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第37話:1周目の再現と決定的な違い――二度目の階段、掴み取った運命

ロイヤル・ブライズルームの豪奢な絨毯の先、スタッフ用の通用口へと続く細い通路には、客室の華やかさとは裏腹な、冷え切った空気が淀んでいた。


「来なさいよ! こっちに来なさいよ、お姉ちゃん!!」


真壁莉乃は鬼のような形相で、私の手首を掴もうと爪を立ててきた。

だが、私がわずかに身を引いてその手を躱すと、彼女は焦燥と怒りに駆られたように自ら通路の奥へと踏み込み、非常扉の重いレバーを力任せに押し下げたのだ。


ガコンッ、と鈍い金属音が響き、分厚い防火扉が開かれた。

吹き込んできたのは、冬の乾いた冷気。

そこは、ホテルのリネン搬入用非常階段へと続く、無機質なコンクリートの踊り場だった。


吹き抜けの階段室。

頭上には淡い冬の光を落とすスリット窓があり、眼下には何層にも重なる急勾配の階段が、薄暗い底へと口を開けていた。

金属製の手すりは冷たく凍てつき、足元のコンクリートには、客室の豪奢な絨毯の温もりなど微塵も届かない。


(……ここね)


私の視界が、一瞬だけ鋭く細まった。


脳裏の奥底で、あの日の記憶が鮮烈に重なり合う。

一周目の、結婚式前夜。

あの時も、莉乃は私をこの同じ踊り場へと誘い出したのだ。

ボロボロのスーツを着せられ、荷物持ちとして酷使されていた私を、彼女はこの冷たい手すり際へと追い詰めた。

あの時は、叩きつけるような土砂降りの雨の音が響いていた。

冷たい雨水が非常扉の隙間から吹き込み、階段の段鼻を濡らし、私の足元を不安定に狂わせていた。


だが――今、私の立つ足元は、一ミリたりとも揺らいでいなかった。


床は乾いている。

外は澄み切った青空。

そして何より、あの日のように怯え、妹の顔色を窺い、家族の愛に縋り付いていた哀れな生贄の私は、ここにはもう存在しなかった。


「お姉ちゃん、本当に目障りなのよ……!」


莉乃は手すりに背を預けるようにして立ち止まり、息を荒げた。

数百万円の特注ウェディングドレスの裾が、コンクリートの床に擦れてザラザラと嫌な音を立てている。

頭上のダイヤモンドティアラはわずかに傾き、額には脂汗が滲み、完璧に施されていたはずの花嫁メイクは、憎悪の熱によって崩れかけていた。


「あんたが会場にいたら……親族席の一番前にあんたの顔があったら、私のフォロワーが気づくかもしれないじゃない! 『あれ? 莉乃ちゃんの手元と、お姉さんの手元、形が全然違う』って! あの料理も、刺繍も、全部あんたがやってたってバレちゃうかもしれないじゃない!!」


莉乃の口から、堰を切ったように本音が溢れ出した。


恐怖。

彼女を突き動かしていた最大の原動力は、傲慢さの裏に張り付いた、あまりにも生々しい恐怖だったのだ。

フォロワー三十万人という虚飾の塔。

大企業のタイアップという栄光。

セレブ妻という人生の頂点。

そのすべてが、姉という「本物の作り手」が同じ空間に存在するだけで、一瞬にして瓦解してしまうかもしれないという、耐え難い怯え。


「あんたさえいなければ……あんたがこの世から消え去りさえすれば、莉乃の嘘は全部、本物になるのよ!!」


莉乃の両目が、真っ赤な血走りに染まった。

唾を飛ばし、歯を剥き出しにし、喉が裂けんばかりの絶叫を浴びせかける。


「あんたなんて、最初から生まれてこなきゃよかったのよ!! お父さんもお母さんも、最初から莉乃だけを愛してたの! あんたは私の引き立て役! 私の召使い! 私のスペア!! 莉乃の完璧な人生のために、あんたは踏み台になって死ねばいいのよ!!」


