミー会社を経由して外国人フォロワーとボットコメントを買い漁った決裁伝票に、お前自身の電子承認印が押されているんだよ。……背任および業務上横領。言い逃れの余地はない。明日付けで、コンプライアンス委員会と社内監査室へ貴様の全データを提出する」
宣告。
大手広告代理店での華々しい出世コースの終焉。
社会的な死の判決が、大企業の重役や同僚たちの目の前で、冷酷無比に下された瞬間だった。
「あ……あぁ……っ……!」
航太の膝がガクガクと震え、手にしたワイングラスを取り落としそうになる。
だが――。
この地獄の披露宴は、まだ終わっていなかった。
料理の偽装、そして国際的な盗作の暴露。
それらは、佐久間湊と私が用意した復讐の序曲に過ぎなかったのだ。
フッ……と。
三百インチの巨大スクリーンが、前触れもなく完全な漆黒へと染まり上がった。
会場内の全照明が落とされたままの『鳳凰の間』に、再び、重苦しい静寂が満ちていく。
参列者たちが息を呑み、何事かとスクリーンを見つめる。
その無音の暗闇を、唐突に引き裂いたのは――。
ピロン……。
澄んだ、けれどどこか薄気味の悪い、スマートフォンの通知音だった。
続いて、ブブッ……ブブッ……と、テーブルの木目を揺らすようなリアルなバイブレーション音が、会場の四隅に配置された巨大アレイスピーカーから、生々しい立体音響で鳴り響いた。
「……ん? 誰かのスマホか?」
「いや、スピーカーから鳴ってるぞ……」
参列者たちのざわめきの中、三百インチのスクリーンの中央に、スマートフォンのロック画面を模したインターフェースが浮かび上がった。
画面がスワイプされ、開かれたのは――インスタグラムのタイムライン。
だが、そのアカウント名は、三十万人を抱えるあの公式アカウント『@Rino_Life』ではなかった。
画面の最上段に大写しになった、鍵マークのついた非公開アカウントのプロフィール。
アカウント名――『@toxic_princess』。
そして、その丸いアイコンの中に設定されていた写真。
薄暗い洗面所の鏡の前、胸元の大きく開いた露出度の高いキャミソール姿で、カメラに向かって中指を突き立て、舌を下品に突き出して嗤っている女の自撮り。
スッピンでもなく、清楚な令嬢メイクでもない。
ケバケバしいアイラインを吊り上げ、邪悪な欲望を剥き出しにした、紛れもない真壁莉乃の生々しい素顔だった。
「……えっ?」
新婦友人席から、小さな悲鳴が漏れた。
高砂席の足元で這いつくばっていた莉乃の身体が、雷撃を浴びたようにビクッと跳ね上がった。
(嘘……嘘でしょ……!? なんで……なんでそれが……!?)
莉乃の瞳孔が、極限まで見開かれた。
血の気の引いた唇が、音もなくワナワナと震える。
それは、彼女がタワーマンションでの息の詰まる同棲生活の中、夜な夜なベッドの中で毛布を被り、自らの精神を辛うじて保つために吐き散らしていた、門外不出の「秘密の汚水溜め」だった。
大学のごく一部の身内だけにしか見せていない、絶対に世間に出てはならないはずのアカウント。
だが、スクリーンは彼女の絶望を嘲笑うかのように、画面の右隅に逃げ場のない「証明データ」を巨大なフォントで投映した。
【アカウント運用者特定レポート】
【ログイン端末:Apple iPhone 15 Pro(シリアル番号:F2LNK982MD)】
【端末契約名義:真壁莉乃】
【アクセス発信元IP:東京都港区芝浦○丁目(相沢航太所有マンション)】
【端末固有識別番号(IMEI)照合:完全一致率100%】
【第三者による不正アクセス・捏造の痕跡:皆無】
佐久間湊が完璧に仕上げた、デジタルフォレンジックの鉄壁の証明書。
「他人のなりすましだ」「ハッキングされた」という言い逃れを、最初の数秒で完全に粉砕する先制攻撃。
そして――。
スピーカーから、指先で画面をスクロールするシュッ、シュッという摩擦音が響き、タイムラインに並ぶ文字列が、スクリーン一面へと拡大投映された。
一件目の投稿。
画面の中央に、太い赤文字のハイライトとともに浮かび上がったテキスト。
