第36話:純白のウェディングドレス
二月十五日、日曜日。
雲ひとつない冬晴れの青空が、東京の摩天楼をどこまでも高く、澄み切った光で包み込んでいた。
かつて一周目のあの日、私の命を無慈悲に奪い去った冷たい土砂降りの雨とは対照的な、あまりにも皮肉で、あまりにも残酷なまでの晴天。
千代田区の一等地に聳え立つ『帝国グランドホテル』の最上階。
眼下に皇居の深い緑と都心のビル群を見渡す、もっとも贅を尽くした特別新婦控室――ロイヤル・ブライズルームには、暖房の熱気と百合の花の濃厚な芳香、そして息の詰まるような香水の匂いが立ち込めていた。
「ちょっと! チークの入れ方、下手くそすぎない!? もっと頬骨の下から斜めに入れてって言ったじゃない! 顔が丸く見えたらどうすんのよ、今日何万人に見られると思ってんの!?」
三面鏡の前に座り、ドレッサーの天板をバンと叩いてヒステリックに怒鳴り散らしていたのは、本日、花嫁として壇上に上がる真壁莉乃だった。
手元を狂わせた専属の女性メイクアップアーティストが、青ざめた顔で「も、申し訳ございません、真壁様……直ちに修正いたします」と頭を下げる。
だが、莉乃は舌打ちをひとつ鳴らすと、フィッターが跪いて整えていたドレスのトレーンを足先で乱暴に蹴飛ばした。
「ファンデももっと厚く塗ってよ! 目の下のクマが隠れてないじゃない! プロのくせに何やってんのよ、使えないわね!」
罵声を浴びせかけながら、莉乃は鏡の中に映る自分自身の姿を、陶酔と執着が入り混じった瞳で見つめ直した。
その身に纏っていたのは、父・宗治の退職金五百万円の前借り分から惜しげもなく注ぎ込まれた、数百万円を下らない特注のオートクチュール・ウェディングドレスだった。
フランス製最高級リバーレースを幾重にも重ね、胸元にはスワロフスキークリスタルが星屑のように散りばめられている。
頭上には、老舗ジュエラーからレンタルした数千万円相当のダイヤモンドティアラ。
左手の薬指には、航太に泣きついて買わせたハリー・ウィンストンの大粒のダイヤが、ギラギラと眩い光を放っていた。
第32話で、航太から包丁を向けられてハイブランドのバッグをズタズタに切り裂かれ、警察沙汰寸前の修羅場を演じた痕跡など、彼女の顔からは綺麗さっぱり消え去っていた。
あるのはただ、「今日、私は世界で一番祝福されるプリンセスになる」という、肥大化した自己愛の熱狂だけ。
「まあまあ、莉乃ちゃん、そんなに怒ったらお顔にシワが寄っちゃうわよ」
ソファの上で、紫色の派手な留袖に身を包んだ母・恵津子が、上機嫌でシャンパングラスを揺らしながら口を挟んだ。
恵津子の胸元には大粒の模造パールのネックレスが光り、その表情は「真壁家の大勝利」を確信した者の、下品極まりない優越感に染まり切っていた。
「でも本当に綺麗よ、莉乃ちゃん! まるでおとぎ話のお姫様だわ! 天下の東都広告のエリートディレクターを射止めて、帝国グランドホテルのロイヤルスイートで披露宴だなんて……真壁家の末代までの誇りよ! お父さんの退職金五百万円なんて、航太さんの将来のお給料ですぐに何倍にもなって返ってくるわ!」
「当たり前じゃない、お母さん」
莉乃は鏡の中の自分に向かって、満足げに微笑んでみせた。
「あんな器の小さい男、莉乃の美貌とフォロワー三十万人の影響力で、一生手の平の上で転がしてやればいいのよ。式さえ挙げちゃえば、向こうのお屋敷のクソババアだって莉乃に手出しできなくなるんだから。……あーあ、あの地味なお姉ちゃん、今頃どんな顔して親族席に座るのかしらね?」
莉乃の口元に、ねっとりとした嘲笑が浮かび上がった。
「高卒で、家政婦みたいに実家の台所に縛り付けられて、男にも相手にされない根暗女。莉乃が全部奪ってあげたおかげで、今日、あいつの負け犬人生が完全に確定するのよ。莉乃の感動スピーチを読まされる時、あいつ、悔しすぎて泣き崩れちゃうんじゃないかしら? あはは!」
母娘の濁った笑い声が、ブライズルームの豪奢な壁に反響した。
――トントン。
その時だった。
控室の重厚なマホガニーの扉が、控えめに、けれど極めて整ったリズムでノックされた。
「どなたですか?」
介添人のスタッフが扉を開けると、そこにはホテルのフロアマネージャーが恐縮した様子で立っていた。