狂乱。

自らの虚栄心を守るためなら、実の姉の命など虫けらのように踏み潰しても構わないという、絶対的な自己愛の怪物。


一周目と、寸分違わぬ光景。

一言一句違わぬ、呪詛の言葉。


莉乃は両手を高く振り上げた。

そして、体重のすべてを乗せ、憎悪の炎を拳に込めて、私の胸元へと向けて猛烈な勢いで突進してきた。


突き飛ばす。

この急勾配の階段の底へ、一歩も動けないように突き落とす。

一周目のあの日、私の後頭部を石畳に叩きつけ、血の海に沈めた、あの決定的な殺意の一撃。


空気を切り裂く、シルクの衣擦れの音。

莉乃の指先が、私の胸元のアイスグレートップスへと、あと数センチの距離まで迫った――その、瞬間。


(……遅いわ)


私の瞳には、その暴虐の手が、まるでスローモーションのように見えていた。


一周目の私は、恐怖で体が竦み、後退りし、濡れた床に足を滑らせて無様に転落した。

だが、二周目の私は、この瞬間を迎えるために、すべての時間を研ぎ澄ましてきたのだ。


『Noir』での重いアンティーク家具の搬入と修繕作業。

毎日、全身の筋肉を使い、指先の感覚をミリ単位で制御し、重心を低く保ち続けてきた日々。

私の体幹は、ドレスの下で鋼のように引き締まり、大地に根を張る古木のように寸分の揺らぎもなかった。


私は一歩も引かなかった。

逆に、半歩だけ、わずかに右へと軸足を滑らせた。


――シュッ。


風を裂く音とともに、莉乃の両手が私の胸元の空間を空しく通過した。

勢い余って前のめりに突っ込んできた莉乃の身体。


その瞬間、私の両手が、稲妻のような速さで動いた。


バシィッッ!!


乾いた打撃音が、コンクリートの踊り場に響き渡った。


私の左手が、莉乃の右の手首の関節を、上から鷲掴みにするようにして完璧にロックしたのだ。

逃げ場のない、骨と腱を制する急所へのホールド。

莉乃の突進の運動エネルギーをそのまま利用し、彼女の腕の軌道を斜め上方へと流す。


「……えっ!?」

莉乃の喉から、間の抜けた悲鳴が漏れた。


自分の手が相手に届かなかった。

それどころか、信じられないほどの力で手首を捕らえられ、身体のバランスが前へと崩れ去る。


だが、私の反撃は、それだけで終わらなかった。


私は即座に右手を滑り込ませ、莉乃の右肘の内側へと下から掌底を当てた。

テコの原理。

関節の可動域を限界まで使い、莉乃の右腕を背中側へと、冷徹に、一分の狂いもなくねじり上げたのだ。


「ぎゃっ……ああぁぁッ!?」


激痛の絶叫が、吹き抜けの階段室に反響した。

莉乃の華奢な身体が、抗うことのできない力によって半回転させられる。


私はそのまま、彼女のねじり上げた腕を支点にして、莉乃の身体を非常階段の冷たい金属製手すりへと押し付けた。


ガシャンッッ!!