『航太マジで使えない。外面だけエリート気取ってて、ベッドも下手くそだし給料も安い。タワマンのローンでカツカツのくせに威張るなキモ男。早く事故って保険金だけ残せよ』
投稿日時:一ヶ月前、深夜二時十四分。
ドサッ。
新郎側のテーブルで、誰かが椅子から滑り落ちるような鈍い音が響いた。
会場全体が、息を呑んだ。
東都広告の役員たちも、同期の社員たちも、全員が目玉を剥き出しにしてスクリーンを凝視している。
外面だけエリート。
ベッドも下手くそ。
給料が安い。
キモ男。
早く事故って保険金だけ残せ。
「な……ッ!?」
肩を掴まれていた相沢航太の喉から、ヒュッと引き攣った空気の音が漏れた。
彼の顔面が、青白さを通り越して、土気色からドス黒い怒りへと急速に変色していく。
全身の毛穴という毛穴から、憎悪の炎が吹き出すのが目に見えるようだった。
自分がすべてを捧げ、会社の金を横領してまで守ろうとした女。
大勢の友人に自慢し、トロフィーワイフとして崇めていたはずの可憐な妻。
その女が、自分を「早く事故って死ねばいい金づる」と嘲笑い、全世界のネットの暗がりに晒していたのだ。
男としての尊厳。
エリートとしての誇り。
そのすべてが、最も下劣な便所の落書きのような言葉で、完膚なきまでに公衆の面前で踏みにじられた。
「き……貴様……ッ!!」
航太の奥歯が、ギリギリと粉々に砕け散らんばかりの音を立てた。
だが、画面は止まらない。
佐久間のスクリプトは、次なる獲物――相沢家の絶対君主の急所を、容赦なく抉り抜いた。
二件目の投稿。
『トメ(静代)の顔見てるとマジで吐き気する。着物着たカビ臭いクソババア。息子の前では良い母ヅラして、裏でネチネチ嫌味言ってくるの死ねばいいのに。遺産だけ置いて早く逝け』
投稿日時:三週間前、午後十一時四十五分。
その瞬間――。
パシィィィッッ!!!!
静まり返った『鳳凰の間』に、雷鳴のような鋭い破壊音が鳴り響いた。
相沢家の親族席。
中央に座っていた相沢静代が手にしていた、金箔塗りの最高級の扇子が、凄まじい力によって真っ二つに叩き折られた音だった。
静代の加賀友禅の胸元が、激しく波打っていた。
普段、感情を一切表に出さず、冷徹な仮面を貼り付けて名家の格式を誇ってきた貴婦人の顔が――今や、地獄の業火に焼かれた夜叉のように、怒りと屈辱で引き攣り、歪んでいた。
トメ。
カビ臭いクソババア。
息子の前では良い母ヅラ。
死ねばいいのに。
遺産だけ置いて早く逝け。
「……っ……!!」
静代の喉から、言葉にならない憤怒の呻きが漏れる。
名門・相沢家を継ぐ一人息子が連れてきた嫁。
不始末を犯しながらも、「跡継ぎを宿している」という一点において、一族の檻の中で完璧に調教してやろうと慈悲(と本人が信じる支配)を与えてやった結果が、これだった。
自らを「カビ臭いババア」と呪い、一族の死を願い、遺産を貪り食うことだけを企んでいた下賤な寄生虫。
親族席の面々が、青ざめて静代から距離を取る。
静代の全身から立ち上る殺気は、もはや理性の箍を完全に焼き切っていた。
さらに、スクリーンは止まらない。
三件目、四件目の投稿が、容赦なくスクロールされていく。
『フォロワーのブス共が私のパクリに気づかずに「莉乃ちゃん憧れです♡」とか言って崇めててマジで草。一生私の養分でいろよ底辺共』
『結婚式代で実家の親父の退職金五百万毟り取ってやったわww 娘の玉の輿のために一生タダ働きしろ貧乏人』
『てか野村千佳マジでウザい。顔面工事の失敗作のくせに調子乗るな。私の引き立て役として一生ヘラヘラ笑ってろよ』
ファンへの露骨な見下し。
三十年間の労働の結晶を差し出した実の父親への嘲笑。
そして、親友面をしてすり寄っていた仲間への誹謗中傷。
新婦友人席。
ペールピンクのドレスを着た野村千佳は、テーブルの下でスマートフォンを握りしめたまま、口元を扇子で隠し、ゾクリとするような冷酷な笑みを浮かべていた。
(あは……あはははは! 流れた! 本当に全部流れたわ!!)