「失礼いたします、新婦様。……挙式前の親族確認のため、新婦のお姉様がご挨拶にお見えになりました」
「は? お姉ちゃん?」
莉乃は眉をひそめ、あからさまに不機嫌そうな顔を作った。
「あいつ、本当に来たんだ。……まあいいわ、中に入れなさいよ。私の最高のドレス姿を前に、土下座でもさせてやるから」
マネージャーが一礼して引き下がり、開け放たれた扉の向こうから、静かにひとつの足音が入ってきた。
カツン、カツン。
乱れのない、凛としたヒールの音。
部屋に入ってきたその姿を目にした瞬間――控室の中にいたメイクスタッフやフィッターたちの息が、一斉に止まった。
「……っ!?」
莉乃の瞳が、驚愕で見開かれた。
そこに立っていたのは、莉乃が頭の中で思い描いていた「惨めで、みすぼらしく、肩をすぼめて震えている負け犬の姉」では、断じてなかった。
私の身を包んでいたのは、シックで洗練された、アイスグレーのシルクオーガンジーが揺れるロングフォーマルドレスだった。
肌を過度に露出することなく、デコルテのラインを美しく引き立てるスタンドカラー。
ウエストから流れるようなプリーツは、一歩踏み出すたびに朝の光を吸い込んで、銀色の月光のような繊細な光沢を放っている。
耳元には、アンティークの極小プラチナと芥子パールのイヤリングがひとつ。
髪は後ろで夜会巻き風に結い上げられ、後れ毛ひとつ落ちていない。
派手な装飾など、何一つ身につけていなかった。
だが――『Noir』での家具修繕や空間デザイン、そして自らの城『Atelier Shiori』を手に入れたことで培われた、揺るぎない知性と自立の気品。
その凛とした佇まいは、数千万円のダイヤやクリスタルで無理やり飾り立てられた莉乃のけばけばしさを、言葉を発する前から、完全に、圧倒的な質感の差でねじ伏せていた。
「な……っ」
莉乃の唇が、屈辱に震えた。
なぜ?
どうして、あの地味で根暗だった姉が、これほどまでに洗練されたオーラを纏っているのか。
親族席の端で縮こまっているはずの女が、まるでヨーロッパの小国の若き貴婦人のように、静かで侵しがたい光を放っている。
恵津子もまた、目を丸くして言葉を失っていた。
「し、栞……!? あんた、その服、どこで手に入れたのよ!? レンタル!? 身の程知らずにそんな高そうなドレスを着て……!」
私は恵津子の狼狽した問いかけには一瞥もくれず、ただ静かに、優雅な角度で両手を前で揃えた。
そして、三面鏡の前の莉乃へと視線を向けた。
「ごきげんよう、莉乃ちゃん。……とても、華やかなドレスね」
私の声は、氷の結晶のように澄み切っていた。
皮肉も、怒りも、嫉妬も混ざっていない、完全なる無機質の響き。
莉乃はプライドを激しく逆撫でされ、立ち上がろうとしたが、ドレスの重みで足元をもたつかせ、ドレッサーの角を掴んで辛うじて体勢を支えた。
「な、何よその態度! 親に向かって挨拶もできないわけ!? だいたい、主役は私なのよ! 新婦の姉のくせに、そんな目立つ格好してくるなんて非常識じゃないの!!」
金切り声を張り上げる妹に対し、私は動じることなく、静かに微笑んでみせた。
「目立とうなどという意図はありませんよ。妹の晴れ舞台に泥を塗らぬよう、親族として恥ずかしくない装いを選んだだけです。……それより、莉乃ちゃん」
私は一歩、莉乃の前へと歩み寄った。
そして、周囲のスタッフや恵津子に聞こえるよう、殊勝で健気な姉の声色を使って、そっと言葉を紡いだ。
「式の直前の慌ただしい時間に、突然押しかけて申し訳ありません。……どうしても、挙式が始まる前に、姉として一言だけ、莉乃ちゃんに直接お祝いを伝えたかったのです。二人きりで……少しだけ、お話しさせていただけないかしら?」
「は……? 二人きり……?」
莉乃の眉がピクリと跳ね上がった。
一瞬の警戒。
だが――次の瞬間、莉乃の歪みきった自己愛が、都合のいい解釈を脳内に弾き出した。
(そうか……。こいつ、やっぱり耐えられなくなったんだわ。
大勢の前では強がって澄ました顔をしてるけど、本当は航太さんを奪われて、最高の結婚式を見せつけられて、悔しくてたまらないのね。
二人きりになって、莉乃に情けを乞うつもりなんだわ。『式で恥をかかせないで』って、泣きついて謝る気なんだ!)