重厚な金属の衝突音。

莉乃の胸元と腹部が手すりのバーに激突し、純白のドレスの胸元がギュッと押し潰される。

彼女の顔面は手すりの隙間から階段の吹き抜けへと突き出され、眼下に広がる底知れぬコンクリートの階段を見下ろす形になっていた。


「い、痛い……痛い痛い痛いッ!! 腕が折れる!! 離しなさいよ、何すんのよぉぉッ!!」


莉乃は涙と鼻水を撒き散らしながら、もがき狂った。

だが、私が関節にかける力は、微動だにしなかった。

力任せに押さえつけているのではない。骨格と重心を完全に制圧しているため、莉乃が暴れれば暴れるほど、自らの体重で自らの関節が軋み、激痛が走る構造になっていた。


手すりの冷たさが、莉乃の頬を容赦なく冷やしていく。

眼下に広がる、何十段もの硬い階段。

もし落ちれば、頭を砕かれ、血の海に沈むであろう、あの暗黒の底。


かつて、私が見せられた景色。

かつて、私が味わわされた死の恐怖。


その同じ恐怖の淵に、今度は莉乃自身が、自らの腕をねじり上げられたまま、無様に吊るし上げられていた。


私は莉乃の耳元へと、ゆっくりと顔を近づけた。

私の乱れぬ呼吸が、莉乃の濡れた首筋を撫でる。


そして――氷の底から響くような、絶対零度の囁きを落とした。


「……残念ね、莉乃」


私の声には、怒りすら混ざっていなかった。

ただ、冷徹な事実を淡々と告げる、神の宣告のような静寂。


「私は二度も、同じ手には乗らないわ」


「ひっ……!?」

莉乃の全身が、恐怖でビクッと痙攣した。


二度も?

同じ手?

その言葉の意味を理解する知性すら、激痛と恐怖に支配された莉乃の脳内には残っていなかった。

ただ、背後から自分を押さえつけている姉の纏う空気が、あまりにも人間離れした、底知れぬ怪物のそれであることだけが、本能的な恐怖となって彼女の背筋を駆け抜けていた。


私の視線が、莉乃の胸元へと注がれる。


私のドレスの左胸。

アイスグレーのシルクオーガンジーの上に留められた、銀糸の小さなコサージュ。

その花弁の奥深くに仕込まれた、佐久間湊特製の極小高性能指向性ピンマイクが――莉乃の荒い息遣い、手すりに擦れるドレスの布擦れの音、そして彼女の喉から絞り出される恐怖の呻き声を、完璧な音圧で拾い上げていた。