千佳の瞳の奥で、狂喜の炎が踊っていた。
第31話で自分が潜入し、保存し、佐久間に流したあの決定的な証拠。
莉乃が自分を「顔面工事の失敗作」「引き立て役のブス」と見下していたテキストが、今、会場中のスクリーンに、そして全世界への生中継に大写しになっている。
これで莉乃は完全に終わる。
インフルエンサーとしても、人間としても、社会的に完全に息の根を止められるのだ。
千佳はテーブルの下で、自らのYouTubeチャンネルの管理画面を開き、すでにスタンバイさせてある莉乃の暴露動画の公開ボタンへ、静かに指を添えていた。
「ひ……っ、嫌ぁぁぁッ!!」
床の上で、ワインに濡れた莉乃が頭を抱え、獣のような絶叫を上げた。
「違う……! 私じゃない! 莉乃が書いたんじゃないのぉぉッ!!」
狂乱の否定。
だが、その叫び声すら、誰の耳にも届かなかった。
IPアドレス、端末シリアル番号、自撮り写真。
そのすべてが、彼女自身の罪を寸分の狂いもなく証明していたからだ。
そして――。
高砂席のテーブルの上。
卓上装花の陰に置かれたiPad Pro。
全世界に向けてリアルタイムで送出され続けていたインスタグラムのライブ配信。
同時接続者数は、ついに十万人の大台を突破していた。
画面の左側を流れるコメント欄は、もはや人間の知覚を超えた光の濁流と化していた。
【うわあああああああああああ!!!!】
【本物の化け物じゃん!!!!】
【「フォロワーは養分のブス共」!? ふざけんな返金しろ!!】
【旦那に保険金殺人願望とかマジでサイコパスだろ……】
【姑に「クソババア早く逝け」は草も生えない、ガチの地獄】
【父親の退職金五百万毟り取ったって自白してて引いた……親不孝の極み】
【野村千佳のこと「顔面工事」って言っててワロタ、身内も全員敵に回してて草】
【警察呼べよ!! こんな奴が野放しになってるとか恐怖でしかない!!】
【結婚式公開処刑の歴史的瞬間を目撃してるwww】
【垢BANどころか逮捕案件だろこれ】
十万人。
莉乃が喉から手が出るほど欲しがり、自らの神殿として誇っていた「大衆の視線」。
その視線のすべてが、今、彼女を八つ裂きにするための、冷酷で容赦のない憎悪の刃となって突き刺さっていた。
自らが蒔いた悪意の種が、自らを永遠に社会の底辺へと縛り付ける鉄の杭となって打ち込まれたのだ。
会場の最末席。
新婦親族テーブルの暗闇の中で、私は静かに冷めたグラスを置いた。
隣の席札――『黒木 蓮 様』。
空席の席札にそっと視線を落とし、心の中で深く息を吸い込む。
(見ていて、黒木さん。……ここからが、本当の断罪よ)
床の上で、泥のように這い回る莉乃。
肩を震わせ、殺意に満ちた目で莉乃を睨みつける航太。
そして――。
ガタタンッッ!!
静まり返った会場に、椅子が激しく倒れる音が響いた。
親族席から、ゆっくりと立ち上がったひとつの影。
相沢静代。
引き裂かれた扇子の破片を床に投げ捨て、加賀友禅の裾を翻した姑の顔は――怒りと屈辱で般若のように歪み、その双眸からは、人間としての情けの一滴すら完全に蒸発していた。
「……き……」
静代の唇から、地獄の底から這い上がってきたような、低く震える声が漏れた。
「……き、貴女……!!」
一歩。
二歩。
静代の革草履が、床の絨毯を激しく踏みしめながら、高砂席の壇上――赤ワインまみれで這い蹲る莉乃へと向けて、真っ直ぐに歩み出した。
物語は、怒り狂う姑の鉄槌と、新郎新婦の醜悪極まりない泥沼の罵倒合い――第43話「会場の阿鼻叫喚」へと加速していく。