莉乃の瞳の奥に、下品でサディスティックな愉悦の光がギラギラと灯った。
姉を完全に屈服させ、その涙と絶望を間近で独占して味わいたいという、底なしの略奪欲。
その欲望が、私の仕掛けた「人払いの罠」を、莉乃自らの手で完璧に作動させたのだ。
「……いいわよ」
莉乃は意地悪な笑みを浮かべ、ドレッサーの前の椅子にドカリと腰を下ろした。
そして、周囲のメイク担当とフィッターたちに向かって、顎をしゃくって命じた。
「あんたたち、全員外に出てて。お姉ちゃんがどうしても私にお祝いを言いたいらしいから。……お母さんも、ちょっとロビーでお父さんと待っててよ」
「え? でも莉乃ちゃん、もうすぐ開宴の時間よ?」
恵津子が不満そうに眉をひそめたが、莉乃は「いいから早く出てってよ!」と甲高い声で一喝した。
「かしこまりました。十分前にお呼びに参りますので」
スタッフたちは莉乃の横暴な態度から逃れるように、足早に控室を出ていった。恵津子も「もう、我儘なんだから」とぼやきながら、廊下へと退席していく。
重厚なマホガニーの扉が、バタンと閉まった。
そして――。
莉乃は立ち上がると、ドレスのトレーンを引きずりながら扉へと歩み寄り、自らの手で鍵を内側からカチャリと閉めたのだ。
二重ロック。
完全なる密室。
(……完璧ね)
私の心の中で、冷徹な秒針がカチリと音を立てた。
一周目のあの日と同じ。
周囲から隔絶された、誰の目も届かない二人きりの空間。
莉乃は自らの優越感に酔いしれるあまり、自らの手で、この部屋を「逃げ場のない処刑場」へと仕立て上げたのだ。
莉乃はゆっくりと振り返った。
その顔には、先ほどまでの「可憐な花嫁」の面影など、微塵も残っていなかった。
唇を吊り上げ、目を細め、獲物を追い詰めた獣のような邪悪な笑みを浮かべて、私へと歩み寄ってくる。
「ふふ……あはは! 鍵、かけちゃった♡」
莉乃は腕を組み、私の周囲を舐め回すように見つめながら嘲笑った。
「わざわざ二人きりになりたがるなんて、何なの、お姉ちゃん? 悔しい? ねえ、本当は悔しくて死にそうなんでしょ!?
見てよ、このドレス! このティアラ! 帝国グランドホテルのロイヤルスイートよ! 参列者は東都広告の重役やエリートたちばかり!
お姉ちゃんが一生かけても足を踏み入れられないような最高の場所で、私は今日、航太さんの妻になるの!」
莉乃は左手を突き出し、ハリー・ウィンストンのダイヤを私の鼻先へと突きつけてきた。
「航太さん、毎晩私のこと抱きしめて『愛してる』って言ってくれるわよ? お姉ちゃんのことなんて、『地味で手のかからない、一人でも生きていけるつまらない女』だって笑ってたわ!
お姉ちゃんが一生懸命育てたフォロワーも、お姉ちゃんが狙ってたエリート男も、ぜーんぶ莉乃のもの!