さらに、ホテルの地下駐車場に停められた佐久間の機材車を通じて、この音声の波形データはリアルタイムで暗号化され、複数のクラウドサーバーへと分散保存されていた。

万が一の通信遮断に備え、私のドレスの内ポケットに仕込まれた超小型ボイスレコーダーのSDカードにも、同じ音声が二重に記録されている。


正当防衛の現場。

暴行未遂の現場。

そして――殺人未遂の自白の瞬間。

法的に、一切の言い逃れが不可能な、完璧なる証拠保全の檻。


「離しなさいよ……ッ! 離せ、離せぇぇッ!!」


手すりに縫い止められた莉乃は、屈辱と痛みに狂い、首を激しく振って叫んだ。

傾いたダイヤモンドティアラが音を立てて床へと転がり落ち、最高級のレースが手すりの鉄錆で黒く汚れ、純白の花嫁の姿は、見るも無残な狂人の残骸へと成り果てていた。


そして――。

極限の痛痛と、姉に力で屈服させられたという耐え難い屈辱が、莉乃の理性の最後のリミッターを、完全に木っ端微塵に粉砕した。


彼女は目を血走らせ、口から泡を飛ばしながら、吹き抜けの階段室全体を揺るがすような絶叫を轟かせたのだ。


「離しなさいよ!! 殺してやる!! 殺してやる殺してやるぅぅッ!!」


階段室の壁が、その凶気じみた金切り声を何重にも反響させる。


「あんたさえいなければ……あんたさえいなければ、私は完璧だったのに!!」


莉乃の口から、もはや人間としての体裁をかなぐり捨てた、おぞましい自白の言葉が濁流のように吐き出された。


「1周目みたいに死ねばよかったのよ!! あの時みたいに、階段から落ちて頭割って死ねばよかったのよぉぉぉッッ!!!!」


静寂。


ドクン、と。

私の心臓が、深く、静かに脈打った。


言った。

自らの口で。

自らの声で。

この世界の誰も信じてくれないはずだった、一周目のあの凶行を。

私を突き落とし、頭を砕いて殺したという、あの絶対的な殺人の記憶を――真壁莉乃は今、自らの意思で、明確な殺意の告白として、全世界へ向けて解き放ったのだ。


私の耳元。

髪の毛に隠された極小のワイヤレスインカムから、佐久間湊の押し殺した、けれど震えるような歓喜の声が滑り込んできた。


《……録れた。完璧だ。周波数、音圧、ノイズ除去、全部クリア。タイムスタンプと生波形データ、セキュアサーバーへ同期完了。……最高の、最高の発火剤が手に入ったよ、栞ちゃん》


完璧だった。

復讐の方程式の、最後の、そして最も巨大なピースが、今、ピタリと音を立てて嵌まり込んだ。


私は莉乃の手首にかけていた力を、フッと抜いた。


「……あ、がっ!?」


支えを失った莉乃の身体が、手すりから崩れ落ち、コンクリートの床の上へと無様にへたり込んだ。

右腕を押さえ、荒い息を吐きながら、涙と涎で顔をぐしゃぐしゃにして私を見上げている。

その瞳には、なおも消えない憎悪と、それ以上に深い、得体の知れない恐怖が渦巻いていた。


私は一歩、後ろへと下がった。


乱れた自分のドレスの襟元にそっと指先を添え、シワひとつないように整える。

胸元のコサージュの位置を直し、背筋を寸分の狂いもなく伸ばした。


そして、床に這いつくばる「哀れな花嫁」を見下ろした。

私の瞳には、怒りも、復讐の昂ぶりすらも、もう残っていなかった。

ただ、これから屠殺場へと送られる家畜を見送るような、絶対的な無機質と、冷徹な慈悲。


「……お怪我はありませんでしたか、莉乃ちゃん」


私の声は、春の小川のように穏やかで、澄み切っていた。


「な……なんなのよ、あんた……! 化け物……あんた、化け物よ……!!」

莉乃は床を這いながら、後ずさりした。

自分を力で制圧し、狂乱の自白を引き出しておきながら、何事もなかったかのように淑女の微笑みを浮かべる姉の姿。

その絶対的な精神の格差に、莉乃の魂は芯から震え上がっていた。


コンコン。


その時、非常扉の向こう――ブライズルームの廊下から、スタッフのノックの音が響いた。


『新婦様、お時間でございます! 挙式会場へのご移動をお願いいたします!』


お迎えの時間。

自らが望み、自らの見栄のために用意させた、あの晴れ舞台への招集。


私は静かに踵を返した。

非常扉のレバーに手をかけ、ゆっくりと押し開ける。


光が差し込む廊下へと足を踏み出す寸前、私は立ち止まり、振り返ることなく、肩越しに冷ややかに告げた。


「どうぞ、入場のお時間よ。……花嫁さん」


バタンッ。


重厚な防火扉が、二人の世界を分断するように、冷たい音を立てて閉ざされた。


薄暗い非常階段の踊り場に残されたのは、床に転がるティアラと、黒く汚れた特注ドレスを抱えて震える、一人の怪物の残骸だけだった。


廊下を歩く私の足音は、驚くほど静かで、軽やかだった。

大理石の床に反射するシャンデリアの光が、私のドレスの裾を銀色に照らし出している。


耳元のインカムから、佐久間の楽しげな声が再び響く。


《マスターデータ『Blessing_for_Rino.mp4』の最終トラックに、今録音したばかりの音声をドッキング完了。レンダリング終了。式場メインプロジェクターおよび配信サーバーへのスタンバイ、オールグリーンだ。……さあ、パーティーを始めようか》


「ええ」


私は胸元に手を当て、前を見据えた。


向かう先は、帝国グランドホテル大宴会場『鳳凰の間』。

百二十名の参列者と、三十万人を超えるフォロワーたちが待つ、あの光り輝く処刑台。

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