お姉ちゃんはね、一生私の引き立て役として、日陰で惨めに指をくわえて見てればいいのよ!!」
唾を飛ばしながら、勝ち誇る莉乃。
姉からすべてを奪い去り、自分が世界の頂点に立ったのだと信じ切っている、空っぽな寄生虫の絶頂。
だが――。
私は身じろぎひとつしなかった。
表情を崩すこともなく、眉を動かすこともなく。
ただ、絶対零度の静寂を湛えた瞳で、目の前で踊り狂う哀れな道化を見下ろしていた。
私の胸元。
アイスグレーのドレスの左胸に添えられた、銀糸で編まれた小さなコサージュ。
その繊細な花弁の奥深くに仕込まれた、佐久間湊特製の極小指向性ピンマイクが――莉乃の吐き出す一言一句、その悪意に満ちた声の波形を、ホテルの地下駐車場に停められた機材車へと、クリアなデジタル信号でリアルタイム送信し続けていた。
「……言い残したことは、それだけかしら?」
静かな、私の問いかけ。
莉乃の笑みが、ピクリと凍りついた。
泣き崩れるでもなく、悔しがるでもなく、ただ冷淡に自分を見据えてくる姉の態度に、莉乃の胸の奥底で、得体の知れない恐怖がチクリと疼いたのだ。
「な……何よ、その偉そうな口の利き方は! 負け惜しみ言ってんじゃないわよ!」
「負け惜しみ?」
私はふっと、怜悧な微笑みを浮かべた。
「莉乃ちゃん。あなたが手に入れたものは、本当に『幸せ』なのかしら?」
「は……?」
「毎晩、掃除も洗濯もできないと罵倒され、包丁を持ち出されて怯えるタワーマンションの生活。
由緒ある格式を振りかざし、あなたを一族の汚点として見下すお義母様。
会社の金を横領して見栄を買い、あなたを支配しようとするモラハラの夫。
そして……お父さんの三十年間の労働の結晶である、五百万円の退職金をドブに捨ててまで設えられた、この張り子の結婚式」
私は一歩、莉乃へと歩み寄った。
逃げようとする莉乃の視線を、私の瞳が逃さない。
「あなたが手に入れたのは、幸せなんかじゃないわ。……他人のものを奪わなければ自尊心を保てない、あなたの底なしの強欲が招いた、逃げ場のない【呪い】よ」
「な……っ、なんなのよ、あんた!!」
莉乃の顔が、恐怖と激怒で真っ赤に沸騰した。
もっとも触れられたくない現実。
自分が目を背け続けてきた地獄の実態を、完璧に暴き立てられた屈辱。
理性のタガが、音を立てて粉々に砕け散った。
「私が……私が不幸だって言うの!? ふざけないでよ!! 私は勝ったのよ! 航太さんを手に入れて、セレブになったのよ!!
あんたに何が分かるのよ! 高卒の、引き立て役の、出来損ないのくせに!!」
莉乃は狂乱し、ティアラが傾くのも構わず、両手を振り上げて私へと詰め寄ってきた。
そして――。
その充血した瞳の奥に、ドス黒い、殺意の炎がボッと燃え上がった。
一周目の、あの夜。
非常階段の踊り場で私を突き落とした瞬間と、まったく同じ――怪物の目。
莉乃は歯を剥き出しにし、震える声で、決定的な呪詛を吐き捨てた。
「お姉ちゃん……本当に、目障り」
莉乃の指先が、私の胸元へと向けられる。
「あんたさえいなければ……あんたさえいなければ、私は完璧だったのに!
死ねばいいのよ……! 一周目みたいに、消えてくれればいいのに!!」
一周目。
その禁断の単語が、自らの口から飛び出したことすら、理性を失った莉乃は気づいていなかった。
控室の空気が、破裂音を立てて凍りついた。
私の耳元に装着された、髪に隠れた極小インカムから、佐久間湊の冷徹な声が小さく響いた。
《……音声ログ、完全に拾った。最高の発火剤が手に入ったよ、栞ちゃん》
私の唇の端が、三日月のように吊り上がった。
舞台は、整った。
自らの口で罪を告白し、自らの手で退路を断った花嫁。




